ポドールイの人形師

2-9、アンドレの筒

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 三頭の馬が、戦場へと駆けていた。
 夜に沈む広い雪原。谷を抜けてラウランの隠れ家が見えなくなると、あっという間に前後左右がわからなくなる。ラザールに迎えにきてもらわなければ、慌てて出てもとても目的地に向かうことはできなかったであろう。リュックは半馬身ほど後ろに娘のカロルを従えて、弟のラザールに先導を任せて駆けていた。
 ラザール・ド・ラウラン。リュックも背が低いわけではないのだが、一際大柄で、赤く焼けた顔に、頬から額にかけて大きな向こう傷を持ったこの弟は、ラウラン家でも異質の存在だった。
 消息の知れない、ラウラン家当主にして帝国の宰相だったジネディを筆頭に、ラウラン家は代々、国の執政に携わる文官を輩出してきた家柄だった。ラザールはそんな家の中、常々冗談まじりに、ラグナロワ家と生まれる家を間違えたと嘯いていた。異教徒との戦いで頬に名誉の負傷をし、先帝から英雄と彰されたラザール。そんな自分には、統帥の杖を握り軍を司る、ラグナロワ家こそがふさわしいと言うのだ。軽薄で、放蕩で、どうしようもない弟だ。だが情に厚く、逃亡軍となった自分たちも窮乏する中、兄ジネディや姪のシシルの行方が知れないことを最も嘆き、気にしているのは彼だった。
 次兄のリュックには、長兄のジネディよりとっつきやすい分もあってか、ラザールは大きな体でまるで子犬の様に懐いていた。リュックがパリスへ神学を学びにいくことを決めたとき、それまで軍人になると譲らなかったラザールが、黒いカーテンで身をくるみ、自分も僧侶になる! と宣言したのには、家中みんなで大笑いしたものだ。一念、本当にリュックに従って都の神学校へ入学してしまったラザールだったが、悲しいかな、ラザールほど聖職者に向かない人間もいなかった。彼は敬虔ではなかったし、パリスの都に溢れる誘惑に耐え得るほど忍耐強くも、それをごまかせるほど器用でもなかった。結局ラザールは、わずか一年で神学校を退学となってしまったのだった。
 さて、リュックとは道を違えてから、かねての念願どおりの立派な軍人へと成長したはずのラザールである。ただ単純と言うか、考えなしな性根は、いまもって変わっていないようだ。
「それで、どうして軍を指揮しているはずのラザール様がここにいるんですか?」
 顔に吹き付ける向かい風に負けないよう発せられた、大きな声。カロルが、ついに訊いてしまった。
 自分の背中越しにカロルが無邪気に尋ねるのに、リュックは一人顔をしかめた。カロルはラザールのことを知らないのだ。歓迎できる答えが、返ってくることはないだろう。もっとも、そうとわかっていても、誰かが訊かねばならない問いだったが。
「義姉上が来てね、指揮を代われ、って言われたんだ。身分は義姉上の方が上だろう、言うことを聞かないわけにもいかないからさ。だからリュック兄になんとかしてもらおうと思って戻ってきた」
 かわいいカロルの問いだったこともあって、だいぶ油断して、ラザールは大きな声で天に叫ぶように返事をした。冷たい夜闇に、白い息が大きく漂う。
「テレーズ様が? ではいったい、今は誰が指揮を執っているんだ?」
 ラザールの、予想しなかった答えに、リュックは思わず口を挟む。美しい、だが幽霊の様に影の薄い、兄嫁のテレーズ。彼女の実家、ダルジャントー家は、教皇庁のあるラヴェンナの旧名家だった。そこは戦争とは、まさに無縁の世界だ。決して、テレーズが世間知らずな籠の鳥だと言うつもりはない。彼女は、教皇の座を巡る政争に敗れ、このロアンヌに落ち延びたダルジャントー家の娘なのだ。そしてラウランに嫁いでなお再び、彼女は追われる身となっている。辺境の一司教に過ぎないリュックに比べて、テレーズははるかに世の悲哀を味わっているはずだった。
 だがそれにしても、剣を交える戦争に関しては、彼女は何の縁もないはずだ。そんな人が戦場に姿を見せたことだけでも不思議だった。それに、自分もラザールもここにいる今、文官の家であるラウラン家に、軍の指揮ができる者などいるのだろうか。
「いや、だから義姉上が、テレーズ様が指揮を執ってるんだって」
 さもあたりまえだと言わんばかりに。いかにも気楽な口調で、ラザールはそう言い放つ。予想の斜め上を行く信じられない答えに、リュックは怒ることも忘れ、黙してしまった。
「奥方様って、軍の指揮なんてできたんですか!」
 少し興奮したカロルの無邪気な声が響く。テレーズを『奥方様』と呼ぶのは、カロルが侍女としてラウランの本家に仕えていたからだ。
「さあ」
 雪明りを滲ませた夜闇に、あいかわらずの間延びするようなラザールの無責任な声が響きわたった。
 ……できるわけがない。神樹を構える、教皇庁の貴族の娘。戦とはもっとも縁遠い世界に生まれたテレーズに、軍の指揮などできるわけがないではないか。
 突如、大号砲の音が響いた。
遥かな戦場から轟く爆音の唱和は、鼓膜を破り、地を揺るがし、リュックを放心状態から目覚めさせた。馬が驚き暴れだす。リュックとラザールはなんとか宥めることに成功するが、カロルはあえなく落馬した。轟音はその後も断続的に数度続き、やがて耳が痛くなるような静寂が雪原に舞い戻る。
「父様ぁ……」
 柔らかい、雪の地面に腰を埋め、カロルは少し涙声だ。逃げ行くカロルの小さな馬を見送りながら、リュックは自分の黒馬にカロルを引き上げる。能天気なラザールが黙りこくっているのが、事態の深刻さを物語っていた。


