ポドールイの人形師

2-17、無礼な将校

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 ロバのディアンヌを傍らに伏せさせ、ポドールイ村の村長、ジェロム・モルロは村を見下ろし、待っていた。夜明け前のポドールイの村は、まだ赤くくすぶっている。村は、焼き払われてしまったのだ。
 ポドールイの村は、雪に閉ざされた真っ白な村だ。貧しくて平和で、住民たちは皆純朴で心優しい。どう考えても、モルロの見た紅蓮の炎とは相容れぬ場所のはずだった。
 だがモルロが見下ろす麓の先は、ちらちらと残り火が踊る、黒い消し炭の村があるばかりだ。幾度目をこすってみても、その現実は変わらなかった。
 ポドールイはかつてラ・ヴィエラ王家の直轄領とされてはいたものの、三年前までは領主すら派遣されない、忘れられた土地だった。ジューヌ伯爵が領主となったときは、ついに貴族様がこの雪に閉ざされた小さな村にも目を向けてくれたと、村人総出で祝ったものだ。
 だが思えば、全ては前兆だったのかもしれない。人の良い、しかし人形を使い、素顔を見せない、謎めいた伯爵。雪野の隠れ谷に住み付いた、偉い司教様と貴族の方々。彼らはこの貧しい村に華やぎをもたらしたが、あるいはともに、あの炎をも引き連れてきていたのかもしれない。
 周りを見まわす。狭い丘の頂きに、たくさんの人が集まり、喧騒に満ちている。幼い子供や、年老いた者たちは、人形館に入って暖を取ることを許されたらしい。頼りない領主様だが、ジューヌ伯爵の計らいに感謝せねばならないだろう。村人の避難は完了した。天災の時は、本来教会が避難場所になっているのだが、その教会も燃えてしまったため、この人形館の丘の上に集まるよう、皆に指示を出したのだ。
 運悪く、人形館は村を燃やした傭兵たちの本陣だった。だが指揮官らしき長い髪の美しい青年は、逃れ来る自分たちの姿を見ても、不機嫌そうに片眉を動かしただけで何も言ってはこなかった。あるいは、傭兵たちが出払っていて、自分たちを追い立てるだけの人数が揃っていないと見たのかもしれない。
「ふぅ」
 疲れたような溜息をつき、モルロは雪の地べたに座り込む。司祭カトリノーが見つからない。クリスチャンの、フュレー一家四人の姿も見あたらない。他にも、いない人はたくさんいた。
 年老いたディアンヌのたてがみを梳きながら、モルロは丘から下を見下ろしていた。まだ、誰か来るかもしれない。炎から、逃げ遅れた者が登ってくるかもしれない。そうしたら、村長の自分が真っ先に、迎えてやらねばならないだろう。
「おじいさん、寒いでしょう。何をなさってるんですか。館の中に入れてもらえるようですよ」
 女の子の声が聞こえたので振り向くと、兵士姿の人影を見たのでぎょっとした。ちぐはぐな兵士服を着た、女の子だった。かわいい娘だが、見知らぬ顔だ。村の娘ではない。
「待っとるんでごぜぇます。もう少しここにいさせてくだせぇ。嬢さんこそ、こんなところにおったら風邪をひいてしまいますよ」
 女の子はロバを挟んだモルロの隣に身をかがめ、ディアンヌの耳を軽くつまむ。ディアンヌはピクンと耳を伏せてしまい、女の子の身なりの割にはきれいな指から、耳の先を逃してみせた。
「私も一緒に待っていていいですか? 早く来すぎちゃったみたいで、父様を待ってるんです」
 少女の言葉に、モルロはやんわり笑ってみせた。待てども来ない人が、たくさんいる。この娘は、ポドールイの村の人間ではない。だがこの娘が無事に家族と再会できたなら、それはとても嬉しいことだと思うのだ。


