ポドールイの人形師

2-14、再会

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 どれほど、この窮屈な状態を強いられているだろうか。暖炉の火はすでにほとんど消えてしまい、燃え残った炭が、わずかに赤くくすぶっているだけだった。窓からの雪明りに照らされるだけの部屋は薄暗く、空気はすっかり冷たくなっていた。
 熱のない、陶器の人形の硬い肌は、服越しにもシシルの体温を奪ってゆく。今いるこの寝台は、皇帝の使ったものだ。皺が寄った白いシーツに、一筋の長い髪が零れている。あるいはシシル自身のだろうかとも思ったが、それにしては、やや長さが足りなかった。それに暗がりの中にも関わらず、白い敷布を背景に、一本でもそれとわかるほど、それは鮮やかな金色の輝きを放っている。シシルの毛も金髪とはいえ、髪質が細く色も薄いので、一本だけ抜けていると真っ白にしか見えないのだ。
 そんな、ミカエルの匂いの消えない寝台の上で。シシルはナシャに抱きしめられ、身動きがとれなくなっていた。
「ナシャさん……」
「クヴァー!」
 呼びかけると、糸が切れて動けない人形の代わりに、頭上のカラスが答えてくれる。
 固まった体を動かそうと、もがいたはずみに、コトリ、と人形の首が倒れた。首に陶器の擦れる冷たさを覚え、見ると、茫洋と見開かれた、ナシャの翠の瞳と目が合った。
「怖いです。目ぇ、閉じてください……」
「クヴェー!」
 涙声で訴えても、返事はない。ちなみに、ディディエに鳴いてもらってもしょうがない。仕方がないから、シシルは自身で目を瞑った。
「おい、シシル! と、ナシャさんも。大丈夫か!」
 瞼の裏の闇の中、不意に聞きなれた声が聞こえた。とっさに目を開けると、あいかわらずナシャの翠の瞳が凝視していたので、シシルは慌てて瞼を閉じる。だが声が聞こえた。わずかに声変わりに差し掛かった、子供の声だ。クリスチャンの声がした。
 一体どこから来たのだろう。そんな疑問についても考えがまとまらないうちに、もう一つ、なつかしい声が耳に入る。
「シシル様、ご無事ですか! なんですか、その人。シシル様から離れてください!」
 信じられない。慌てんぼうの、懐かしい……
「なに言ってんだよ。ナシャさんだよ。それよりカロル、シシルのこと知ってんの?」
 やっぱり。さっきの声は、大好きなカロルのものだ。
「ええ。私、以前シシル様の侍女をしておりました。あ、あの、それであのナシャさんという方はなんなんですか。もしかしてこのお屋敷での、シシル様の新しい侍女だとか……うぅ」
 なぜか泣きそうな声で、カロルはなんだかよくわからないことを口走る。確かにシシルはナシャにお世話になっているが、侍女というには少し違う気がした。なにせ、ナシャは人形だ。それにいくら心を許したとしても、ナシャはシシルにとって、カロルと同じにはならなかった。ナシャの後ろに見え隠れするジューヌの影に、カロルに対してのように甘えるには、シシルの中にも抵抗がある。
「じじょ? なんだよそれ。ナシャさんは、シシルの姉ちゃんだよ。おまえもおっかしな奴だなあ」
「お、お姉様……。でも、シシル様は一人っ子のはずですのに……」
 カロルが混乱している。さすがクリスチャンだ。わけのわからない話になってきている。素直なカロルには少し、クリスチャンの相手をするのは荷が重いかもしれない。
「いいから。カロル、助けて。ナシャさんが固まっちゃって、動けないの」
 不毛な会話を続けてもらっても仕方がない。ようやっとシシルは自分から、二人の話に割りこんだ。本当なら三年ぶりの再会に、話したいことはいくらでもあったが、今は残念ながら、それどころではない。
「なに! ナシャさん、リリアンの野郎にやられたのか! すぐ。カロルの父さんに見せれば治してもらえる」
 ばたばたと、落ち着きのない足音が響く。カロルに呼びかけたのだが、いち早くクリスチャンが駆け寄ってきてくれる。
「さ、ナシャさん。俺の肩に掴まって」
 ナシャの腕に手をかけたところ、クリスチャンは突然凍り付いた様に動きを止めた。
「ナシャさん、硬くて、冷たい。……死んでる」
 馬鹿なことを。クリスチャンの言葉に、背後でカロルが額に手を当てて失神する様子が、目に浮かぶ様だった。

