周瑜嬢

14、結局誘拐して逃亡しちゃってますから(by魯粛)

 手を繋いで静かな街並みを駆け抜けて、二人して迷うことなく細い路地裏に飛び込み、同じ仕草で辺りに人気のいないことを確認した。全く示し合わせたわけでもないのに、魯粛は周瑜と同じ方向に鋭い視線を走らせ、周瑜が魯粛を意識したのと同じく、魯粛も周瑜を意識したようだった。
 撒いた。誰も追ってきてはいない。緊張が緩み、その瞬間魯粛が弾けるように大笑いを爆発させた。つられて周瑜も笑ってしまう。こんな風に、子供のように心の底から笑うのは、一体何年ぶりだろう。少なくとも向こうの世界で孫策が殺されてから、素直に笑ったことなど一度もない。
 向こうの世界の魯粛は、周瑜にとって親友だった。それも孫策とは正反対の、別の種類の親友だった。
 果敢で無謀な孫策は、吹き抜ける風のごとき強さを周瑜に見せつけ、同じ果て無き地平に目を向けさせた。周瑜は周瑜で、断崖の淵を目を瞑って駆け抜けるが如く危なっかしい孫策に、足りないものを与えてきた。二人の仲は、正反対なゆえに互いになくてはならない補完的な関係で、ゆえに一心同体だった。
 魯粛は違う。その豪放磊落な性格も、はるかな野望も、孫策に通じるものを持っている。しかし本質的に、魯粛は周瑜により近しい。何不自由ない富豪の家に育ち、また世界をあまりに遠くまで見渡す才を与えられてしまった魯粛には、孫策のように死地に身を翻すような無謀を冒すことは絶対に出来ない。ゆえに、魯粛は周瑜の助けなど必要としない。ただ二人はお互いの考えを、手に取るように理解しあえた。
 魯粛の三国鼎立と周瑜の二国並立。終年の二人の構想に小さな行き違いが生じたのは、魯粛が周瑜よりほんの少し情に厚く、またちょっとばかり現実的だっただけだ。魯粛は一度は手を携えた劉備や諸葛亮を倒したいとは思わなかったし、また魯粛は、呉が蜀を併呑することが難しいと考えた。
 周瑜が呉で、あらゆる意味で対等に笑い合えたのは、魯粛一人だけだったのだ。
「こんな状況なのに、おかしくってたまらない。なんかユキちゃん、初めましてな感じじゃないよ。こんなに美人なのに、まるでドキドキもしないし」
 当たり前だ。魯粛とは、通算何年付き合ってきたと思っている。まだ笑いを収めきれない様子の魯粛に向けて、周瑜は不敵に笑ってみせた。
「さあ、これからどうするんだ、魯粛。まだ策や権や、マフィアの手下たちが私たちを追ってきてる。自分で考えろよ。協力はしてやるが、捕まって痛い目に合うのはお前だからな」
 周瑜の言葉に魯粛は一瞬笑みを凍らせ、また蹲って爆笑した。
「ひでぇ、ユキちゃんさえその気にならなければ、こんなコトを荒立てる気なんて全くなかったのに!」
 笑いしゃっくり交じりに、魯粛は事前に考えていたという二つの戦略を説明した。一つは、周瑜を通じて孫ファミリーに紹介してもらおうという、穏健案。もう一つは、周瑜を人質にして孫ファミリーに面通しを要求するという、過激な案。条件として、もし周瑜が魯粛の才覚を見抜けるほどに賢明な人物なら前者を、逆にその価値を理解できない愚昧な人物なら後者の戦略を採用するつもりだったという。魯粛自身が有能だということが前提条件となっている戦略の不遜さが、いかにも魯粛らしくて、周瑜は笑ってしまった。
「結果として頼みの綱のユキちゃんは、僕を一瞬で見抜くほどに頭が回るくせに、本質的に馬鹿だったわけだ。結局誘拐して逃亡しちゃってますから、そのまま第二案を遂行しますけど、意見反論文句ありますか?」
 いたずらに見上げる魯粛の目に、周瑜は抑えきれずにんまり笑って、一度首を横に振った。
「よし、よろしく。ユキちゃんの保護者たちはまだしばらく徐州町を探すだろうから、僕らは一気に本丸を攻めようか」
 立ち上がり、魯粛はまた無造作に、周瑜の手を掴まえた。



