周瑜嬢

16、なお暗殺も禁止とする(by程普)

 黒板消しはあやまたず、ユキの形の良い頭のてっぺんに落ちて、艶やかな黒髪の上でぽふんとチョークの粉を舞い上がらせた。
 静かだった教室内から、どっと笑いが起こる。
 教室内には、まだ八人しかいなかった。女子が二人。男子が六人。
 ユキが鋭い視線で、ぐるりと教室を睨めまわす。教室の隅のほうの席に固まり、各々の過ごし方をしていた生徒たちは、睨まれると慌てて視線を外した。爆笑した男子生徒らは、かろうじて見返してきたが、ユキと目が合うと笑いを引きつらせた。
 関わろうとせず目を逸らしたのが、女子二人を含めた、四人。大笑いをしながら、睨まれるや笑顔を引きつらせたのが、三人。さして笑わず、睨まれて目が合ったところ、軽く口角を上げて不敵な笑みを見せた男が、一人。いたずらを楽しんでくれた、三人組に囲まれている。
 呂範はあえて教室には立ち入らず、事の成り行きを観察することにする。
 転入早々の洗礼、ユキは泣くだろうか。まさか。
 子供じみたいたずらなど、無視してしまうのが一番賢い。ユキの鋭い美貌でつんと澄まして席に着けば、それだけでさぞかし絵になるだろう。
 ユキは腰を屈め、黒板消しを拾い上げる。持ち手に白い右手を差し込み、装着した。そんな仕草さえ、上品に見えてしまうものだから、このくらいの美人になると存在だけで卑怯かもしれない。
 ユキはそのまま、つかつかと男子グループの一つに歩み寄った。取り巻き三人を侍らせた、小太りの不良の前に仁王立ちになる。
 犯人当ては、正解だ。だけどその行動は間違い。やや失望を覚えながら、呂範は少女の後姿を眺めている。細い肩に、長い黒髪が流れている。
 いたずらをされて、怒る権利はあるだろう。しかし無鉄砲な正論で生き残れるほど、蟲壷の生存競争は甘くはないのだ。
 孫策の従兄弟――愈河――は、孫策以上に短気で喧嘩っ早く、相手が女であろうと身内以外には容赦がない。造りの何もかもが繊細にすぎる、ユキの華奢な身体では、愈河にかかれば簡単に壊されてしまいそうだった。
「ああ?」
 愈河の低くドスの効いた声。
 さてユキがどうするだろう。
 ユキは黒板消しを装着した右手を上げ、軽くテイクバックをとる。次の瞬間、スナップを効かせ、ユキは愈河の頬を叩いていた。
「な、げほっ……」
 舞い上がる粉塵に咳き込みつつ、愈河は立ち上がろうとする。ユキは、机を蹴り倒した。たぶん、角度によってはスカートの中身が見えただろう。体勢のなっていない愈河は、机と一緒に崩れ落ちる。
 机に足を掛けたまま、机を介して愈河を踏みつけにするような体勢をとったユキは、
「歓迎ありがとう。周瑜だ。仲良くしてくれ」
 涼やかな声音で挨拶をした。
 愈河は茫然自失。無傷の取り巻きたちも、完全に腰が引けてしまっている。電光石火、問答無用で圧倒した、ユキの圧勝だった。
「愈河の負けだね。江南男児が、根に持ったりするなよ」
 拍手を打ちながら、呂範もようやく教室に踏み入った。
 視線が呂範に集まって、教室の緊張が緩まった。ユキは机から足を外し、綺麗な顔に気まずそうな照れ笑いを浮かべる。愈河は呂範と目が合うと、机を抱きしめたまま眉根を寄せて逡巡し、やがて諦めたように苦笑した。
 短気で乱暴、それでもさっぱりしているところが、愈河のいいところだ。