 クリスチャンとカロルが、ナシャの腕や頭を、引っ張ってみたり持ち上げたりしてくれるが、がっちりとシシルを抱きしめるナシャの両腕は、まったく緩む様子がない。クリスチャンは説明してもナシャが人形だということを納得してくれようとはせず、混乱したまま、おっかなびっくりナシャになにか話しかけている。カロルはさすがにナシャが死体でないことは認めたようだが、それでもあまりに精巧なナシャの造りに、涙を浮かべて怯えている。
 とりあえず、ナシャの目が違う方向を向いてくれたので、目を開けていることはできるようになった。だがせっかくクリスチャンやカロルに来てもらったのに、あまり事態に好転はない。
「シシル様、良かった……お元気そうで。お洋服、かわいらしいですね。まるでお人形さんみたいです」
 シシルの顔を覗きこみ、涙目のまま、カロルはにっこり微笑んだ。あまり、誉められた気はしない。それでもひさしぶりの、かわいい従姉の笑顔だった。なぜか似合わない薄汚れた兵士服を着ているあたりも、いかにも要領の悪いカロルらしくて安心する。
「カロル、それどころじゃないのよ。叔父さまたちも来てるんでしょ、早く行かなきゃ。この際、ナシャさんのこと壊しちゃってもいいから、助けてちょうだい」
「シシルっ、なんてこと言うんだよ! ナシャさんを、自分の姉ちゃんを壊そうだなんて。俺の好きなシシルは、そんなこと言わねえ!」
 カロルがうろたえながらもなにかを言おうとする前に、クリスチャンが大声で叫んだ。顔を真っ赤に、本気で怒っているらしい。
「あー、もう、馬鹿。カロルも、なに赤くなってんの」
「だって、こんなまっすぐな言葉、端から見てても照れちゃうじゃないですか」
 クリスチャンに、子供に『好き』だのなんの言われて、いちいち照れていてどうするのだ。懐かれて嫌な気はしないが、こんなことで顔を赤らめているカロルの気が知れない。
「もう、なんとかしてよ……」
 あまりにずれた二人に、力抜けして諦めかけた頃、突然ナシャの腕が緩まった。わけがわからないまま、シシルはナシャの懐から抜け出す。シシルという支えを失った人形は、べしゃりとシーツに崩れ落ちた。もぞもぞと立ちあがれぬまま、シシルは寝台の端まで逃げておく。どうして急に離してもらえたのか。それまでシシルを捕まえていた人形を、三対の視線が、不審気に見つめる。
 突然、人形の頭が跳ねあがった。反射的に逃げる体勢をつくったシシルたちに、人形は言った。
「クゥヴァー」
 カラスの、鳴き声。ディディエが見えない糸を引っ張って、ナシャを動かしてくれたのだった。


「どうやって入ってきたの?」
 助けてくれたディディエが自分の膝で休憩することを許して、シシルはとりあえずの疑問を口にしてみた。扉の方には、シシルも誰か来るのではないかと、ある程度意識を集中していた。だがクリスチャンたち気配は、全く別の方から現れた。
「秘密の抜け穴があるのさ。ジューヌが住みつきやがるまで、この人形館は俺の遊び場だったんだ。からくりは、色々知ってる」
「正門は陛下の軍が陣を張っていて、通ってこられなかったんです。私たち、そこの暖炉から出てきたんですよ。楽しいお屋敷ですね」
 クリスチャンが自慢げに教えてくれる。カロルがだぼだぼの兵士服にかかった煤を払いながら、少し補足をしてくれた。ジューヌがずっとここに住んでいるように思っていたが、クリスチャンの言葉からすると、昔、ジューヌはここに住んでいなかったことになる。土着の貴族ではないとすると。ジューヌ伯爵は、何者なのだろう。少しひっかかったが、今はそれどころではない。
「とりあえず、ジューヌさまのとこに行かなくちゃ。叔父さまたちも助けてもらわなきゃいけないわ」
 シシルが立ちあがろうとお尻を浮かせたところ、クリスチャンに手首を引っぱられ、再びシーツに腰を降ろさせられた。
「なに?」
 邪魔しないで、と言おうとしたところ。
「シシル。危険だ。行くな」
 いつもと調子の違う、クリスチャンの短い言葉に機先を制された。手首をギュッと握る、クリスチャンの手が熱っぽくて。いつも子供としか思っていなかったクリスチャンが、ふと大人の男の人のように見えてしまった。不覚にも、シシルはクリスチャンの迫力に押されていた。

「カロルと一緒に、ナシャさんも連れて、どっか隠れてろ。女ばっかで心配だから、本当なら俺がついて守ってやんなきゃなんだけど、俺、これからシファのこと助けに行かなきゃなんないから。ごめんな」
 手首を握る、クリスチャンの手が熱い。熱に浮かされたように枯れた声には、らしくない有無を言わせぬ覚悟が感じられる。そしてその眼差しは、あいかわらずのずれた物言いが気にならなくなってしまうくらい、悲壮なほどに真剣だった。
「あのね、クリスチャン。私も、隠れてなんかいられないよ。叔父さまたちを」
「ダメだ。シシルに、なにができる」
 返す言葉がなかった。いつも行きつく、同じ答え。結局、自分にはなにもできない。自分を見つめる強い眼差しに、見返すことすらできない。子供のはずのクリスチャンが、大きく見えてしまう。
「クリスチャンこそ、何ができるって……」
 シシルの悔しまぎれの言葉を遮って、突然クリスチャンの体が、どっさりと前に倒れる。クリスチャンの衣服から舞い上がった煤埃に、シシルは少しむせ返る。シシルの膝の上に居座っていたディディエが潰され、クヴェー、と叫んで飛び出した。
 受けとめたクリスチャンの体は、火のように熱かった。
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