ポドールイの人形師

2-10、黒い雪原

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 目の前のあまりの惨状に、リュックはおののくことすら忘れていた。
 硝煙のけぶる臭い。それに混じって鼻につく、別の、嫌な臭い。暗くて惨景はよく見えない。ただ、ほのかな雪明りがうっすら漂っていた雪原に、その部分だけは、切り取ったように黒く沈んでいた。野を染める黒い染料は、胃を捻るような強烈な臭いを発している。風が運ぶ錆びた臭気はしだいに強まり、しまいには、空中から血が滴り落ちてくるのではないかと思うほどだった。
 リュックは、片手の袖で鼻を押さえる。異臭漂う闇の中、半死半生の肉塊らしきものが折り重なり、もぞもぞと蠢いていた。筒を携えた味方の兵たちが怯えている。彼らは皆、ラウラン家、ひいてはロアンヌの帝国を支えてきた歴戦の勇者たちだ。剣を振るい、敵を屠って敵国からロアンヌを守ってきた。異教徒との戦いには人の形をした悪魔の使徒たちに、この悪魔狩りの筒を向け、ためらいもなく引き金を弾いてきた。ラウランの私兵団は、最前線で血を流し、流させ、生と死の狭間に生き、敵を殺してきた。死を常にそばにあるものとして享受し、それに何ら動じることのない、強き精神の持ち主たちだ。
 だが硝煙の匂いの立ち込める中、そんな彼らが怯え震え、一様に動揺している。彼らが筒を向けたのは悪魔ではない。彼らが殺したのは帝国の兵であり。そしてそれ以上に、彼らの行為は神への反逆だった。
「テレーズ様、どういうことです。誰がこんな……説明してください」
 指揮を預かったという義姉にリュックが詰め寄る傍ら、弟のラザールは早々に気を取り直し、放心状態の兵たちを鼓舞している。生き残りの敵兵たちを殺せ、陣に戻られては大変なことになる、と。兵たちは小斧や剣などそれぞれの武器をとり、のろのろとラザールの指揮に従った。血に染まった雪原を歩き、息の残る者の首を掻いてまわる。おそらく思考はしていまい。ただ体で覚えた戦後処理を、命ぜられるままにやっている。おぼつかない足取りで、のろのろと生者の首を刈って回る様は、まるで物語に出てくる、繰られし屍喰鬼の群れのように思えた。
 なにか言うべきか、止めるべきかとも思ったが、ここで司教としての意見を言ってもしょうがないような気がしたリュックは、口を噤んだ。ラウランが悪魔狩りの筒を人に向けたとなれば、言い逃れのしようがない。だが一人残らず口を塞げば、そしてここに雪が積もれば、もしかして全ては雪原の底に沈むのかもしれない。神の目をごまかすことは叶うまいが、兄の、ラウラン家の名誉は守りたかった。
「ごまかさないで。お願いします」
 この凄惨な状況を前に、リュックに迫られた兄嫁のテレーズは、いつものごとく複雑な微笑みを一つ造り、目を背ける。リュックはテレーズの細い肩を掴み揺さぶると、強引に顔をこちらに向けさせた。薄いドレスの布を伝う肌の温もりが熱すぎて、ひどく危うげに感じられる。白くなった柔らかな髪が揺れ、肩に乗ったリュックの手をふわりと撫でた。
「あの人たちは敵でしょう……」
 消え入るような声で、テレーズは一言そう漏らす。声に力はなかったが、何か否定を許さぬ意思を感じさせた。
「ええ、戦う必要はあったのかもしれません。しかし、なぜ筒を。これではもうラウランの罪を拭うことはできませんし、なにより神への反逆になります」
 テレーズが顔をしかめるのを見て、肩を握る手に力が入っていたことに気付く。頭一つも小さくか弱い女性に対して、力の調整ができないほどにリュックの感情は乱れていた。
「あなた、司教なら聖典について詳しいわよね。どう? 運命って、あるのかしら?」
 リュックの視線に少しためらうように間を取って、テレーズは言葉を紡いだ。