 反乱軍の指導者、司教リュック・ド・ラウランが軍を引き連れ、人形館に攻め上ってきている。リリアンのもとに、そんな報告が入った。
 リュック・ド・ラウラン。シャイヨーの選定侯、ラウラン家付きの司教で、今は亡き先帝の大のお気に入りだった彼は、皇室の宗教典礼にも頻繁に用いられていた。アンドレとミカエル、両皇子に洗礼を施したのも、選定侯の地位にある二人の大司教たちではなく、司教リュックだった。
 長兄のジネディはロアンヌの名宰相と謳われた。弟ラザールは異教徒との戦いで活躍し、勲章を授けられた。文武にロアンヌの政治に大きな影響力を持った二人と同様に、ロアンヌの聖職界の寵児と呼ばれたラウランの次男、リュック・ド・ラウランの存在を、リリアンの父、ティエリ・ド・ヴィルトールが異様に煙たがっていたのを覚えている。そうはいっても、戦場で名を馳せたのは、長兄のジネディと末のラザールだ。ジネディは兵法に乗っ取った、沈着冷静な用兵で、堅実な勝利を収めていった。相反してラザールは、常に軍の先頭に立ち、時に無謀ともいえる強引な用兵も用いた。だが彼の率いる軍の士気は常に高く、長兄と同様に負け知らずの名将だった。
 聖職者である次兄のリュックが、いまだかつて軍を率いたという話は聞かない。それでも話に聞く、その性格を見る限り、その戦術は長兄のジネディに近いのではないかと予想していた。
 まさか、自らこの人形館に攻め上ってくるとは思わなかった。リュック・ド・ラウラン。案外、好戦的な人物なのかもしれなかった。
「僕も見に行こうかな。陛下、ロセンサルを貸してくださいませんか?」
 危険を冒すつもりは無いが、一人で行くのは少々危うい。俺も行きたい、と言いたげな陛下を軽く目で制し、奥でお待ち頂くようお願いする。
「大丈夫。すぐ戻りますから。じゃ、ロセンサル、行こうか」
 一言、黒騎士を急かして、リリアンは丘を下る道へと先に歩を進める。数瞬ロセンサルは躊躇したが、やがて小走りに自分を追いかけてきた。陛下のお許しが出たらしい。
 さあ、戦争だ。あらゆる状況から鑑みて、おそらくこれは、負け戦だ。


「きれいでごぜぇますねぇ」
 丘を取り囲む様に、雪十字の楯が並んでいる。カロルの小さな主。シシルにもこの光景を見せてあげたい。真っ暗な闇に、雪明りを映してきらめく紋章の帯は、幻想的に美しい。
「そうでしょう」
 おじいさんの呑気な物言いに、カロルも同じ調子で返事をした。土地柄なのだろうか、クリスチャンにしろ、このおじいさんにしろ、少し感覚がずれている気がする。でも、もう大丈夫だ。父様が来た。理屈抜きで、きっと何もかも、うまくいく。

