ポドールイの人形師

5−3、攻城

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 決壊した堤防の上にかろうじて逃れたジューヌは、真っ白な心地で眼下の惨状を見下ろしていた。城下の街が濁流に沈む。高所に待ち伏せたラグナロワの兵士たちが、『アンドレの筒』で水に飲まれ惑う叛乱軍の民たちを狙い撃ちにしていく。なぜ、こうなってしまったのだろうか。わずかな時にこの問いが、何度頭の中にこだましたであろう。
 シシルを、引き上げられたことだけが救いだった。腰砕けに、少女が足元に座り込んでいる。シシルの白いコートも長い髪も、ほとんど濡れてはいないようだった。R侯爵が守ってくれた。人形を、少女はぎゅっと胸に抱いている。離さなければ、きっと守ってくれるはずだ。それでも恐怖にか、寒さにか、座り込んだまま少女は震える指先で、ジューヌの裾を握り締める。
 怯える少女に手を伸べて、例えば抱きしめてやることを想像する。それはやはり、許されぬであろうか。今の自分では、少女はきっと拒絶しよう。せめて、声を掛けることくらいはできぬであろうか。もう安心だと、震えることはないのだと。俯き、青ざめた少女の顔を見ると、しかしなにも言葉が出てこなかった。司祭カトリノーの帰ったあの夜から、ずっとだ。何も言えない。謝りたいのに。自分の気持ちを、伝えたい。しかし、そうして吐き出される言葉はなんだろう。偽りか。あるいはまた、自分を守るため、少女を傷つける言葉だろうか。怖くて、ジューヌは結局口を噤んだ。
 耐え難く辛くなり、ジューヌは半ば無意識に、シシルより身を離そうと動いた。不意に強く、マントの裾を引っ張られる。驚いて少女を見下ろすと、眦に涙を溜めてシシルはじっとジューヌを睨んでいた。目が少し充血している。いつもと変わらぬ強い視線のはずなのにどこか辛そうに見えるのは、自分の気持ちをシシルに重ねてしまっているからだろう。
 そんな顔で、責めないでほしい。自分はシシルの期待に添える、皇帝になれるような人間ではない。見切りをつけてくれればいいのに。そうしたら、なにもかもを捨ててしまうことができるだろうに。
 鋭い号砲が、一際近くで大きく聞こえた。背後から敵に撃たれた。それもなぜか、道化のなりをした自分ではなく、うずくまるシシルを狙った凶弾のようだった。


 反乱軍の指揮官として、ラザールは最初にアルビの城を見た。選帝侯ラグナロワの治めるアルビは、ラヴェンナの雪解け水が流れ落ちる川の州に造られた街だった。
 ラグナロワ家は代々武官の家だった。シャイヨーでの戦いの折り、今は兄ジネディとともに焼け落ちてしまったラウランの館は、華美ではないが造型にこだわった設計だった。広い庭園を備え、領民の喧騒からは離して造られた、草原の閑静な館だ。およそ戦いを想定したものではなく、皇帝軍の前にあっさりと落ちた。そのシャイヨーの館に、このアルビの城はほとんど対照を成している。ラグナロワ家の連綿と受け継がれた尚武の性を、まさに体現したような城だった。城街は流れの緩やかになった川の中州に聳えており、跳ね橋を上げれば、穏やかな水の流れはさながら街を包む天然の濠となる。美しい景観を備えた土地にも関わらず、無骨な高い石塀が城下街を丸ごと外界から切り離すかのように囲んでいた。あちこちに石の物見塔が設けられ、敵の襲来を監視している。そして街の中央に、さらに濠と塀に囲まれ、背の低い城が色も愛想もなく鎮座していた。アルビ城。それは城というより、砦と呼ぶべき代物だった。
 ラヴェンナの高い山脈に護られているとはいえ、国境に近いシャイヨーの土地で備えの薄いラウランの館に、ラザールは文官の弱さを見たものだ。いざというときに、真っ先に滅びるのは自分たちであろう。予感めいたものは持っていた。だが数百年戦乱のない国奥にあるアルビの地に、このような堅牢な城塞があるのも、一種失笑を誘うものがある。武官の頑なさといおうか。時代に取り残された土地だった。
