ポドールイの人形師

2-7、教会にて

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 十八年前の話だ。それは暖かなシャイヨーには珍しく、雪の深い冬だった。シャイヨーの南辺に接するポドールイの地方はロマナの山脈に近く雪国だったが、ラウラン家の治めるシャイヨーは雪が降るほどの標高ではなく、常春の楽園といわれている。そのシャイヨーでさえこの有様なのだ。今年の寒波はいつになくひどいらしい。この分では、ロアンヌの帝都パリス。それは今、さぞかしひどい有様だろう。
 華の都、パリス。平素から浮浪者と娼婦を抱えた街。しんしんと降り続く雪の音に耳を澄ませて、シャイヨー司教、リュック・ド・ラウランは、何気なく遠い都に思いを馳せた。つい一昨年前まで、リュックは神学生としてパリスの大学に在籍していた。華やかすぎるパリスの都を、結局リュックはあまり好くことはできなかった。しかし哀れみに似た愛おしさを覚えさせる何かをパリスは孕んでいた。楽しみながら滅びに向かう、ゆったりと凋落してゆく帝国の、あるいはラウラン家の鏡面のような、そんな悲しさを映す街だった。
 ドアを叩く音が聞こえた。静かな雪の音に溶け入るほどにあまりに弱々しいその音に、リュックはしばらく空耳かと思って放っておいた。だがあまりにも長く次第に弱まりながら続くので、リュックは闇の中を立ち上がり、扉へ向かった。扉を開いたところ、思いがけず雪の照り返しが眩しくて、リュックは思わず目を細める。
 はっきりとしない視界に、細い女の姿を認めた。
「こちらに、リュック・ド・ラウラン様がいらっしゃると聞いてきたのですが」
 女は都の踊り子の衣装を纏っていた。断った今思いを馳せた都の、一際暗い街路に、こんな姿の娘たちが佇んでいたような記憶がある。鮮やかだったろう緑の衣装は、擦り切れ色褪せていた。透けるような薄い布地に、ところどころ肌を露わにさせた踊り子の姿は、雪の夜にいかにも寒々しく哀れを誘う。目をしばたたかせ珍客を眺め回すリュックに、踊り子は耐え切れず泣きそうな掠れ声をあげた。
「聞いてるの。リュックは、リュックはいないの?」
「私が、リュックですが」
 その答えに、踊り子は目を瞠る。信じられないものを見るような、怯えるような目つきの彼女に、リュックは理由のない後ろめたさを感じた。
「嘘よ。あたしはシャイヨー司教、リュック・ド・ラウランに会いたいの」
「いかにも。私がシャイヨー司教、リュック・ド・ラウランです」
 そのまま崩れてしまいそうな哀れな踊り子に、聖職者らしく優しく断固とした言葉でリュックは答えた。自分がリュックだという真実は変えられないし、シャイヨー司教とまで言う以上、人違いもないだろう。
「私は、チビでデブでハゲで好色で、羽振りだけは良くて、あのどうしようもないろくでなしのリュックに会いたいの。あなたじゃ、ないわ」
 誰かが自分の名前を騙って、この哀れな踊り子を騙したのだろうか。力なく目の前で崩れ落ちる踊り子に手を貸すこともできず、リュックはただ足下を見下ろした。
「あたしはね、パリスの娼婦なの。今のパリスはひどいわ。パン一つ買えない。食べることもできない」
 そう言って踊り子は手に持った包みを開いた。小さな頭がのぞく。いまさらになって、リュックはこの踊り子が抱えているものが赤ん坊だということに気が付いた。
「あなたは誠実で、冷たい目をしてらっしゃるのね。あたしの愛したリュックとは大違い。あたしは食べられなくても、あの人の残したこの子だけは飢えさせたくなかったの。だけどもう限界。もうあたしには、ただでもお客さんはつかないわ」
 堰を切ったように、踊り子は身の上の話を始めた。踊り子の言うとおり、腕の中ですやすや眠る赤ん坊は、飢饉の割には健康そうにみえた。それに対して踊り子の方は、やせ細り、みすぼらしい。少女のような可憐さを残した彼女はそれでもなお美しかったが、触れれば途切れてしまいそうな儚さに、とても抱く気にはなれそうにない。
「この子、リュック・ド・ラウランの子です。あたしにはもう無理だから、あの人に預けたくて、はるばるここまでやってきました」
 雪の地べたに座り込んだまま、踊り子は赤ん坊を掲げた。懇願と、しかしそれよりも諦観に染まった悲しい眼差し。知らず知らず、リュックは赤ん坊を受け取っていた。
「この子の父親が、リュック・ド・ラウランだと?」
 赤ん坊を手放した踊り子は、リュックの問いに無心に頷く。
「この私がリュック・ド・ラウランだ。すなわち、私がこの子の父親ということになる。異存は?」
 いたずらめいたリュックの言葉に、刹那踊り子は固まり、視線が泳いだ。涙がこぼれ、壊れるような泣き笑いが踊り子の顔を彩った。何度も何度も首を横に振りながら礼を繰り返す踊り子に、リュックはわずかに苦笑する。
「して、私の子供の名前は?」
「カロル、カロルです!」
 叫ぶような踊り子の涙声。どうやらリュックの子供は、女の子らしい。
「さあ、あなたも入りなさい。そんなところにいたら凍えてしまいます」
 その晩迎え入れた踊り子は、死んだように眠りに落ちた。安らかな寝顔に、リュックも心穏やかに床に就いた。
 翌朝、リュックはカロルの激しい泣き声に起こされた。別室で寝たリュックにも耐えられないほどの泣き声にも、カロルを腕に乗せた踊り子は、目を覚ますことはなかった。前の夜と変わらない安らかな顔で、踊り子は冷たくなっていた。


