ポドールイの人形師

2-6、ポワゾンリング

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 夜明け前。本来なら、いまだ闇と静寂が支配する刻だ。
 だが見渡す限り、辺り一面は焦熱地獄と阿鼻叫喚に包まれていた。松明をもって火を駆け回っているのは、皇帝軍の軍服を着た兵士たちだ。こちらに気付いた一人の兵卒が、慌てて敬礼をしてくれた。なぜ我が軍が放火して回っているのだろう。わけがわからない。考える気も起きない。
 リリアンが徒歩で歩く前を、背虫のタルモン侯爵と、やけにがたいのいいタルモンの息子が馬に乗って、逃げ惑う村人たちの間を抜けてゆく。タルモンの息子とは、この遠征で初対面だ。名前すらも聞いていない。
「公子、教会で倒れていた子どもたちはいかがしたんですか?」
 気を遣っているつもりなのだろうか。ゆっくりと馬を進ませるタルモン侯爵が、振り向きもせず、リリアンに話しかけてきた。どういうつもりなのかはわからないが、タルモンの人間と内容のない会話をする気にはなれなかった。
「実験に付きあってもらったんです。ポワゾンリングの」
「ポワゾンリング?」
 ポワゾン。毒を意味する言葉に、タルモン侯は喰いついてきた。たしかに、興味をそそる素材ではあるだろう。リリアンは布に包んで弄んでいたクリソベルの指輪をとりだすと、あたり構わず燃え広がる、赤い炎にかざしてみせた。
「裏に毒針がついているんです」
 リリアンがかざした手の先を注視していたタルモンの父子だったが、そこで慌てて目を反らす。もったいない。炎にゆらゆらと色を揺らめかせる、クリソベルの宝石がとてもきれいなのに。村一つ平気で焼き払っておきながら、ポワゾンリング一つに怯える父子が妙におかしかった。
「公子……」
「すみませんが、この場では将軍とお呼びください。僕は、軍の指揮を任されている人間です」
 タルモンの息子の低い声に、いくぶん冷たくリリアンは返した。年嵩のタルモン侯爵には多少の遠慮をしたとはいえ、息子にまで公子呼ばわりされる覚えはない。指輪を指に嵌めながら、視線を外してリリアンはタルモンの息子の言葉を待ってみる。なにかを言いかけたタルモンの息子だったが、彼はそのまま口を噤んでしまい、結局つづきを話そうとはしなかった。割と丁重に諭したつもりだったが、ずいぶんと気分を害させてしまったようだ。
「公子、申し訳ない。息子は少々話し下手で。この状況について、私が説明してもよろしいかな」
 タルモン侯爵とて、今はリリアンの指揮下にある。暗に侯爵にも、自分のことを将軍と呼ぶよう注意したつもりだった。だが何事もなかったかのように、タルモン侯爵はリリアンを、公子と呼びつづける。表向きリリアンは笑顔を造り、侯爵に続きを促した。
「夜陰にまぎれてラウランの賊軍が奇襲をかけてきたのです。多勢に無勢、我々はひとまず後退することを決めました」
 連れてきた諸侯軍は二千、情報によると敵軍はわずか数百。いつの間にこちらは無勢になったのだろう。それに、我々は、とは言っているものの、誰の責任で後退を決めたというのか。司令官たるリリアンには、命令を下した覚えはまったくない。
「なるほど。それで、家々が燃えているのはどういう……」
「村民どもは軍に非協力的だった。敵に寝返る恐れを考えて、火をかけた。賊軍の足止めにもなったしな」
 リリアンの言葉を遮って、タルモンの息子が野太い、淡々とした口調で口を挟んできた。あまり友好的な様子ではない。それにしても非協力的とは。略奪を働く軍隊に、友好的になる村などあるのだろうか。
「公子」
 声を発したのはリリアンだ。タルモンの息子には、他に呼び名がない。タルモン侯爵の第一子、という以外に彼には肩書きがないし、名前も知らない。この場でタルモンの息子がリリアンを公子と呼ぶのは無礼に当たるが、リリアンがタルモンの息子を公子と呼ぶ分には、文句を言われる筋合いはないのだ。小走りでリリアンはタルモンの公子の側らにより、馬上の高い位置にある相手の顔を、笑顔で見上げた。
「疲れました。馬を譲ってください」
 なにせ周りが燃えているのだ。雪道のためそれほど危険とはいえないが、火の粉も飛んでくるし、普通に歩いているだけでも気を遣う。
「な、なにを。では私はどうしろと」
「あなたにはもう、馬は必要ありません」
 リリアンは手を伸ばし、タルモンの息子の足首を、強く掴んだ。靴下を貫く、針の手ごたえを感じる。見上げた先の名も知らぬ公子の顔には、苦悶よりも、驚愕の表情が映っていた。
「軍律違反で、死刑です」
 次の瞬間、驚愕の表情に目を見開いたまま、公子の大きな上半身はのけぞり、真後ろに落馬した。ありがとう。一言礼を言うと、あたりまえのように、リリアンは騎手のいなくなった白馬の上に跨った。