 新帝には遠ざけられ、宮廷への出仕を許されていない。不遇をかこつこともせず、異教徒としゃにむに戦い、黒い僧服の聖職者を取り締まる。いずれもただ、主君に命ぜられるままに。利に惑わされぬ一貫の忠誠。その態度は同じ武人として尊敬に値するものだったが、同時に哀れみを覚える姿でもある。この古い将軍と、戦う意味が浮かばない。ラザールは溜め息を噛み殺し、水の流れから聳え立つ城壁を見つめた。
 比較的川の上流にあるこの地の水の香は、清い。だが季節は既に初夏であり、気候はシャイヨーや、ましてや雪解けのないポドールイと比べるとはるかに暖かでだった。清く温かな匂いというのは、どこか感覚を狂わせるものがあるように思う。大軍を率いて辿り着いたとき、既にアルビは開城していた。跳ね橋は降ろされ、満ちる水位にあわせて石塀の中ほどに穿たれた堅牢なるべき門扉は、大きく口を開いていた。
「ラグナロワめ。臆病風に吹かれ、降伏を選んだか」
 神の小羊らよ、私についてきなさい。芝居がかってそう叫ぶと、先ほどまで裏に隠れていた大司教ギィオが、丸い体で転げるように先頭を行っていたラザールらの前に駆け出した。聖職者の呼びかけに、一部の民が呼応する。門が高い位置にあるため、上り斜面になっている跳ね橋の上で軽い混乱が発生する。兵は配されず、城街は無気味なほどの静けさを保っていた。跳ね橋は降ろされ、門扉は開いている。降伏だろうか。白旗が上がっている様子はどこにもない。
 アンリ・ド・ラグナロワという人間は、戦わずして降伏するような者ではない。だが策を弄する種類の将でもなかった。あからさまな不自然さを感じるものの、この状況はラザールの知る元帥ラグナロワ像では計りえないものだ。
「ほら、かわいい顔が曇ってるぞ。しゃきっとしろ」
 なんとか冷静さを保とうと、馬首を隣に並べる、考えていることがおもしろいほどに顔に出るかわいいラウラン家当主をからかってみた。ほのかに顔を紅くし、怒りと恥じらいの入り混じった眼差で睨みつけられる。赤白の仮面に隠れ、左側の皇帝陛下の表情はあいかわらず取れない。ただここしばらく彼の周りにはどんよりとした空気が立ち込め、話し掛けるのはやや憚られた。
 状況だけを見れば、やはり罠なのだろうか。考えても仕方がない。ラザールは、そういった種類の将ではないのだから。この止めえぬ奔流に、ただ身を任せるのみだ。
 入り組んだ水路が走る街だ。味気ない無骨な石造りの建物が通りの両脇に並び、雨水が伝う側溝にはきちんと蓋が為されていた。非常に整備された、街並みだった。ところによっては頭の上を流れる水路は、街の人々の生活用水として利用されるのだろう。中央の広場まで真っ直ぐに大通りが伸び、きちんと区画分けされた家々が並ぶ。整然、その意味で美しい城下街だった。華美ではあれど無法と混沌に浸る都と比べ、文明的には勝っているかもしれない。都で道端にたむろしていた、乞食も娼婦もこのアルビの街には見当たらない。無機質に美しい。人の気配が一つもない。商店は閉じ、住人はどこにもいなかった。整然と、誰もいない。不思議な感覚だ。門をくぐり相当に歩いて、野良犬が一匹、逃げ出す姿を確認する。ようやく、この街が現実だということを思い出した。
 中央の広場につくと、そこには黒服の聖職者たちが待っていた。捕らえられていた聖職者たちが、解放されたようだった。自領の司祭を見つけた民が、歓声を上げて広場に流れ込む。複雑な面持ちで待っていた聖職者たちも、知った民を見つけると、安堵を込めて顔をほころばせた。その様子を、ラザールは止めようもなく眺めていた。さすがにこれを、素直に元帥の好意として捉えるわけにはいかないだろう。喜びに溢れる音が、鼓膜の外、どこか遠くでこだまする。静かだ。なにもかも不自然だ。
「常勝将軍ラグナロワなぞ、名前だけの男ですな。正体は、卑怯で臆病な無能貴族に過ぎません。実は私、将軍方の行軍をこのアルビから逸らすよう説得して欲しいと、ラグナロワめに泣き請われて城を出されたのです。しかし神の御使いとして、異端に従うラグナロワを庇うわけにもいかず、また敬虔なる同胞たちを見捨てるわけにもいきません。そこで私は、神の軍を率いられたる将軍方にあの男を正していただこうと、あえて真実をお教えしたのでございます」