 ……聖書には、そのようなことは載っていない。だが聖書の中で、人間たちは幾度となく過ちを犯し、この世を楽園とする神の計画は阻まれた。神の子、メシアすら、その大いなる使命を果たす前に、ジュダの裏切り者に殺された。人は、必ずしも神の望み――それを運命と呼ぶのかはわからないが――に従っていたわけではない。
「人の意思は、神すらも及ばぬものです。ただ、神の意志に沿わぬなら、そこには破滅が待っています」
「優等生ね。ラヴェンナで、私も同じように習ったわ」
 神学校で習った文言を、そのまま口にしたリュックは、テレーズの言葉に少しバツの悪い思いをする。弥撒にも訪れたことのない彼女だから、ついぞ忘れてしまうが、テレーズは教皇庁の娘だった。
「でも、私は神様に嫌われているみたい。見ての通り、あなたのように幸せにはなれなかったわ」
 続けられた抑揚のない呟きは、どうやら皮肉のようだった。ただ同じく追われる身でありながら、あまり自分を不幸とも思っていなかったリュックは、テレーズの嫌味にもあまり腹が立たない。
「祈って、服従して、どうせ神様の掌で握りつぶされるなら。運命に逆らって、業火に焼かれるのも変わらない」
 あいかわらず視線を逸らし、感情のこもらぬ小さな声で。だが芝居がかったその言葉には、明確な意思があり、テレーズはどこか開き直っているようだった。
「悪魔に、魂を売り渡すとでも」
 リュックに肩を抑えられたまま、テレーズはゆっくりと、その腕を大きく広げた。薄いドレスの袖が冷たい空気を孕み、その様がいかにも寒そうだ。表情の読めなかった翠の瞳が空虚に移ろい、どこか自慢げな、艶やかな笑みが彼女の無表情だった仮面を覆う。
「私の後ろをご覧なさい」
 一瞬、言われるままにリュックは彼女の背景に焦点を投げるが、すぐに視線をテレーズに戻す。彼女の背後には、残酷な光景が広がっていた。
「敵は死に絶え、味方は誰一人傷ついていない。ラザールの剣だって、このように鮮やかにはいかないわ。ましてや神様なんて、頼ったところで、私たちを助けるどころか滅ぼそうとするだけよ」
 初めて見せた心の底からの感情に、幽霊のように存在感の薄かった兄嫁の、類稀なる美貌に気付く。昏い彩りでも、色さえ塗れば、息を呑むほどに美しい。
「悪魔が魂を欲しがるのならば、望まれるがままに差し出さん。例え神に見捨てられようとも、それで願いが叶うなら」
 悪魔と契約をした、ジュダの背約者の言葉をテレーズは引用した。メシアの死を望んだのか、神の世への反逆だったのか。不思議なことに、魂を売り渡してまで叶えられたジュダ人の願いは、今においても明としない。だが、悪魔の力でメシアは滅び、ジュダの民族は永劫の呪いをかけられた。雪原を切り取ったような暗い闇で、折り重なり苦しみうめく肉塊と、虚ろな死喰鬼たちの群れが蠢いている。もしこの光景がテレーズの願いだったなら、ラウランが呪われることは避けられまい。
「なんて顔をしているの。大丈夫。立ち塞がるのなら、倒せばよいのです。それが皇帝であろうと、たとえ神であろうと」
 茫然自失のリュックに向けて。笑みを湛えたまま、テレーズは強い語調で言葉を連ねた。皇帝へ、神への背信の悲壮は、感じられない。いつになく饒舌な彼女は、ただ興奮しているようだった。
「ところでリュック」
 テレーズは翠の瞳をキッと見開き、だしぬけにリュックの視線を射返した。
「司教さん。あなたも、私の前に立ち塞がるの?」
 リュックの顎下に冷たい筒口が突きつけられる。その引き金には、テレーズのほっそりと美しい指先がかかっている。いつもあいまいな微笑を浮かべるだけの義姉に、こんな思想があることは知らなかった。気が動転して、彼女が筒を持っていることさえ気付かなかった。兄ジネディは、テレーズに政治に口出しすることを許さなかった。兄は自分の妻のことを、一体どこまでわかっていたのだろう。
