ポドールイの人形師

2-18、友情

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 顔を俯けたカロルの視界の外。ゴンッ、と鈍い音がした。顔を上げると、リリアンが頭を押さえてうずくまっていた。
「痛ぅ……このくそロセンサル。なぜ殴る!」
 どうやら隣のジュダ人に殴られたらしい。剣の柄で殴ったらしく、黒騎士は半ば抜いた剣を、鞘に戻すところだった。本気で痛かったらしく、恨めしげに目を細めたリリアンの眦に、じんわり涙が浮かんでいる。
「貴様が無礼だからだ。言葉を改めろ」
「おまえを『ローゼンタール』と紹介したから怒ってんのか。心の狭い奴め。僕なら自分の名前をジュダ語で読まれようが、別に気にしないぞ」
 うずくまる将校の背中を、ジュダ人は足の平で押して転がした。頭を押さえたリリアンは、そのまま顔から雪の毛布に突っ伏した。
「お、おまえ。僕を、蹴ったな」
「今のは私の民族を卑しめてくれた礼だ。イーアン殿」
 煌く雪の結晶で濡らした顔を上げたリリアンを、黒騎士は冷たく見下ろしている。ジュダ語読みで呼ばれた名前には、冷笑すら含まれていた。
「ちなみにさっき殴ったのは、カロル殿を辱めた戒めだ」
「おいジュダ人。おまえ陛下や、あまつさえこんな小娘にまで情けないほど卑屈なくせに、なぜ僕にだけこう態度がでかい。この上なく不当に感じるのだが」
「簡単なこと。貴様が尊敬に足らん人物で、守るべき価値も見いだせんからだ」
 ジュダ人は不敵な笑みを造って見せた。突き刺すような、攻撃的な笑みだった。
「クシュン」
 カロルは小さくくしゃみをした。
 音の出ないよう小さく鼻をすすり、涙を拭う。ポドールイ、真っ白な雪国だ。寒さなど忘れていたが、体は冷えているらしい。
 涙目の視界に、じゃれあうように喧嘩をしている、ジュダ人と青年将校の姿がぼんやり浮かぶ。仲が良いのか悪いのか。ただ体力的に、疲れてしまいそうな関係だ。
 自分とシシルなら、もっともっと仲良く、素直になれる。突飛な自分の連想に、カロルは思わず零れてしまいそうになった笑みを噛み殺す。先ほどまでは泣きそうなほどに心細かったのに。二人の様子に、カロルは妙にほだされてしまっていた。
「あら、慰めてくれるの」
 先ほどまで眠っていた様子の小さなロバが、立ちあがってカロルに鼻面を押し当ててきた。正直慰めてくれているというよりも、方向を失ってぶつかってしまった風な所在無さだったが、それでも温かに湿った鼻息に安心してしまう。
「ほっほ、嬢さん。ディアンヌに慰めてもらって、安心しましたかな。人形館の丘は、風が吹いて冷えましょう。ディアンヌに暖めてもらってくだせぇ」
 ロバのディアンヌは、どうやらおじいさんの差し金の様だった。
「それにしても若いもんが二人揃って。娘っ子の扱い方を知らんようでごぜぇますな」
 そう言っておじいさんは、柔和な笑みを浮かべてみせた。
 ディアンヌに、ずるずると濡れた鼻面を押し付けられる。年老いた動物のこもった臭いが、一瞬むっと鼻についた。
 気高いシシルなら、こんなみすぼらしいロバは嫌うだろうか。いや、シシルは動物にとても好かれる子だ。それに傲慢な者に屈することはないが、自分よりも小さな者、弱い者には驚くほどに優しくなれる。シシルなら、この老いたロバの太い首に抱き付いて、喜んでこの硬い毛に顔を埋めるのではないだろうか。
 カロルは、先ほどから自分がシシルのことばかり考えていることに気がついた。久方ぶりにシシルに会えて、まだ昂ぶりが収まっていないらしい。二年の歳月を経て、十五になった少女はさらに美しく成長していた。懐かしい記憶を裏切ることない、お人形の様に可憐な少女。かわいい妹。小さな主。
 またあの子に仕えることができたなら、それに勝る幸せはないと思う。
「これを」
「はい?」
 シシルに思いを馳せながら、ロバの硬い毛に頬を押し付けていたところ、不意に低い声が掛けられた。突然の呼びかけに、カロルは間の抜けた声を上げてしまう。
「くしゃみをしていた」
 振り向いたカロルの目の前に、大きなジュダ人の手があった。血の気のない象牙色の指先に掛かっているのは軍服の上着だった。胸の黒鷲は、選帝侯ヴィルトール家の紋章だ。
「寒いでごぜぇましょう。せっかくのご好意、断るのは失礼でごぜぇますよ」
 おじいさんがそう言った。おじいさんの差し金で、いつの間にかジュダ人がリリアンの上着を奪い取ったらしい。黒騎士の背後で、身包み剥がれたリリアンが、腕を回して、歯をガタガタ鳴らしながら震えている。
 軍服を取られても、毛織物の長袖に帷子を重ねたリリアンは、それなりに暖かそうに見えるのだが、ヴィルトール家の青年はどうやらとても寒がりのようだった。
「あ、あの」
 手ずから肩に羽織らされて、カロルは断る機を失ってしまった。
「その、ありがとうございます」
 肩に掛かる、軍服に残ったリリアンの体温に包まれて、初めてどれだけ体が冷えていたかに気が付いた。
 リリアンはガクガク歯茎を鳴らしながら、殺してやる、などとジュダ人に恨み言を零し続ける。ジュダ人は素知らぬ顔でそれを無視して、遠くを見ていた。


