ポドールイの人形師

4−3、姫君の部屋

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 父帝の第一側室のために造られた部屋。かつてここには、異国の姫君が住んでいた。
 彼女は先の異教徒との戦いに得た、戦利品だった。美貌を誇った異国の王女は、あてがわれたこの部屋にのみ故郷の香を残すことを許された。ロアンヌ人のミカエルの美的感覚では理解できない、色鮮やかな原色の赤と落ち着きのないアラベスクの模様に部屋は彩られている。異国の王女は、この部屋から出ることはほとんどなかった。少なくともミカエルは、その姿を一度たりとも目にしたことはない。
 そして今、この部屋の主だった異国の姫君は、ここにはいない。果たして死んだのだろうか。ミカエルは彼女のことを見たことがなかったし、その時代に生きた者たちも、いまやほとんど残っていなかった。
 先の異教徒との戦いに活躍した者たち。当時宰相だったラウラン侯爵、財務大臣として戦費を捻出したタルモン侯爵は行方が知れない。元帥として軍を率いたラグナロワ侯爵は兄アンドレの皇位相続を支持したため、宮廷に出仕することを許していない。異教徒や異端者を容赦なく処断した、大司教ギィオは禁教令にかかり自らが捕らわれた。
 名だたる選定侯たちの中で、いまだミカエルの側にあるのは、当時外務大臣だった、ヴィルトール侯爵のみだった。外務大臣時代のヴィルトールの最大にして唯一の功が、異教徒の国の王女だったナシャを奪ってきたことだった。その魔力と美しさに、異教徒たちが神さながらに崇めたという姫君を父帝の側室としたことは、異教徒との戦いでの、完膚なきまでのロアンヌの勝利を象徴付けた。
 さて、先帝亡く、ナシャ姫もいなくなったこの異国風の部屋は、現在ヴィルトールの連中に占領されていた。宮廷に伺候する貴族でも、普通は城下に邸宅を持つものだ。例え緊急時、城内に室を借りるにしても、まっとうな神経の持ち主ならば、かつての妾のために造られた部屋に住み着こうなどとは考えない。
 ミカエルの即位と同時に宰相位に就いたヴィルトール侯爵は、ナシャ姫を含む先帝の愛人たちを解放した。ミカエル自身も側室たちの存在は好きではなかったし、実の母はすでに他界していたこともあって、宰相のやりように特に口を挟むことはしなかった。そこからのやりようが異常なのだ。侯爵は息子を引き連れ、我が物顔に女たちが住んでいた部屋に住み込んでしまった。ミカエルの母の暮らしていた正室の部屋は、今は宰相室となっている。異教の姫君が生きたこの赤い空間は、その息子リリアンが棲み付いている。
 彼ら曰く。皇帝陛下の部屋からも近く、環境も申し分ない、とのことだ。最近ではどこで拾ってきたのか、ヴィルトール侯爵の娘なる子供も第二側室の部屋だった場所に住み着き、結婚すらしていないミカエルの大奥が日々賑やかになってゆく。
 先帝が愛人たちに囲まれていたのと同様に、ミカエルは、悪魔の使いと二つ名される、ヴィルトールの連中に囲まれて暮らしていた。

「リリアン、呼び出したはずだ。なぜ来ん」
 話があって呼び出したリリアンが、いつまで経ってもやってこない。待ちくたびれて隣の部屋に足を伸ばすと、真っ赤な空間で、宰相の息子は優雅にも花など愛でていた。紫の花弁が慎ましやかに開いており、微かな芳香が部屋に漂う。紋章だけを施した簡易な将服の上着を羽織り、落ち着きのないアラベスクに囲まれて、リリアンは自宅にいるようにくつろいでいる。
「ああ、忘れてました。ラフィセが来てたんです」
 振り返り、悪びれる様子は微塵もなく、リリアンはにこやかに答えてくれた。 いつの間にか居ついている、目の見えないらしいリリアンの妹もそこにいる。皇帝を舐めきったヴィルトールの父子とは違い、まっとうな宮女らしく、幼い娘はミカエルの前より辞去しようと一礼した。
 おぼつかない足取りで場を去ろうとした盲目の妹を背後から捕まえて、リリアンは逃がさないよう羽交い絞めにする。
「悩み事ですか? 相談に乗ってあげますよ」
 目の見えない少女の抵抗は要を得ない。リリアンは妹を抱き上げ膝に乗せた。恐縮しきった少女の手を手ずから動かし、人形遣いの真似事をする。亜麻色の髪を二束に落とした幼い娘は、泣きそうな顔で為す術もなく捕らわれている。
 なるべくなら、余人に聞かせたい話ではない。だが小さな子供を追い出すのも大人気なく、ミカエルは兄妹の様子を憮然と見つつも話しはじめた。