 『アンドレの筒』という武器がある。
 アンドレという皇子がいた。彼は先帝の長子だったから、新たに帝位についた現皇帝ミカエルの兄ということになる。彼は皇子でありながら、子供の頃から一風変わった趣味の持ち主だった。彼はおもちゃを作るのが大好きだった。アンドレは、精巧な人形や、魔法のようなからくりを、誰に教えられることなく作り出した。だがたとえそれが本物の人間と間違われるような人形であっても、弥撒に訪れた大司教が卒倒するようなビックリ箱でも、所詮は王族の道楽に過ぎず、みんなに蔑まれるだけだった。
 そんなアンドレに、当時ロアンヌの宰相であり、二人の皇子の教育係だったジネディが囁いたのだ。
「君の技術で、戦争に使える物を作ってみると良い。陛下やミカエルも、きっとアンドレを誉めてくれる」
 敬愛する師の言葉に、アンドレは嬉々として一本の長い筒を作り出した。
 ロアンヌで最強と謳われる、ラグナロワ将軍の弓でも届かぬような遥かな的を、破裂音と共に筒から飛び出した一つぶての鉛玉は、貫き、後ろの壁まで抉り入った。皇帝も弟皇子も、怯えてアンドレを誉めてはくれなかったが、宰相のラウラン侯爵と元帥のラグナロワ侯爵は、早速自分たちの私兵団に、この『アンドレの筒』を取りいれた。のちに開かれた宗教会議は、このあまりに強力な兵器を『悪魔を狩る武器』として、ラヴェンナの教皇の名において人間に向けて使用することを禁ずる宣告を発布する。その後アンドレの筒は、東から押し寄せる異教徒ら、悪魔の信徒らだけに向けられた。たとえ外国との戦いでも、それが宗派の違う北方の国々であろうとも、同じ神のもとに生きる人間を狩ったことはないのだった。
 ロアンヌの南方。片田舎のポドールイという地方の雪原にて。禁は破られ、アンドレの筒は初めて、神の元に生きる者たちに向けられた。
 具体的には、耳をつんざく轟音の直後には、押し寄せてきた傭兵たちの波は崩壊し、代わりに雪原はどす黒く染まったのだった。
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