 己が手柄を誇るように、いつの間にか隣りに戻っていたギィオが胸を張ってそう言った。なんのことはない、この男のやったことは裏切りだ。そして道化に過ぎない。釈放の条件を反故にして元帥を裏切った。しかしそれはおそらく、ただ元帥の思惑通り掌の上で踊らされていただけに過ぎない。宮廷に出入りしたことのある者で、ギィオが信用ならぬことを知らぬ者などいない。これは罠であろう。まんまと無人の城下に誘い込まれた。
「陛下。シシルをお探しください。この場は危険かもしれません」
「ええ、言われずとも、わかっております」
 アンドレ皇子が入っていると思っていた仮面の道化が、高い女の声で応えたので驚いた。仮面を外すと、そこには金の髪のえらく美しい女が、無表情にラザールを見据えていた。どこか、シシルの母テレーズに似た女だ。
「おそらく、水攻めでしょう。ジューヌはシシルさんとともに、高いところへ避難しました。……申し訳ありません」
 天才アンドレは全てを見切っていたらしい。わかっていながら、傍観してしまうところまで、アンドレらしい。最後に申し訳程度、空々しい謝罪の言葉を付け足してくれた。
「勘のよろしい。謝っていただくことはありません、陛下の御身が第一ですし、人のことをとやかく言える人間でもないんで」
 目の前にいる女は、陛下の人形なのだろう。とてもそうはわからないよくできた造りだった。それにしても、まさか捨て駒扱いにされていようとは。そして自らとシシルだけを逃がそうとする。思っていた以上に、食えない皇帝陛下になりそうだ。
「リュックも、主だったものを連れて、避難しなさい」
 馬を進めながら、顔を向けずに傍らに告げる。最悪、皇帝と当主と、あとはダルジャントー卿くらいついていれば、再建は適おう。砦を見つめラザールが慣れぬ計算をしていると、しばらく進んだところで、近くから間の抜けた声が聞こえた。
「ラ……、父上は?」
 避難しろと言っているのに。ついてきてはダメではないか。
「ん。息子よ、父は元帥閣下と話してくるよ。今さら全員避難させるわけにいかないし、このままじゃ、みんな死んでしまうからな」
 かわいい息子よ。ラザール様、と言い間違えかけたリュックを揶揄ってやると、姪っ子は頬を紅らめ、眉間に皺を寄せてみせた。
「私も一緒に参ります。後ろにはダルジャントー様がついております。父上が気付いた罠ならば、絶対に卿もわかっておられるはずですから、大丈夫です」
 ぷいと顔を背けると馬足を速め、リュックはラザールの前を行く。なんと反撃を仕掛けてくるとは。成長しているものだ。
「おい待て。まったく。おまえは止めても聞かないよなぁ。言って聞かせてやる時間はないし。俺は止めたからな、あの世でリュック兄に怒られたら、おまえから弁解してくれよ」
 栗毛の小馬を追いかけるため、ラザールも自分の黒馬の腹を軽く蹴る。
「はい、大丈夫です」
 元気な返事が返ってくる。渋面ものだ。空の上から兄が叱責をくれるのが、目に浮かぶようだった。

 門兵を問答無用で斬り殺し、気分が悪くなっている様子の姪っ子を目隠ししながら、ラザールは城内に潜入した。
 上階で、筒の鳴る音が聞こえた。合図かもしれない。いよいよ街を取り巻く包みが決壊する。引き連れてきた民に逃げる術はなく、自分たちは多くのものを失うだろう。血のついた剣を袖で拭う。胸に抱き寄せたカロルの震えが止まらない。これでは足手まといだ。
「大丈夫。なにも、怯えることはない」
 カロルをそっと腕から離してやると、ラザールは記憶に残る兄を真似て、柔らかな口調で気遣いの言葉を囁いた。現金なもので、震えが収まる。それどころか、多分に無理をした様子の気の強い眼差でラザールを見上げてくる。
 自身の言葉では、こうはいかなかったであろう。戦場に立つと、心がいやに冷えてしまう。たくさんの仲間が死ぬであろうというのに、剣を握っていると笑みすらこみ上げる始末だった。リュック兄、ありがとう。空気に振動は伝えない。味気ない石造りの天井に向け、たくさんの感謝を込め、ラザールは最後に残った心の欠片で唇を動かした。
 さあ、濁流が、うなり街を沈める音が聞こえる。
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