 二年A組は、印象としてほぼ一年次の繰り上がりだった。
 実際の繰り上がりは十人程度だが、一年次に結成された『孫策軍団』がその中にほぼ集結している。
 愈河、陳武、凌操、董襲、賀斉。みんな喧嘩っ早く、ついでに成績が悪い。
 虞翻、秦松、陸績。ここらへんは性格に癖があって、頭がべらぼうにいい。
 孫策は理事長の息子だ。これだけ集まってしまうのは、人為的な影を感じないではない。しかしそんなことは、呂範の気にすることではないだろう。
 呂範自身は、平和主義者で成績は平均、性格も至極素直と思っている。喧嘩部隊とも、秀才軍団とも仲がよく、両方から狩り出され、ようは便利屋さんのポジションだ。
 チャイムが鳴って、おりよく遅刻の孫策が駆けてきて、見事頭に仕掛けてあった黒板消しが直撃した。
 孫策軍団を中心に、爆笑が起こる。
 孫策は教室をぎろりと見渡し、まずは愈河を机ごと蹴り倒し、逃げ遅れた陳武を捕まえ、スリーパーホールドを掛けた。五秒ほどで、大柄な陳武が白目を剥いて崩れ落ちる。
 凌操、董襲、賀斉が、慌てて席を立って逃げたのを見て舌打ちすると、孫策は今度は呂範の元にやってきた。
「で、オレ様に弓引いた犯人は誰だ? 虞翻が怪しい気がする、こういう下らない命知らずは、あいつしかいない」
 呂範はちらりと虞翻を盗み見た。聞こえよがしな孫策の言葉にも、虞翻は涼しい顔だ。今回に限って虞翻は無実だが、仮に虞翻がやったとしても、彼は余裕でポーカーフェイスを守るだろう。なんとも形容しづらいが、そういう奴だ。
「さあ、見てなかったよ。虞翻じゃないと思うけど」
 呂範は首を傾げ、言葉を濁した。そもそも犯人が分からないうちに、孫策は愈河と陳武を潰したらしい。
「へえ、呂範がオレに楯突く奴を庇うのか?」
 孫策は、少し目を細めて口角を緩めた。なぜか怒りは収まったらしく、チョークの粉を被ったまま、空いた席へと向かっていく。途中呂範の後ろの席、茶髪の男子の頭を、思いついたかのように殴っていった。可哀想に、理不尽極まりない。
 男女混合の名前の順になっているので、孫策はラ行の呂範からはかなり離れた、窓際後ろの席に着いた。サ行、名字が周のユキも窓際の列だ。孫策の席は、ユキの二つ後ろだった。
「ユキ、ひどいじゃん。朝、オレも起こしてくれればいいのに」
 間に席を一つ挟んでいる分、声を潜め切れないらしい。暴君孫策からは想像もつかない、間抜けな猫なで声が呂範まで届く。
「ばーか」
 ユキの抑えた綺麗な声が、孫策に応える。
 ちなみに黒板消しの罠を仕掛け直した真犯人。彼女は孫策の一つ席を挟んだ目の前で、頬杖をつき、何も知らないかのようなポーカーフェイスで座っている。


「遅刻、サボり、喧嘩、くだらん悪ふざけ、校則を守れない者は俺が容赦なく制裁を加える」
 チャイムが鳴って五分ほど遅れて、二Aの担任が現れた。
 鬼の体育教師こと、程普先生。やけに太く長い、木刀を常備している。この先生とも、二年続けての付き合いとなる。
「茶髪も許さん、明日までに染め直せ!」
 突然呂範に向けて声を張り上げたので、思わず心臓に来た。
 地毛でーす。後ろの席から声が上がる。どうやら呂範にではなく、後ろの茶髪が怒鳴られたらしい。それにしても、後ろの席の奴もずいぶんな度胸がある。程普先生の恐ろしさを知らないのだろうか。非道極まりない制裁宣言も、程普の場合は脅しではない。
「貴様の頭に生えた汚らしい藁、後で毟り取ってやるから覚悟しておけ」
 木刀でどんと一つ、床を突く。程普は目を見開き、三白眼になってにたりと笑った。ヤクザだった。二Aの担任は、どう好意的に見ても極道だった。
 す、すいません……。後ろの茶髪も気圧され、蚊の鳴くような声で謝罪を漏らす。
「なお」
 おもむろに接続語を一つ口にして、程普はくるりと窓側の席に顔を向ける。孫策やユキの座っているあたりだ。
「暗殺も禁止とする」
 冗談だろうか?
 見開いた三白眼のまま、鬼担任は口許の笑みまで消してしまい、笑う空気を作ってくれない。むしろこれから戦いでも始まるかのような、鬼気迫る形相だ。教室はしんと静まったままになる。
 孫策は真顔で程普を見据え、ユキは興味なさげにふいと視線を外してしまった。
「始業式が終わったら、ホームルームだ。委員長を決めて、席替えをする。俺は結果だけ聞くから、貴様らで自由にやれ。以上、起立!」
 木刀をどんと床に一突きして、程普は号令を発した。
 教室は緊張感が漲っており、生徒たちは規律正しく、ざっと一斉に立ち上がった。
「礼! 体育館に移動、押してるから急げ」
 自分が遅刻して現れたのを棚に上げ、担任が強圧的に命令する。
 呂範たちは一礼をし、新クラスの顔合わせは、とりあえずの解散となった。
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