ポドールイの人形師

5−4、濁流

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 ジューヌは至極冴えていた。身を翻しシシルを庇った。背に熱さを感じながら、少女を見る。少女は青い光を纏っていた。自らが銃弾を受けずとも、シシルは侯爵が護ってくれるはずだった。そう頼んだのは自分だった。わかっていながら、刹那考える余裕まで持ちながら、ジューヌは自らの行動を変えられなかった。
 涙の乾かぬ見開かれた大きな翠の瞳と、数瞬視線が交錯する。ゆっくりと唇を動かして、愛しい少女に、ジューヌは言葉にならない声を贈った。意味を為さぬこのうめきさえ、濁流の音に飲まれ、少女の元には届くまい。
 臓腑から、苦い味が逆流する。このままでは、シシルに覆い被さるように倒れてしまう。少女は受けきれず、共に濁流に落ちてしまうかもしれない。この間際にして、いつになく理性的な自分を少し呪いながら、ジューヌは最後の力を振り絞って重心をずらし、背中から水面に身を倒す。
「ジューヌさま」
 己が身を顧みず、少女が身を乗り出してジューヌに向かって腕を伸ばした。ジューヌが死ぬということも、自分が危険だということも、この状況のなに一つ理解することなくこの小さな手を伸べてくれたのだろう。利己的で強欲で、いろいろなものを天秤に掛けてシシルを庇った自分とは違う。今倒れる落ちるのがジューヌではなく、ミカエルであっても、ラウラン侯爵であっても、例え憎むべき誰かであっても、シシルは無心にこの手を伸べよう。
 不意に、ジューヌの中で糸が切れた。白い手を掴むと、小さな身を乱暴に引き込み、抱き寄せる。落ちていく。愛しい者を抱きしめて、冷たい水に沈んでいく自分を感じた。何を、やっているのか。
 意識の遠のく中、苦しくなって壊すほどに腕に力を込めてしまう。そんな自分に、計り知れない心が壊れるほどの嫌悪が寄せてくる。守るはずだった。全てを犠牲にして、代わりに全てをシシルに与えるはずだった。なのに今、自分は何をしているのか。自己満足ですら、少女を庇うことすらできないでいる。皇帝になって、シシルに世界をあげようと思っていたのに。
 ……ラウラン侯爵、筋違いとはわかっていても、私はあなたを憎んでいる。どうか、シシルを護ってください。


 ラフィセは、広場から門までを一望できるという、城の見張り台に立っている。未だ見張り台までは届いていないというのに、せり上がってくるどこか熱を帯びた水の気に、全身が包まれなぶられるように錯覚する。将軍が関を壊す号砲を鳴らしたのは、もう半刻ほども前だった。
 城下に水は満ち、餌に放っておいた聖職者たちもろとも、農奴たちを奔流が呑み込んでいる頃だろうか。目の見えないラフィセは、ただ眼前に広がるはずの情景を想像するだけだ。時折人の悲鳴のような音が聴こえるような気もするのだが、空耳なのかもしれないとも思う。あらゆる音が水の轟音に呑み込まれ、微かに混じる雑音は、とてもその感情をラフィセのもとに届けるまでには至らない。
「将軍、わたしが見ていますから、目を逸らしても大丈夫ですよ?」
 盲いのラフィセは、本当は見てあげることはできない。しかし傍らで、将軍の大きな気配が辛そうにしているのが感じられるのだ。それは折り込み済みのことで、仕方のないことなのだが、それでも必要以上に将軍を苦しめるのはラフィセとしても本意ではない。
「私はこの地の領主で、堤を破る筒の砲を鳴らした。私が見ないで誰が見るのだ」
 返してくれた言葉は、まだ威勢を残した内容だ。だがその声は、すでに憔悴しきっていた。一時に老成してしまったようだ。一人で千人を斬って見せると、あの子供のような無茶を言っていた将軍を、葬ってしまったのはラフィセ自身だ。
「申し訳ありません」
「なにを謝る」
 思わずついて出た謝罪の言葉に、すぐさま問いが重ねられた。わずかに怒気すら孕んでいる。あまり答えたい問いではない。いくらヴィルトールの人間であるとはいえ、好ましく思う人を傷つけた刃を、あえて直視したいとは思わない。
「ヴィルトールの策は、将軍には似合いません。あなたの誇りを傷つけました」
「そんな気遣いをする必要はない。軍人にとって大切なのは勝利することだ。私個人の誇りなど、取るに足らない」
 そんな辛そうに、強がりを言われても困るのだ。謝ることくらい許してほしい。ラフィセは仕方なく、さらに考えた。
「罪なき聖職者たちを囮に使いました。アンドレの筒を、同じ神を信じる者たちに向けています。将軍を、神に背くようそそのかしました」
 押し殺すような嘆息が聞こえた。ラフィセは耳がいいのだ。隠してくれたつもりだろうが、むしろ将軍の感情が脳裏に響いて、居心地が悪い。
「心にもないことを言わないでくれ。君と同じように、私だってそんなものをあてにして生きているわけじゃない」
 さらに考えても、もう答は思いつかなくて、ラフィセはすっかり黙ってしまう。長い刹那息の詰まるような沈黙を感じたが、ラフィセの呼吸が尽きる前に、将軍が言葉を継いでくれた。
「すまないな。本当に、君に謝ってもらう必要はないのだよ。戦いの後はいつも気が沈む。たくさんの人たちを惨いやり方で殺している」
 ぽつりぽつりと漏らした言葉を、どこか中途半端に将軍は止めてしまった。受け取った言葉に間違いがないとしたら、かわいそうだが、ラフィセにとっても拍子抜けだ。果たして応えて、いいものだろうか。
「……致命的ですね」
 しばらく待っても、将軍は訂正してくれる様子もなく、ラフィセは仕方なく感想を漏らした。戦場で生きる者として、割り切らねばならないものがある。
 ラフィセは卑劣な策を用い、名将の誇り高き戦績に傷をつけた。悪魔の如き所業を吹き込み、幾度も異教徒を打ち払ってきた神の国の守護者ともいうべき将軍を、聖典の道に背かしめた。その罪は、計り知れないものだ。だが将軍の心を蝕むものが、ただ敵を殺せぬという脆い情に過ぎないならば、それはラフィセの謝るべきところではない。
「敵が異教徒であったり、私も命懸けで剣を振るっている時には、それでもなんとか耐えられた。だがここは……」
「彼らは武器を振りかざし、私たちを倒そうと攻め入ってきているのです。それが異教徒であれ、農民たちであれ。常勝の元帥閣下であれ、盲いの小娘であれ、私は戦場に立つものとして、同じだと思うんです。いつまでもこんなところで見ていたら、せり上がる水に押し流されてしまいますよ」
 人を区別し、敵をか弱いと思い込み、それを殺すことを苦しんでいる。それは優しさでもあるが、少し古臭い、傲慢さでもあるだろう。
「将軍。せめて駒として、この戦いが終わるまではもってくださいね。わたしの身は将軍に、護ってもらわなければならないのです」
 ラグナロワ将軍は、一瞬苦しそうに呼吸を止めた。だがやがて、ぎこちなくも呼気を一定の速度に落ち着かせてゆく。何者かが、おそらく敵が、石段を駆け上がってくる足音が聞こえる。
「ああ、君のことは必ず助けてもらう」
 将軍は、ラフィセにようやく応えてくれた。
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