ポドールイの人形師

5−6、河のほとり

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 面影を忘れかけていた、父の姿を見た気がした。幻だろうか。記憶が混ざってしまっているのか。瞳の蒼さが、仮面を外したアンドレ皇子の眼差しと重なってならない。
 お父さま。そう呼びかけると、父は振り向きどこか陰のある笑顔を造った。シシルの視線に、自分の感情の隠し切れていないことに気付いたらしく、ジネディは今度はあからさまに苦々しげな表情で見返してきた。怜悧さを発するラウランの端正な顔は、シシルからやましげに視線を外し、眉間には深い皺が刻まれている。民に敬われ、父は柔らかな笑みを湛えて彼らに手を伸べていた。先帝に慕われ、父はその手を引いて国を治めていた。清廉の士と称えられ、諸侯は卑屈に目を伏せて、異教徒はロアンヌの宰相を畏怖していた。
 誰だろう。シシルの前にあるのは、同じ造作で、しかしそんな記憶のどこを掘り返しても見当たらない、闇を映す相貌だ。
「何て目で私を見ているんだい。シシルは私に似ていないな、ラヴェンナの穢れざる血が、濃すぎるのかもしれないね」
 薄い唇が言葉を紡ぐ。記憶のとおりの、遠くから降ってくるような穏やかな声だった。だが悪意の混ざった揶揄は、シシルの信じていた父からは、想像できないものだった。ふと蒼い瞳から闇は消え去り、神々しいほどにひたすら寛容な笑みが浮かぶ。だがそれが感情の一欠片も映してはおらず、ただの仮面だということに、この時シシルは初めて気付いた。
「私は本物だよ。アンドレは、魔術を使う異教の王族の血を引いている。アンドレは私を殺してくれたが、私の魂を、シシルの抱いているその人形の中に封じてくれた」
 父の幻は、どんどんと饒舌になっていく。ラウラン侯爵ジネディが生き生きと、表情を現せば現すほどに、シシルの感情は封じられていった。
「私は君を護る。結末を見届ける代償として、アンドレと交わした契約だ。君は私の娘で、それはやぶさかなことではない」
 一つ疲れたように嘆息し、そこで父の表情が一変した。少し下卑な愉しそうに笑みを浮かべていた父の顔が、怒りの形相に取って代わる。温度の感じられない白い顔が目を剥いて、冷たい蒼の瞳が見下すようにシシルを睨み下ろす。恐ろしくはなかった。悲しみもない。驚きもなかった。自分に感情がなくなっていることに、シシルは他人事のように気が付いた。
「息子が死にそうだ。彼は私によく似た、暗い闇を持ち合わせた人間だった。君ごときを助ける傍らで、見殺しにしなければならない自分が許せない。こんな結末を、私は望んでいたわけではない」
 シシルは少し、考えたかもしれない。だがなにかが、父の言葉を理解することを拒絶した。言っていることが何一つわからなかった。
「息子との契約、呪いのせいで。私はシシルを護り、アンドレを見殺しにしなければならない」
 醜悪な父の顔に耐え切れなくなって、シシルは目を閉じた。抱きしめてくれる、腕の力が弱まってくる気がする。誰の腕だっただろう。父の幻の発する音にはすでに何も感じなくなっていたが、その腕の熱が冷えていくことだけが、ただ恐ろしく、哀しく、寒くて、苦しい。狂ってしまいそうに辛くて。シシルは感覚を失った。