 本来はまだ行くつもりはなかったのだ。自らが大陸の覇者となったときに迎えに行くと約束した。まだ期限には時間があるし、今ロアンヌは貴族の反乱、外国との戦争と、内憂外患の厳しい状況にある。
 だがシャイヨーのラウラン侯爵家が蜂起したと聞く。娘が住むのは、すぐ隣りのポドールイだ。巻き込まれないとも限らない。せめて敵の手の届かない安全なところに保護したかった。
 私的なことだったし、王命として家臣たちに頼むわけにも行かない。信頼できる近しい者に、迎えに行ってもらいたい。

「……想い人くらい、ご自分で迎えに行くことをお勧めしますよ」
 恥を偲んで、必死に打ち明けたミカエルの言葉に、リリアンはそっけなく答えた。冷やかされるのは覚悟の上だったのだが、まるで興味のないような対応に、ミカエルは腰砕けになってしまう。
「どうしてもお恥ずかしいなら、ジュダ人でも使ってください。お姫様の護衛なんてぴったりじゃないですか。あいつのいつもの仕事と変わらない」
 からかうような言葉と一致しない、悪意の感じられない笑みをにっこりリリアンは浮かべてみせた。
「俺への侮辱か?」
「自意識過剰です。僕は陛下をお姫様だなんて言ってませんよ」
 悪びれることもなく、リリアンは揶揄を交えた軽口を叩いた。よほど殴ってやろうかと思ったが、ミカエルは怒りをぐっとこらえる。なんとか頼みを聞いてもらわなければならないのだ。ミカエルは語気を静めて、眉根を寄せて不機嫌を顔いっぱいに映しながら、下手に出た。
「なんでも結構だ。頼むから聞いてくれ。あの娘はジュダ人を嫌っている。だからロセンサルを遣るわけにもいかないんだ」
「そんな女はやめなさい」
 リリアンは膝の上の、ラフィセの腕を持ち上げる。純白の絹布に包まれた短い両腕が重なって、ミカエルに向けてバッテンが作られた。
「ロセンサルを嫌えるような人間、よほどの悪人か、それとも愚か者かのどちらかです」
 天下の大悪人である自分たち親子を棚に上げて、なんたる言い草であろうか。ねー、などと言ってリリアンは腕を借りた妹に相槌を求める。見ると、居心地悪げに目を伏せたラフィセの頬が、仄かに朱を帯びていた。それを見逃すことなくリリアンは玩具を見つけた子供のように嬉しげに、言葉の矛先を妹に向ける。
「いけないなぁ、ヴィルトールの娘が不用意に表情に出しちゃ。ラフィセはロセンサルを知ってるの。陛下の金魚の糞で、でっかくて乱暴な悪いジュダ人だよ。ラフィセはロセンサルのことどう思うか、皇帝陛下に教えてあげて」
 はにかむように兄の顔を見上げた少女が、促されてミカエルを見た。焦点の定まらない紫紺の双眸を受けて、不意に戦慄を覚えた。先ほどまで頬を赤らめていた幼い少女の、兄とは全く造作の違うあどけない顔が、見事なヴィルトールの笑みを造っていた。目の笑っていない、無邪気で冷酷な笑みだった。
「ロセンサルさんは、純粋な、素敵な方だと思います」
 ぽんぽんと、リリアンの手が癖っ毛の踊るラフィセの頭を軽く叩く。
「ほら、五つのラフィセでもわかることです。陛下の想い人は相当な阿呆です」
 言葉に最上級の悪意を込めて、リリアンは笑顔を造ってくれた。見事なヴィルトールの笑みが二つ。ミカエルに何も言わせない、大輪の花を咲かせていた。
「……おい、その顔をやめろ」
 何をされるわけではないとしても、本能的に寒気を感じる。慣れていない者ならば、この恐ろしい笑顔を誠実さの証と取るらしい。
「ラフィセ、陛下が怖がってる。違う顔をしてあげなさい。そうだな、陛下を誑かす、阿呆女の顔を想像してごらん」
 笑みを潜め、リリアンの妹は茫洋たる視線で遠くを見た。やがて何か考えがまとまったのか、一つ大きく息を吸い込む。ぷくうと頬を膨らませ、ラフィセは変な顔を造ってくれた。
「いいねえ、たぶんロセンサル嫌いの陛下の想い人はそんな顔だ」
 そう言うと、リリアンも一呼吸を吸い込んで、同じようなふざけた顔を造ってみせた。 妹の様子はまだ微笑ましいが、兄の顔はひたすらにミカエルの神経を逆なでする。
「殺すぞ」
「ジュダ人のいない陛下なんか、怖くないですもん」
