ポドールイの人形師

2-4、抱きしめの刑

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 寝台の白いシーツに座り込み、シシルは開け放たれた扉を見つめていた。
 髪も、服も、心も乱れて。怒りは冷めず、行き場のなくなった感情のせいで、シシルは助けてくれたナシャの顔をも睨めつけた。
「シシルさん」
 美しい造りの、表情のない唇から発せられた、抑揚のない呼びかけは、ときにシシルに笑っているように錯覚させ、ときには怒っているように思わせる。
 気まずい。ナシャの短い一言に、怒られているように感じてしまうのは、シシルにやましいところがあるからだろう。認めたくはなかったが、どこかで自分が悪いことを感じたシシルは、黙って俯き、唇を噛んだ。
「シシルさん。私は怒っています。なぜだかわかりますね」
 ナシャの硬質な口調は普段とまったく変わらないのに、シシルの意思に関わらず、体の震えが止まらない。怒られるのは慣れていない。それにシシルは、悪くない。
「あたし、悪くないです」
 うめくように呟いたシシルのもとに、ナシャはしゃがみこみ、顔を下から覗き込んできた。
「確かに、乱暴したのも、意地悪なことを言ったりしたのもミカエルよね。あの子は子供なところがあるから。でもあなたのことを心配して、ジューヌがどれだけ胸を痛めたか、シシルさん、わかってくれますか?」
 俯いたシシルの額に白い指先が当てられて、目にかかっていた前髪をなであげられる。視界が開け、ナシャの翠の瞳と目が合った。皇帝の手は熱すぎて、ただ怒りが込み上げるばかりだった。同じ行為でも、ナシャの固い陶磁の指は、冷たく、心地良かった。
「ごめんなさい、ジューヌさま」
 緊張の糸がぷっつり切れて、言葉は自然と漏れていた。
「ダメです、許しません」
 抑揚のないナシャの口調は変わらないのに、まるで笑っているような、からかっているような感覚を受ける。安心してしまい、シシルは自分の口元が緩んでしまうのを感じていた。
「シシルさんには罰を受けてもらいます」
 寝台の上のシシルの前に膝を付き、背筋を伸ばしたナシャは人差し指を突き立てて、取り繕うような厳かさでそう言った。
 罰。安心しつつも、少し緊張する。なにせお仕置きなどされたことはない。お屋敷では父はほとんで宮殿に出仕していて家を空けていた。母はシシルに無関心だったし、叔父たちはどこまでも甘かった。侍女のカロルにはたまに怒られて、罰として! などと言われてきたこともあったが、それは……
「抱きしめの刑です!」
 突然、ナシャが抱きついてきた。固い陶器の体に、息が苦しいほどに抱きしめられる。
「……カロルと一緒だし。罰ってみんなこうなのかしら」
 少し苦しいが、ぜんぜん嫌じゃない。ナシャの冷たい胸に顔をうずめて、シシルは皇帝の言っていたラウランのことを聞いてみる。
「ラウランの人たちがポドールイに来てるんですって。カロルや叔父さまたち。それにお母さまも。みんな無事かな」
「さあ……。糸を離しますね」
 要を得ないナシャの答え。抱きしめる腕がきつくなって、少し、痛い。
「ナシャさん、離してください。みんなを助けに行かなきゃ」
 反応はなく、ナシャの頭がシシルの肩にもたれた。脱力したさまが、糸の切れた人形のようだと、シシルは思った。
「ダメです」
 どこからか突然、ジューヌ本人の声が聞こえた。
「それに糸は離してしまいました。もうナシャは、動きません。罰なんですから、しばらくここで反省なさい」
 もがいてみるが、しっかりと固まってしまったナシャの腕からは逃れられない。
 どこからかディディエが飛んできて、動けないシシルの頭に着地すると、もぞもぞと居場所を作って丸まった。頭の上でクヴァーと鳴くのが、恨めしかった。
 ジューヌ伯爵に嵌められた。ここにきてようやっと、シシルはそれに気付いたのだった。