「おじいさん、壮観ですねえ」
 ラウランの楯の壁に眺め入るカロルとおじいさんの後ろから、声がした。男の人の、まろやかな声だ。
「そうでごぜぇますねぇ」
 振りかえりもせず、おじいさんは寝ぼけたような答を返した。つられるままに、カロルも声の主を確認する機会を失う。
「おい、そこの兵卒。貴様ここで何をしている」
 最初の声とは正反対の、鋭い声が飛び出す。怒声は明らかにカロルに向けられたものだった。突然さらされた怒りの感情に、カロルは身を引きながら振り向き、声の主を確認する。
 最初のまろやかな声をくれたのは、軍服の胸に紋章を入れた、貴族の将校。細い飾り剣を携えているが、丸みを帯びた顔に浮かべた、人好きのする優しい笑みに、貴族にありがちな鋭い冷たさは見られない。対して、カロルに乱暴な言葉を向けた男は、真っ黒な鎧に身を包んだ、巨人のような男だった。黒髪黒瞳。明らかにジュダの血を示すその形質ともあいまって、黒い騎士はひどく恐ろしげに見えてしまう。思わずカロルは立ち上がり、二人の青年たちから身を引いた。
「女……し、失礼した」
「いや。これはこれで、おかしいと思わないのか、ロセンサル」
 カロルを女と確認した瞬間、打って変わって黒騎士のいかめしい顔が気まずげに緩んでしまう。ジュダ人はなにやらカロルを過剰に意識しているらしく、もごもごしながら視線を泳がす。そんな騎士の様子を見て取ってか、貴族の青年がジュダ人を引っ張りかがませ、なにやら耳打ちをする。
「ロセンサル、とりあえずご婦人を見たら……」
 特に内容を隠すつもりもないらしく、なにかを誉めろ、などと断片的に声が漏れる。優しげだった青年の目に、なにやらいたずらっぽい光が閃いた。
「よ、よく似合っている。少し大きいようだが……」
 象牙色の白い顔を赤く染めて、まるで軍服の将校に操られる様に、黒騎士はパクパク口を動かした。
「な、なにがですか」
「ふ、服が……」
 自身の姿を指摘され、カロルは顔が熱くなるのを感じる。カロルは体を自分で抱いて、煤で薄汚れた兵士服を隠した。
「おい、ロセンサル」
 先ほどまで優しげな顔で微笑んでいた将校が、そう呼びかけて突然吹き出した。
「馬鹿か、おまえ。そんな汚らしい兵士服、本気で誉めてどうすんだよ」
 第一印象とは全く違う、人をからかうような意地悪な調子で、将校はくつくつ笑い続ける。
「まあ、見てろ。大事なのは優雅さだ。お前みたいにぐずぐずどもってちゃあしょうがない。貴族ってのはな、ご婦人を口説くときはこうするんだ」
 横柄な、貴族とは思えない柄の悪さでジュダの騎士をこき下ろした後、将校は突然真剣な顔つきを造った。
「ちぐはぐな格好のお嬢さん」
 一瞬で笑いを納める演技力は見事かもしれない。優しい顔をきりりと引き締めた表情は、なかなか様になっている。だが今更、この将校の顔などに、なんの信用も置くことはできない。
「よく見ると、なかなかかわいい顔をしてるね。平民面だが、澄ました貴族娘よりはよっぽどいい。僕はリリアン・ド・ヴィルトール。選帝侯ヴィルトール家の嫡男だ。このまぬけなジュダ人はロセンサル。ジュダ語がお嫌いなら、ロアンヌの読み方でローゼンタールと呼ぶといい。お嬢さんのお名前は?」
 限度なく失礼で、傲慢な言い草に、カロルはすっかり困惑していた。趣味の悪い冗談のつもりなのかもしれないが、あいにく今のカロルには、それを笑えるだけの余裕はない。
 自分の小さな主人なら、いかように対することだろう。綺麗な翠の、強い眼差で睨み上げ、罵倒するかもしれない。あるいは鼻で笑い、このリリアンという青年の、教養のなさをこき下ろすだろうか。ヴィルトール家といえば、選帝侯の地位を得ているとはいえ、権謀術数で成りあがった卑しい侯爵だという評判だった。そのような家の人間、あの子なら歯牙にもかけず、かわいい鼻をツンと空に反らして、意地悪にそっぽを向くかもしれない。
 いずれにしろシシルなら、その身分にふさわしい、誇り高い態度を取るだろう。
 カロルとて、シシルのような本流ではないにしろ、いやしくもラウラン家に名を連ねる人間だ。相応の態度を取らねば顔向けできない。そんなことを思い馳せながら、結局カロルは、
「……カロルです」
 若い男たちに無遠慮に見下ろされて、カロルはすっかり竦んでしまった。必死の思いで名を名乗り、ただ、顔を俯けた。情けなくて、家名を名乗る気にはなれなかった。
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