 顔を造るせいではっきりしない言葉と共に口から空気が抜けてゆき、リリアンの頬が萎んでいく。言い終わったリリアンの顔には、嫌味な笑みが残っていた。リリアンが妹の頬を指先で押すと、小さな方の頬も音を立てながら萎んでいった。
「そんな目で見ないでください、怖いなあ。どんな阿呆女です、一応聞いてあげましょうか」
 自分を見上げるリリアンを、ミカエルはいっそう険しく睨みつける。彼女に会ったこともないリリアンに、そんな風に言われるのは非常に不快だった。
 だが反論する言葉も見つからない。娘は気位が高く、ジュダ人に関しては因習的なところがある。だがそれでも、理屈ではない。彼女が欲しい。なんとしても、リリアンに動いてもらい、少女を手元に置かねばならないのだ。
「ジネディ・ド・ラウランの娘だ。ラウランの相続権を持っている。死んだリュック司教よりも順位が上だ」
 ミカエルの言葉に、リリアンは少なからず驚いたように目を瞠る。ほう、と感心したように息を漏らした。やがて鳶色の目を細め、楽しげに唇の端を小さく歪めた。
「政略結婚するとでも? ご説明ください」
「俺がその娘を娶れば、俺はラウランの爵位を兼ねることになるだろう。今ラウランの当主を名乗っているのは、名前も聞いたこともないラザール将軍の庶子らしい。どう考えても正当性に劣る。反乱分子はラウランを名乗れず、大義を失う」
 ヴィルトール相手に、情に訴えても仕方がない。理屈で負かして、有益たることを納得させねばならない。どうだろう、リリアンは自分の言を認めてくれようか。ヴィルトールの人間相手に謀で挑むなど、それまで考えもしなかった。
 リリアンは、わずかに考えるような沈黙を置く。
「どう思う、ラフィセ?」
 次いでリリアンは一つ頷いて、膝の上の妹に訊ねた。
「はい。落ちぶれたにせよ、ラウランの名前だけで、敵に回すにはやっかいです。たくさんの貴族が昔の宰相さまを懐かしむのをよく聞きます」
 幼い少女の淀みない返答に、ミカエルが驚かされた。ラフィセは目の見えない分、盗み聞きは得意なんです。そう呟いて、見事な答を紡いだラフィセの頭に、リリアンは満足げに口づけする。 顔を向けたリリアンは、心底楽しそうに笑んでいた。
「よく考えましたね、陛下。戦わずして取り込む、素晴らしい計略です。ヴィルトールのやり方に似ています」
 にっこり笑って、誉めてくれた。成功だ。リリアン相手に、企みごとで。会心の笑みが拡がるのが、自身でも抑えられない。
「じゃあ、迎えの役……」
「でも僕は絶対行きませんよ。ラウランの娘で、ロセンサルを評価できない阿呆女。そんな奴が陛下と結婚するなんて、考えただけで反吐が出ます。悪いですけど、感情的に受け入れられません」
 明らかに敵意の篭ったリリアンの言葉に、ミカエルは驚いた。笑顔の仮面とは裏腹に、リリアンは冷淡な人間だと思っていた。理屈を認めておきながら、ロセンサルやミカエルや、ましてや会ったこともないラウランの少女についての事柄を、正負の方向は別にして、感情で翻すとは思わなかった。
しかしミカエルとしても、理屈ではない。シシルが、どうしたって必要なのだ。 言葉に詰まり、必死の眼差で、ミカエルはリリアンを睨みつける。
 やがてリリアンは一つ、諦めたように嘆息した。
「こうなっては議論しても無駄ですね。でも、僕が行くとその女、たぶん死んじゃいますよ。嫌いな奴は、気付くと殺しているんです」
 リリアンは妹を持ち上げた。掲げられた少女は、身動きがとれず、固まっている。
「代わりに、ラフィセをお貸ししましょう」
 状況を理解しかねるのだろう。焦点の定まらない少女の紫紺の双眸が、ぱちくり一つ瞬いた。
「大丈夫。少なくとも、剣を振るしか能のないジュダ人よりか賢い子です。それに我慢強くできているから、僕が行くより安全です。この子の目として、黒騎士でもつけてくれませんか。そうしたら無事にポドールイまで行けるでしょう」
 空中で、ほんの少し不本意そうに唇を尖らせてから、ラフィセがペコリと頭を下げた。
 頼める者がいないのだ。リリアンが動かないなら、仕方がない。ロセンサルを送るしかないだろう。それにラフィセがついて行くのなら、それはそれで別に構わない、とミカエルは思った。
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