ポドールイの人形師

4−2、紫の花

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 ポドールイにおける旧選帝侯ラウラン家の反乱は、ラウランの降伏と皇帝の恩赦という形で終息した。かろうじて体裁を保った皇帝と時の宰相家ヴィルトール侯であったが、戦は事実上の敗北であり、軍の崩壊は軍事、財政という実方面での壊滅的な損害を意味していた。本来なら進退に関わるほどの失態を演じた宰相家であったが、ヴィルトール侯ティエリと彼の息子の公子リリアンを中心に、即時に改革が進められた。三年計画の彼等の施策は、軍事、財政面において、ポドールイでの戦いの損失を穴埋めして余りある効果を示した。

「兄さま、ほら。いい香りです。陶酔草の花が咲きました」
 ラフィセは一輪の、小さな薄紫の花を持ち、リリアンの室へと踏み入れた。楚々とした足取りは、入り口の中央を通り、まっすぐリリアンの元へと向かって来る。
 幼い少女の来訪と共に、微かな芳香が部屋の空気をふっと軽くした。

 ヴィルトールはラヴェンナの教皇を頂きとする、教皇庁派の信仰を禁止した。なにも神を信じるな、と言ったわけではない。ただロアンヌにおいては、信仰の長が教皇ではなく、ラ・ヴィエラ家の皇帝とすると定めたのだ。その証として聖職者には、帝室の色である白の僧衣を纏うことを義務とした。
 なにせ、ラヴェンナを後ろ盾とした聖職者たちは、帝国内に無視できぬ所領を有しながら、税金を払おうとしないのだ。法を定めたのは良いが、案の定、彼らは初期において改宗の宣誓を行なおうとはせず、黒い僧服を脱ごうとはしなかった。

「やあ、ラフィセ。一人でここまで来たのかい、偉いね。陶酔草は、どうして使うか言ってごらん」
 慎ましやかに花弁を開く、陶酔草は、薬の花だ。

 ロアンヌの選帝侯には、恐ろしいかな、二人の大司教が名を連ねていた。帝国内に貴族顔負けの所領を有し、にも関わらず彼らは皇帝に忠誠を誓うではなく、あくまでもラヴェンナを向いている。見せしめに、うち片方のギィオ大司教に軍を差し向け、取り潰した。ロアンヌにおいて大法官の地位にもあった彼には、黒い噂が絶えなかった。彼の裁く宗教裁判は、ほぼ例外なく死刑の判決が下される。その数は記録に残るだけで、千はゆうに超えるという。罪状も読まず、ジュダ街一つ、無造作に皆殺しの決を下したことは有名だった。
 そんなギィオの処分には、常ならば躊躇する皇帝のミカエルやお付きのロセンサルも嬉々として手を貸してくれ、リリアンはその謀事を遂行することができたのだ。それにしても、千というのはずいぶんな数だ。父親と比べるとよくわからなくなるが、ギィオはかなりの悪人だったに違いない。

「乾かして、粉末にして口に入れると、眠り薬になります。食事などに入れると、標的を眠らせることができます」
 ラフィセはまだ五歳だ。正確にいうと、そのくらい、である。ラフィセはリリアンがつけた名前であった。誕生日は拾った日であり、当時を二歳と決めたのもリリアンだった。
拾ったときには自分の名前すら言えなかった赤ん坊が、今では流暢に陶酔草の効用を説明している。才に溢れる、実に賢い子供であった。

 それからの流れは、歓迎できるものだった。選帝侯位を持つもう一人の大司教、アルトワは早々に宣誓し、自ら宮廷に参内しミカエルの足元に跪拝したほどだ。多くの聖職者が彼に続いて、改宗の宣誓を行なった。なお従わぬ者には、徹底した取り締まりを行なった。聖職者狩りは、リリアンの胸を躍らせた。ポドールイでの戦い以来、黒い僧服を見るたびに、無性に殺意が沸いてたまらない。
 だが禁教は、決してリリアンの毛嫌いだけから提案したのではない。彼らが貯めこんだ、膨大な富を接収することが一つの目的に挙げられる。実際ギィオから奪った財産は、それだけでゆうにポドールイでの損失を埋められるほどのものであった。
 もう一つ。ラヴェンナの支配から脱することにより、教皇が禁と定めた武器を使うことが可能になる。

「もう一つの使い途は?」
 眠り薬、先の答えのみでは完答とはいかない。リリアンが陶酔草を愛するのは、むしろもう半分の効用のためだった。
「鶏冠石と一緒に煮詰めれば、即効性の毒となります。微量で効果を発揮し、残りません」
 すらすらと、ラフィセは淀むことなく答えてみせた。

 行方不明の王兄、アンドレが発明したとされる魔法の筒。それまでは教皇庁が悪魔の民と定めた異教徒にしか向けられなかったこの筒を、同じ神を崇める敵国に、そしてヴィルトールの施策に歯向かう自国の叛乱民にも向けることが可能になった。
 ちなみに空位となったギィオの大法官の役職は、リリアンが継いでいる。宣誓を拒む黒服の聖職者たちを筒で打ち抜く時など、まさに爽快の極みであった。

「そのとおりだ。ただね、ポドールイで指輪に使ったときは、実はあまり効かなかった。小さな赤ん坊すら、生き残ってしまったんだ。でもよく覚えていたね。偉いよ、ラフィセ」
 懐かしい。戦に破れ、戦場となったポドールイの村を抜けるときを思い出す。廃墟と化し、朝陽に影を伸ばすポドールイの村は、悲嘆に暮れるリリアンの心とどこか似ていた。そんな時、焼け落ちた教会より微かな泣き声を聞いたのだ。
雪の毛布に守られ、黒い僧衣に包まれた、紫紺の瞳の小さな生が残っていた。
「わたしの名前の花ですから……」
 ラフィセが胸に抱く、一輪の花。短い季節に紫の儚い花を咲かせるこの花を、陶酔――ラフィセ――の草という。
 雪の廃墟で拾った、花の毒に生き残った奇跡の赤ん坊に、リリアンは気まぐれにラフィセと名付けた。戦場にて兵士服の奇妙な少女と相対し、リリアンは帰途にて彼女を忘れることができなかった。代替に、僧衣を被り雪の冷たさに泣いていた、ラフィセをリリアンは摘んできた。
 リリアンの妹は、虚ろな紫紺の瞳でどこか遠くを見つめている。
「それで兄さまと会えたなら、ラフィセはわたしの幸運の花です」
 ラフィセが自らにとっても、幸運の花たらんことを。リリアンはなんとなしに願ってみた。
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