 敵軍。ラウランの賊徒は予想よりも少ないらしい。
 すでに滅び、その栄華は昔日のものとはいえ、ラウラン家は、かつて七選帝公の中でも最大の勢力を誇った名家だった。たとえ野に隠れたとはいえ、千の兵力は見込んでいたのだが、さすがにそれは杞憂に終わったらしい。情報によると、ラウランの賊徒はせいぜい数百。考えてみれば、二年前のラウラン家の取り潰し戦争以来、居るべきところのない彼ら残党に、いかに名家といえども衰退するしか道がなかったのだろう。
 さて、我らが帝国諸侯軍二千は……。そう思い返して、リリアンは一人、嘆息する。
 敵が予想外に少ないとの情報を聞くや、兵卒たちはすでに戦勝気分なのか、前勝会などはじめている。酔っ払いたちの中には、先走ってすでに出撃を始めてしまった者もいるらしい。そうなるともう止まらない。手柄を取られまいと、昂ぶった兵卒たちは雪崩を打つように勝手に動いた。はやる気持ちはわからないでもない。所詮、ほとんどが無頼の傭兵に過ぎない兵卒たちが手柄を得るためには、自ら敵の首級をとらなければならない。その敵が少ないということは、はるばる諸領から南果てのポドールイまでやってきたにもかかわらず、出遅れると手柄がなくなるということだ。だがそれでも、リリアンは出撃の命令を出していないのだ。軍律違反者にはあとできついお灸が据えられることだろう。 
 リリアン・ド・ヴィルトール。軍服の胸に施された、黒い鷲の紋章は、由緒正しきヴィルトール家の家紋だ。リリアンは現宰相にして、七選帝侯の一人でもある、ティエリ・ド・ヴィルトールの長子だった。彼は皇帝が人形館に上って留守にする間、ポドールイ駐屯の討伐軍の指揮責任を押しつけられたのだ。だが寄せ集めの諸侯軍が、たかが急ごしらえの代理指揮官――それでなくともリリアンは自分の威容のなさ、己が将軍の器でないことを自覚していた――に判断を仰ぐわけもなく、勝手に空中分解してしまっている。いまだ宵闇の中、酔った兵卒たちの多くは、居場所も定かでない敵軍に向けて出撃し、やや理性の残った者たちは、退屈紛れに、村に略奪をかけている。
 まあ、それは自分の責任ではない。身勝手な皇帝陛下の責任だろう。
 低能な兵卒たちの喧騒から逃れたい。リリアンはどこか、静かな場所を探していた。

「司祭様、シファの目が真っ赤なんだ。なんとかしろ」
 静かな場所を探して教会を訪れたリリアンだったが、ずいぶん当てが外れてしまった。組み木造りの貧相な教会。そのホールに、甲高い子供の声が響き渡る。
「なんとかしろ、と。ああ、確かにお目めが真っ赤だ。ひどい充血ですね」
 黒い僧服を着た、司祭らしき男が子供の腕の中を覗き込む。どうやら、少年の腕の中に赤ん坊がいるらしい。
「ばい菌が入ったのかもしれませんね。大丈夫。よく目を洗って、こすらせないようにすれば、すぐに治りますよ」
「ほんとか」
 司祭を見上げる少年のシルエットが愛らしい。血気にはやった兵卒どもを相手にするよりよっぽど心が洗われる。リリアンは人並みに子供好きだった。
「私がいまだかつて、嘘をついたことがありますか」
 まじまじと子供の顔を覗き込み、司祭はにこやかに笑みを作った。にこやかな、しかし妙に芝居がかった司祭の笑顔は、初見のリリアンから見てもどうにも胡散臭い。たかが子供相手に、おそらく他意はないのだろうが、ともすれば余計に不憫だった。これほど聖職の似合わない笑顔の、聖職者もいないだろう。
「司祭様、だって嘘しかつかないじゃん」
 案の定、言われてしまっている。慣れているのか、特に気にした様子もなく、司祭は軽く笑って受け流した。
 消毒液を取ってきましょう。そう言い残して、司祭は奥の扉へと去っていった。
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