 平日の真っ昼間から、孫堅は自宅のリビングのソファーに寝そべって、テレビを眺めていた。チャンネルは九、地方局テレビ三国。著作権無視のコピー番組で有名な地元テレビ局だ。マイナーな上、怒る気も失せるほどあからさまで出来が悪いため、クレームは今のところどこからも来ていないらしい。
 テーブルでは、末の子の匡が大人しく宿題をしている。今日は娘の高校の編入試験の日で、妻は落ち着かない様子で家の中をうろうろしていた。他の子たちは、それぞれ思い思いに出掛けている。
 漫然と画面を眺めていたら、つい先ほどまで徐州町で暴力団の一味が民家に立てこもっている中継をしていたはずが、ブラウン管の中では、いつの間にかグラサンの中年が踊っている。携帯電話のバイブの物真似はおもしろい。番組自体は、昼時は概してつまらない。
 河北町の警察署から出動していたお巡りたちが、先ほどまで大挙して、一件の民家を包囲していたのだ。仲が良いわけではなく、むしろ敵対関係だが、面識のある人物の家だった。徐州町の町内会長の家だ。徐州町と南で接する江南町の町内会長をやっている孫堅は、集会の席にて、その陶謙としばしば町を上げての全面戦争勃発寸前の諍いを起こしてきた。
「いいかも!」
 中年の男に電話を受けた、テレビの中の若いアイドルが答えた。明日の番組出演を応諾したらしい。なかなか綺麗な顔で、孫堅の新しい上の娘に少し似ている。だがやはり、孫堅の娘のほうがずっと美人だった。親のひいき目ではなく、明らかに纏う空気が違うのだ。人形のような端正な作りもさることながら、まずユキには輝くばかりの気品がある。尚香だってまだ幼くてお転婆だが、ユキと一緒にいれば、必ずおしとやかな娘になるはず――なってくれるかも、と思っている。孫堅の娘は、長女も次女も、お姫様なのだ。ああ、なのにユキはなぜあんなことを。男の子ならいざ知らず、娘たちは絶対に自分の世界には引き込みたくないのに。
 垂れ流れる思考の末に懊悩していると、不意にテレビ画面の上部、『笑ったっていいかも!』の看板に重なって、白い字幕速報が入った。
――午後零時四十五分、河北町のほぼ無人の警察署を何者かが急襲。犯人グループは旧董卓組系指定暴力団の元組員、呂布ら数人と見られる。市は徐州町に出動中の警官隊を一時河北町に戻す措置を取った模様。
「……お」
 孫堅は思わず声を上げて、身を起こす。これまでの展開も十分好ましかったが、呂布が動くとなると、なおおもしろくなる。速報では大層長い肩書きがついているが、呂布はようは、自分の所属する組織の組長を暗殺して脱走した、今は流れのチンピラだ。
 呂布のお陰で組織は瓦解し、かつて市内一の強勢を誇った董卓組には『旧』の一字がつくようになった。呂布自身、『元』組員になり下がっている。
「お父さん、暴力団なんて馬鹿だよね。なんであんなことするんだろう。もしもだけど身内にいたらさ、恥だよね。外歩けなくなるよ。僕は絶対、大人になったら、公務員になることに決めてるんだ」
 テレビ画面から目を戻し、匡は小学校の算数の教科書を開いて黙考する。無邪気な匡を見て、孫堅は思わずだらしなく目尻を下げてしまった。
「そうだな、父さん、匡ならきっと立派な役人になれると思うよ」
 長男にはすっかり自分の稼業がばれているようだし、次男は複雑すぎて理解に苦しむ。三男の翊は素直な子だが、気短で学業も芳しくない。息子たちのうち一人くらい、せめて末の匡にだけでも、真人間になってもらえたら。それは孫堅の切なる親心でもある。
 ソファーに今度はうつ伏せに身を倒してみた孫堅は、息子たちの未来絵図から、再び徐州町へと思いを馳せた。
 徐州町は、警察隊の侵攻、さらに西の巴蜀町に支部を置く関西系の暴力団の介入もあり、治安は最悪になっていた。孫堅たちはその引き金を引いただけ、いや引き金さえも引いていない。手を下したのは、――愛娘のユキだった。
 徐州町は知識人や富豪の宝庫だった。そんな彼らが難を逃れ、ここ数日だけでもう何人も江南町に越してきている。
 先日は近所に張紘という職業『マルチ作家』が越してきて、呉夫人が近所の主婦たちと連れ立ってサインをもらってきていた。生業はよくわからないが、ハーバード大学に留学していた有名人で、数冊詩集も出しているらしい。つい先ほども、張昭というテレビ三国の『タケルのテレビスライディングタックル』にもしばしば出てくるコメンテーターが、近所に越してきたのじゃが就職を世話してもらえんか、と菓子折りを持って挨拶にきたりした。
 あとは徐州町一の富豪、魯家が江南町に来てくれないかなぁ、町内会費も弾んでくれるだろうに、なんて取らぬ狸の皮算用までしてしまう孫堅だった。
 さてしかし、いいことばかりではない、心配事もある。そんな徐州町に偵察に遣っている、部下たちからの報告がなかなか上がってこないのだ。なにかしくじったのだろうか。本来ならばこちらから電話を掛けてどやしつけるところだが、今回は半ばブライベートな事情が絡んでいるので、そうそう強くも出られない。
 娘が、ユキが、暗殺だけでは飽き足らず、親に内緒で道草を食っているらしいのだ。どんどん不良になっていく。それどころか、ユキはテレビアイドル顔負けの美しい娘だ。どんな悪いやつに、誘拐されてしまうかもわからない。
 部下四人には、徐州町の偵察のついでに、ユキの尾行を命じてある。孫堅は任務の失敗には寛大だ。誰にだって失敗はあるし、失敗は成功の母だ。だがもしもユキに何事かあれば、四人まとめて半殺しと決めている。
 ピーンポーン。
 家のチャイムが鳴って、孫堅は顔を上げた。また引越しの挨拶かもしれない。富豪の魯家が避難してきたのかもしれない。
「匡は勉強していなさい、父さんが出るから」
 立ち上がろうとした匡を制し、孫堅は自分で玄関に向かった。