 ポドールイ南部のやまあいに建てた、簡素な藁葺きの平屋に、しかめ面の貴族連中が集まっていた。左列の最前部には長老格のダルジャントー卿――彼はリュックの兄嫁の父である――が、向かいの右列には、ラウラン家の三男のラザールが座っている。ただ一人の女性として、議長席の後ろの上座には、ジネディの妻のテレーズが座っていた。
 さて、その正面の議長席には、本来座るべき当主ジネディの姿はなく、代わりに黒い僧服を纏ったリュックが座っている。皆、皇帝への不服従の罪をもって、今は失脚した旧選帝侯、ジネディ・ド・ラウランゆかりの者たちだ。一族の主だったものは多くが手配され、彼らは財を擲ち、慣れ親しんだシャイヨーの地からこのポドールイの地へと逃亡した。その際一族を率いたのが、前当主ジネディの次弟のリュックだった。
 十二のとき、家督をあきらめ神学を志し、単身パリスの神学校に赴いた。学校を卒業後、ラヴェンナの教皇庁よりシャイヨーの司教職を賜って十八年。四十も過ぎて、いまさら俗世に、それも逃亡貴族の指導者に祭り上げられるとは、世の中うまくいかないものだ。

 ポドールイの冬は冷たく厳しい。イグサを敷きつめただけの堂の床は、氷のように凍てついた地面の冷気を伝えてくる。地べたのイグサに直接座り込んだ貴族たち。評定のために集まったはずが、一同暗く沈黙している。一昔、つい数年前までは、ロアンヌ最大の選帝侯として、贅を尽くしたラウラン家だ。冬の寒さに凍え、ふもとの村人たちの施しに預からねば生きていけない今の凋落ぶりには、彼ら貴族たちには耐えられないものがあるのだろう。
 その点、リュックは気楽なものだった。火の気のないシャイヨーの教会は常に寒々としていたし、教会の運営自体、近隣の村民の慈善で成り立っていた。気候が厳しく立場が逃亡軍ということもあって、ポドールイの領主のジューヌ伯爵や領民たちを刺激しないよう、やや不自由なところもないではなかったが、総じてポドールイでの逃亡生活は快適だった。聖職者の自分に、ポドールイの敬虔な住民たちは非常に良くしてくれるし、ジューヌ伯爵とも直接の面識はないが、兄とは盟友の関係にあった人らしく、自分たちを追い出そうとする動きはない。
 帝国軍に捕らわれた兄、ジネディについても、リュックはさほど心配をしていなかった。シャイヨーに新帝ミカエルの率いる帝国軍が攻め込んできた際、ラウランの族人を逃した兄ジネディは、自らの意思で、無抵抗で軍に身を捕らわれた。兄は信念を持った強い人間だ。万が一、殺されることがあろうとも、誇りを失うことはないだろう。たとえ兄がいかなる末路を迎えていようとも、偉大なる兄の誇り高き最期に、憐れんだり心配したりするのは、むしろ非礼に当たるように思われるのだ。
 だがそれでもただ一つ、リュックにも大きな懸念事があった。その偉大な兄の一人娘、ラウラン家の姫君の行方が知れない。リュックにとっても、かわいい姪だ。なにより、兄ジネディと再会できるときが来たとしたら、とても合わせる顔がない。
「シシル……」
 沈黙の評定に、溜め息交じりのリュックの声が、異様に響いた。
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