 実に心もとない。リリアンの顔には、あまり威容が備わってないのだ。
 押し付けられたリリアンの軍服を、袖を通さず、迷惑そうに肩に羽織る少女の顔を見やる。このカロルと名乗った少女は、女の子にしてはやや身長が高い。少しくすんだ色の乱れた蜂蜜色の髪が、肩下まで無造作に踊っている。頬を微かに赤く染め、くっきりとした目鼻立ちが所在無げな表情を造っている。透き通るほどに肌が白いわけではなく、鼻はむしろ低めかもしれない。だが見ていてつい安心してしまうような、総じてかわいい娘だった。
 リリアンは、自分の顔を、この少女と同じような種類のものと評価していた。卑下するほどに悪いものではないだろう。見る者を安心させるだけの、造作の整いはあると思う。だが選帝侯家の一員として、他の貴族たちと差し向かうには、いまいち物足りない容姿だった。皇帝ミカエルやラウランの連中の様に、作り物めいたほどの美しさを備えているわけではないし、黙っていても滲み出るような、貴族特有の鋭さがあるわけではない。黒鷲の紋章が、そんな心許なさを埋めてくれるのだ。
 寄ってきたロバを捕まえて、なんとか雪の冷たさは凌いでみる。家紋付きの上着を奪われた心のほうは、なんとも虚寒いものだった。
「誰か登ってくるようでごぜぇますよ」
 リリアンはロバの太い首に腕を回し無理矢理引っ張りかがませて、その獣臭い毛皮に顔を押し付け、寒さを凌いでいた。だが老人の言に、億劫に思いながらも顔も上げる。
 ほの闇の中、黒い僧服を暗がりに溶かし、人影が雪を裂いた細い道を登ってくる。単身徒歩で、大楯を掲げている。その楯に描かれるているのは、光り輝く雪十字の紋章。雪の光にきらめく金の縁取りは、当主の証。
 嫌がるロバの頭を捕まえ、尖った耳の間に顎を乗せ。乾いたたてがみに鼻先をくすぐられながら。リリアンはこの状況が何を意味するのかを考えた。理解しがたいことではあったが。登ってくるのは賊徒の首領、リュック・ド・ラウラン、その人のようだった。
 黒い人影は、少しずつ大きくなっていく。近寄るにつれ、その顔の造作までもがつぶさに視界に入ってくる。白い顔。少し秀でた額に、薄い唇。年齢の読めぬ美しさに、口元に漂う涼やかな笑み。前宰相にも見られた怜悧な美しさは、ラウランの特徴的な形質だ。
 彼は一体なにを求めているのだろう。皇帝軍はすでに半ば壊滅している。逆にラウランの賊徒は人形館の丘を取り囲み、意気軒昂だった。
 圧倒的に優位な状況のもと、律儀に降伏でも勧めに来たのであろうか。ならば斬り殺してやろう。リリアンは腰に手を掛け、小剣のあることを確かめる。
 もしくはこの後に及んで、陛下に頭を垂れに来たのかもしれない。あながち考えられないことではない。ラウランとは、理解しがたい考え方をする家なのだ。自分たち貴族の存在が、王家を守るためにあるのだと。前宰相が至極まじめな顔で言い放つのをリリアンは目にしたことがある。そもそも彼らが、皇帝に刃を向けて来たこと自体、驚きに値することなのだ。
 リリアンは懐をまさぐり、小さな布包みを確認した。頭の中に、クリソベルの虚ろな輝きを思い描く。もしも司教が、健気に頭を下げてきたならば、その時は自分も笑顔で手を伸べよう。握手をして、死んでもらおう。
 高鳴る鼓動に、瞼を落とし、リリアンは額をロバのたてがみに押し付けた。しばし闇を堪能し、馨しい獣臭さを、胸いっぱいに吸いこんだ。
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