 馬を奪ったリリアンは、早速馬足を速めた。兵は神速を尊ぶ。いまさら神速もなにもないが、それでも早く陣に戻って状況を把握しなければならない。全く預かり知らぬこととはいえ、皇帝が留守中の軍の責任は、すべてリリアンに押しかかる。
「ま、待て。ヴィルトールめ。やっぱり貴様らは悪魔の使いだ。べ、ベルナールをよくも!」
 ベルナール。知らない名前だ。悪魔の使い。ヴィルトール家の闇の活動を賞した、誉め言葉。リリアンはそう解している。知らない名前と誉め言葉を組み合わせたタルモン侯爵の呼び掛けに、リリアンはにっこり笑顔を返した。
 鞘を払い、追い縋ってきたタルモン侯爵の剣を受け止めると、侯爵はそのまま剣を取り落とし、あっけなくも馬から落ちた。捨て置こうかとも思ったが、それでは後が面倒だと思い直したリリアンは、行き過ぎた馬を少し戻らせ、尻から地面についてしまったタルモン侯爵のもとに馬を寄せた。
 勝負はすでについている。勝負ともいえない勝負だったが、タルモン侯は騎馬と得物を失い、とにかく戦意は残っていない。
「さ、お手を」
 この上なく親切に、慇懃に、リリアンは馬上より、地面の侯爵に手を差し伸べた。炎に照らされ、紫色だったクリソベルが血のような真紅に色を変え、リリアンの指元で移ろうように煌いている。
「さあ、お覚悟を決めて」
 いつまでも、毒の指輪に飾られた手を引っ込めようとしないリリアンに、タルモン侯爵は長い時間逡巡し、やがて腕を伸ばしてリリアンの手首を掴んだ。手首なら、ポワゾンリングの毒針には触れずに済む。
「ふふっ、おもしろいことしますね」
 予想もしなかった侯爵の行動に、リリアンは思わず笑い声を漏らしてしまう。侯爵のほうもずいぶん安心してくれたらしく、つられるように口もとを引きつらせた。
「というか、往生際が悪い。あなたも息子さんと、えーと、息子さんのお名前はなんでしたっけ。さっき叫んでおられましたよね。とにかく、彼と同罪です」
 タルモン侯爵に手首を握られたまま、リリアンは指先の筋肉に、ほんの少し力を込める。
「軍律違反。だから、死刑です。おとなしく死んでください」
 軽く、タルモン侯爵の皺ばった細い手首を握り返し、離してやった。悲鳴もなく、リリアンの手首を握るタルモン侯爵の腕が緩み、ずり落ちるように崩れ落ちる。侯爵の青ざめた顔に見入りながら、リリアンは自分の顔を暗い嗤笑が、抑えきれず覆い広がるのを感じた。
「また親父に叱られるな。殺るときは、標的をよく調べてからにしろ、って」
 タルモン侯爵に他に息子はいただろうか。いなければタルモン家は断絶。だがいたならば、面倒だが始末することになるかもしれない。そんなことを考えながら、リリアンはうっとりと、自分の指を飾る真っ赤な宝石に眺め入る。
 なにごともなかったように騎首を返し、リリアンは単騎、人形館の白い丘を疾走した。
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