「ええ、あなたの思想は危険です。私とは、相容れることはできません」
 そう。ただそう言って、テレーズは今までにない、凄絶な笑みを浮かべた。その昏いながらも、息をつくほどの美しさに、リュックは見とれてしまいそうになる。
 カチャリ、と。引き金を弾いた音が小さく響いた。

 アンドレの筒は一度に一発しか弾を詰められない。案の定、テレーズの持った筒は玉が装填しなおされていなかった。引き金の空回る音だけが小さく鳴り、筒は鉛の玉を吐き出すことはしない。テレーズは訝しげに顔をしかめ、筒先を突き上げるようにリュックの顎下に付け直し、再び引き金を弾いてみる。それでも反応をしてくれない筒に、テレーズの美貌から血の気が引いて行くのを、リュックはどこか冷めた気持ちで見下ろしていた。
 筒が使い物にならないとようやく解したのだろう、彼女は筒を下ろし、上目遣いでリュックの顔を見上げてきた。真っ青な顔にわずかに媚びを込め、しかしそれも気にならないほど、控えめに微笑む。さすが親子だ。あまりに雰囲気が違ったため、ついぞ重ね合わせたことはなかった。しかしその表情は姪っ娘の、いたずらを見つけられたときに見せる表情にそっくりで、妙に懐かしい。この表情をするシシルを、自分もラザールもまともに叱れたことはなかったが……
「私を本気に殺そうとしておいて……そんな顔でごまかされるとでも」
 どっと気が抜けて、自分の声が震えてしまったのを感じる。しかしテレーズは、リュックのそれを怒りととったようだ。許してはもらえそうにないと悟ったやいなや、テレーズはあっさり可憐な笑顔を引っ込め、憤怒の形相に差し替える。奇声を上げながら、一度は下げたアンドレの筒で殴りかかってきた。
 上段から振り下ろされた撲撃を、リュックはなんとか右腕で受け止める。か弱い女の一撃とはいえ、全くの手加減ない攻撃は、さすがに腕に染みた。それでもリュックは力ずくでテレーズから筒を奪い捨てると、返すその手の甲で彼女の頬をしたたかはたく。
 少し赤らんだ片頬に手を当てながら、テレーズは固まり、わなわなと震えている。目に涙を溜め、なぜ自分がそんな目に合うのかわからない、とでも言いたげだ。まるで理不尽なことで叱られた子供のような彼女のその仕草に、リュックはどこか不条理な気まずさを覚える。
「本気で殺意を持たれたのです。私にもこれくらいのことをする権利はあるでしょう」
 そう言いつつ、リュックは今殴った手を、いたわしげに義姉の白い頬に持っていく。長く濃い睫毛を伝って、リュックの指に涙が零れる。この少女のごとき貴婦人は、自分よりも年上のはずだった。先ほどまでの悪魔のような豪胆さは、いつの間にか見る影もない。
「今回は、これで許してあげましょう。今度やったら、本気で怒りますからね」
 かつていたずらをしたシシルにしたように、おでこをくしゃっと撫でてやって、その時と同じ台詞を穏やかに言う。シシルの場合、『今度』は数度あったが、『本気』は一度も発動できなかった。さて、テレーズはどうだろう。幸い周りは忙しく、兄嫁の暴挙も、リュックが殴るのも、見ている者はいないようだった。これからどうするか、ラザールと相談しなければ。カロルを連れてくるのではなかった。こんな恐ろしい光景を見て、どれほど怯えているだろう。
 雪が降ってきた。罪を隠す、優しい雪だ。
 神の。いや、神のはずはないだろう。テレーズの契約した悪魔の思し召しかもしれない。
 神と王に逆らい、いま自分たちは血の雪原に立っている。残念ながら、大きな子供をじっくり諭してやっている場合ではなかった。
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