 クヴァー、と。鼓膜を擦るようなカラスの鳴き声が聞こえた。
「シシルちゃん、起きなさい」
 耳がじんじんする向こうで、女の人の、知った声が聞こえる。目は覚めている。そもそもシシルは意識を失ってなどいなかった。青い光に包まれて、水に呑まれても息は苦しくなかった。冷たくもなかった。気付いてみれば、白いコートは濡れてさえもいない。
「おはよう」
 身を起こし瞼を開けると、赤い衣の魔女が立っていた。暗い色の肌の端正な顔を長く流れる銀糸が縁取り、その対照が眩かった。思わず目を細めてしまう。
「呆けてるわね。何が知りたい?」
 魔女が問うので、シシルは考えた。目の横で黒い影がはばたき、シシルの上に飛び乗った。すっきりしない頭が、さらに重たくなってしまう。ここは水の香がする。街を、人々を飲みこむ暗い濁流ではない。穏やかで清らかな、河の香だ。
「あっちよ」
「クヴァヴ」
 頭の上のカラスと声を唱和させ、魔女が彼方を指差した。流れの上流、その方向に顔を向けると、掌大に砦が見えた。アルビの、お城だ。
「シシルちゃんたちは、あそこから流れてきたの。わかった?」
 返事を求められているようだったので、シシルは頷いた。わかった、と思う。あそこから流されてきたのだ。
「シシルちゃん。大丈夫?」
 心配しているというより、溜め息混じりの呆れているような調子の声が降ってくる。腕の中の人形の、精緻な顔にひびが走ってしまっている。少し寂しくなって見つめていたら、魔女に取り上げられてしまった。離れていくR侯爵を目で追っていくと、ドロティアの手の中でぽんと爆発し、木っ端微塵になってしまった。カラスが驚いたようにクヴァーと鳴いて、シシルの頭の上から飛び立った。黒い羽毛が一枚舞い降る。
「お父さま、護って下さったのに」
 被さった羽根をのけ、目の前に落ちた蒼い瞳の頭の部分を、両の手で包んで拾い上げる。眉間の深いひび割れは、指でなぞってみても消えてはくれない。水の中で青い光に包まれたとき、父の幻を見た気がした。その瞳の蒼さが、脳裏で仮面を外した誰かの眼差しと重なってならない。目を瞑ると責めるように、苦々しげな表情でじっとシシルを見つめている。不思議だった。
「大罪人なのよ。こんな姿になってまで、シシルちゃんたちに付きまとって」
 ドロティアは足元に散らばった、人形の他の部位を蹴り払う。屈み込み、シシルの掬った蒼い目の頭も、やや乱暴に奪い取ってしまった。
「私もう、シシルちゃんに用はないの。行くけど、最後になにか聞きたいことはない?」
 空を一周旋回したディディエが、足で掴むようにドロティアの肩に着陸し、小さな金の双眸で威圧するようにシシルを睨む。黒い爪が布に食い込み、肩が痛そうだ。
 赤衣の魔女の眼差は、怖いものではなかった。必死で何かを抑え殺すように、わずかに睫毛で瞳を翳し、じっとシシルを覗き込む。その目を見て、シシルは少し焦ってしまった。慌てて頭を働かせ、魔女の質問に答えてみる。
「ディアンヌは、無事かしら。ジューヌさまに堤防に引き上げてもらったとき、あの子だけ流されてしまったの」
 魔女は眉根を寄せ、変な顔をしてみせた。その様子をシシルがじっと見返していると、やがてまた大きな溜め息をもらってしまった。ロバのディアンヌはもうおばあちゃんで、しかも盲いだった。やはり助からないだろうか。ポドールイに来たときより、もう五年。ずっと健気にシシルを乗せてくれたというのに、悲しくてならない。
「私が助けたのはシシルちゃんと、あと人形のナシャを引き上げたわね。他の人はわからない」
 魔女が端を歪めた唇の、その鮮やかだった紅がこころなしか褪せてしまっている気がする。口調は優しい。微笑には、哀れみか、失望か、そんなものが混じっていた。シシルの問いは、ドロティアの期待に添うことはできなかったらしい。
「そうだ、ジューヌさま、あたしを庇って怪我をしたと思うの。無事ですか」
「助けられなかった。死んじゃった。シシルちゃんのせいで」
 シシルはドロティアの視線から顔を逸らし、ディディエを見た。金の双眸は変わらず脅かすようにシシルのことを睨みつけている。カラスのほうが、魔女の似合わぬ表情を映す黒瞳を見るより、落ち着けた。
 やがて視界から外したドロティアが、突然シシルの顎に指を掛け、無理矢理シシルの視線を調整する。目を、合わせられてしまう。クヴェ。耳の近くで、短い鳴き声が聞こえる。魔女が至近に顔を近づけて、美しい顔で艶然と笑んでいた。
「……ドロティアさま、どうして泣いているの?」
 笑ったままのドロティアの両の眦から、先ほどよりいっぱいに溢れていた、涙が堰を切って頬を伝った。
「そうだ、ジューヌさま。あたしを庇って怪我をしたと思うのです。無事ですか?」
 ドロティアは、何かを答えてくれた。一度聞いたような答だった。鼻先の触れ合う程の近くで、言葉もはっきりと発してくれたというのに、なぜだか聞き取ることができなかった。ジューヌの姿が見えない。心配だ。
「ジューヌさま、どこかしら。一人だと、心配です」
「ジューヌは死んだの。それに例えいたとしても、あなたには絶対に返さない」
 ドロティアの美しい貌には表情がなく、言葉の意味も、感情も、シシルは読み取ることができなかった。ばさりと盛大なはばたく音が聞こえ、カラスが飛んだ。
「ドロティアさま?」
 訊ねると、魔女はそっぽを向いた。
「私は帰るから。もう、この国にも用がなくなってしまったし」
「あの、ジューヌさま、怪我をしたと思うの。無事かしら?」
 魔女は泣いたままにほころんで、爪の長い両の手で、そっとシシルの髪を梳いてくれた。
 ――さようなら。
 そんな言葉を言い残し、ドロティアはシシルの問いに、答えてはくれなかった。取り残されて、辺りを見回したが、いつも傍らにいてくれた人がおらず、困ってしまった。
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