 孫堅が玄関を開けると、お姫様が立っていた。
「ユキちゃん、遅かったね。おかえり」
 努めて、父としての威厳と理性の全てを動員して、孫堅は厳かに口にする。だがどうしても緩んでしまう目尻と口許は、いくら顔筋に力を込めようとしても、制御が効かない。孫堅は、結局自分が典型的な娘バカの顔になっているのを、半ば諦め気味に自覚する。
「ただいま帰りました。伯父様、あの……」
 返ってきたのは、凛としたユキには珍しい、ちょっと甘えた声だった。どんなに可愛い娘でも、女の甘え声は危険だ。孫堅の、男としての長年の経験が、激しく警鐘を鳴らす。それに『伯父様』も悪くはないが、そろそろ『お父さん』と呼んでくれても構わないのに。
 しばらくは、きらきら輝くような娘の姿しか目に入らなかった。だがほっそりとした腕の先に、何か異物が繋がっているのにふと気が付く。
 男だった。髪の毛をクソ色に染めた、策と同じ程度の年頃の生っぴょろいクソガキが、ユキの小さな手を握っている。場を弁えない、軽薄この上ない顔で笑っている。
「ユキちゃんのお父さんですね?」
「貴様ごときにお義父さんなんて呼ばれる筋合いはない!」
「いえ、あの、返してほしくば要求を……」
「私の娘だ、貴様なぞにはやらん! 絶対にやらん!」
「えと、僕、魯粛っていいます。お金持ちだから仲間に入れて……」
「ユキちゃん、財産を鼻に掛ける男なんて最低だぞ! 父さんそんな見る目のない娘に育てた覚えはないからな! なにより、まだ高校生じゃないか! 絶対に、こればっかりはなんと言われようが許さんぞ!」
 クソガキは突然、ユキを後ろから抱きすくめ、首にチョークするように、金色の時計の光る腕を回した。
「おっさん、もしあんたが僕を認めてくれないなら……」
「他人の娘に何しやがる。誰がおっさんだ、このクソガキがー!!」
 話が噛み合わない。いや、合わせる気などない。そもそも聞く気もない。気安く孫堅の娘に触れた時点で、問答無用で有罪だ。その上父親の前で抱きついて見せるなどと、死刑でさえも生ぬるい。
 孫堅は、力任せにクソガキを殴り落とした。地面に急転直下して、クソガキの頭蓋骨が敷石に激突する音が高く響いた。
 その後は、よく覚えていない。
 ユキが、気絶したクソガキを抱きかかえて、おろおろしていた。呉婦人が二階から下りてきて、惨状を見られ、孫堅はしこたまどやしつけられた。匡がのんびり出てくると、救急車、とボソッと言った。
 匡の言葉に、孫堅も、呉夫人もユキも初めて事態を悟り、慌てて伸びたままのクソガキを家の中に運び入れる。
 こんな場所に救急車はまずい。公権力はいつだって、孫堅を逮捕する口実を探している。自宅で死人など、もってのほかだ。組織の壊滅に繋がる。
 結局クソガキこと、富豪の息子魯粛は、呉夫人とユキの介抱の甲斐もあり、若干の記憶の錯乱はあるものの、無事に意識を取り戻したらしい。
 後にして、肩を落として帰ってきた息子たちや部下たちの報告を聞き、とりあえず自分の行為は正しかったと、孫堅はほっと胸を撫で下ろす。
 失態を晒した部下四人は可哀そうなほどに怯えており、十分に反省しているようだったので、それぞれ全力の拳骨一発ずつで許してやった。二人はふらつきながらも耐えたが、二人はクソガキの魯粛同様に昏倒した。まるで修行が足りない。
 魯家ともなれば、いくらクソガキだったとしても、利用しない手はないだろう。
 孫堅は、この日初めてマフィアの顔になり、ニヤリと小さく笑みを浮かべた。



読んだよ!(拍手)
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