ポドールイの人形師

6−7、説得

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 淡い暖色のカーテンを掛けてはみた。しかし繕ってみたところで、ここは質実剛健で知られた元帥ラグナロワ将軍の居室だ。打ちっぱなしの石の壁はむき出しになっており、新たな主には、そこはあまりに華やぎの足りない内装だと思った。それでもベランダのある大きな窓は、雨上がりのアルビの、豊かな水と緑の景観を一望に見渡せる。射し始めた明るい日差しと澄んだ河の香が溢れ、さすがにそれは城主の部屋だと思った。
 部屋の真ん中、窓の方向を向いて、椅子が一つ。椅子の上に、人形のように可憐な少女。少女は端正な面差しに、少し不機嫌そうな表情を浮かべている。彼女はわがままではない。聞き分けのできる良い子だった。だが思い通りにさせてあげられないと、割とたやすく顔に出る。その無垢な素直さが、微笑ましい。
 皇帝アンドレは、御身を差し置き、この城主の室を少女に与える意向を強く示してくれた。慎ましい姫君はすぐさま辞退を申し出たものの、仮面を外した皇帝陛下は以前からは想像もつかないほどに断固としていて、また軍の中核であるシャイヨーやポドールイの民まで、いがみ合いながらも陛下のこの意向だけは強く支持してくれた。もちろん、あえて表明はしなかったが、選帝侯ラウラン家の当主などをしている自分も、少女に適う限りの美しい場所を与えようという皇帝アンドレの決定には、大賛成なのだ。
 身を清め清潔な白いドレスに身を包んだ姫君は、光を浴びて、白い肌も金糸の髪もなにもかもがきらきらと輝き眩いほどだ。背に回り、煌く柔らかな髪を深く梳く。高価な石鹸の匂いが立ち昇る。それは至福の時だった。
「リュックさま。もう何時間もこうして座っている気がします」
「我慢してください。シシル様はご自分の髪がどんなになってしまっているか、わかっていません」
 不平を漏らした姫君に、リュックはにべもなく答えた。枝毛、ほつれ毛、細く柔らかな長い髪に旅は過酷だ。どんなに時間を掛けようとも、しっかりと心行くまで、手入れをしなければならない。リュックは使命感のようなものを胸に抱きながら、シシルの髪を弄り続ける。
「私が流されているうちに、たくせんの被害が出たと聞いています。ポドールイの村の人でも、見つからない人がたくさんいると。私だけがこうしているのは、どうかと思うの」
 窓の向こうを見つめたまま、心痛そうにシシルは呟いた。思わず後ろから、抱きしめたくなる衝動に駆られる。リュックはすんでのところで踏みとどまった。
「大丈夫。なにも心配なさることはありません。すぐに皆さんに会えますよ」
 ポドールイの民は、半数が未だ行方が知れない。村長の遺体が見つかったという報が入っていた。隠し事を持つのは苦手だった。気付かれないよう、指先の震えが伝わらぬよう、リュックは意識してゆっくりと髪を梳いた。そんなことを教えて、シシルを悲しませることなど、許されない。
「あのね、リュックさま」
 少し甘えた声がリュックを呼びかけ、言葉を切った。なにか気が咎めることを言いたいらしい。思わず笑いかけたくなるのを我慢して、しばし黙って焦らしてみる。シシルが居心地悪そうに俯くのを認めてから、なんです、とリュックは促した。
「カロルはやっぱり、司教さまの復讐のために戦っているのかな」
 リュックはシシルの望む応えを計りかね、返事をするのをためらった。無言で、シシルの前髪を掻き揚げる。シシルの容姿はラヴェンナ出身のテレーズ様の面影を強く顕していたが、少し秀でたかわいらしい額は、『カロル』の父にもよく似ていた。髪で遊び続けるリュックの手を、やがてシシルの小さな手が掴まえる。両手で包んで、リュックの手をシシルが自分の胸元まで引っ張ったもので、自然リュックはシシルの背中に覆い被さる形になってしまった。白いうなじに口付けが届くほどに近くに寄る。少し身を乗り出し横顔を覗きこむと、シシルは俯いたまま、気付けば少し震えていた。
「あたしは、薄情なのかな。お父さまを殺したミカエルを、恨む気持ちが、薄れているの。奪われたものはたくさんあるのに、それよりも……」
 言葉が途切れて、リュックの手を包む温かさが、ギュッと強く握られる。
「カロルや、ジューヌさまに傷つかないで欲しいと思うの。お父さまの無念を晴らすより、家の名誉を取り戻すより、正統な皇帝に皇位をつけることよりも」
 震えながら零したシシルの想い。それは、とても優しく、綺麗で、リュックは少女を抱き締める。
「ええ、私も。シシル様を傷つけてまで、望む願いなどありません」
 シャイヨーの屋敷が、焼け落ちていく光景を。禁忌の筒を用いて犯された、雪原の惨劇を。毒の指輪で、大好きな父が殺され、踏みにじられた情景を。そんな時に崩れそうな自分を支えてくれたラザールが、アルビでは次々に人を斬り殺していく、そんな様を。少女を抱き締め、リュックは思った。この子だけは、無垢で優しく美しいまま、そんな場所に引き込んではならない。愛すればこそ、共に戦うなんてそんな恐ろしい希望は抱けない。

 出て行く際に、リュックは棚に掛けてあった襤褸切れを取った。シシルがリリアンに無理やり羽織らされた、烏の紋章の入った上着だ。
「リュックさま、どこに行くの?」
 漠然と不安を感じて、リュックの背中にシシルは訊ねた。
「ヴィルトールの公子に、返してきます」
「リュックさま?」
 不思議な答に、シシルはもう一度問うてみた。なぜ、リュックがリリアンに上着を返してくれるのだろうか。
「憎しみや恨みは、誰かを傷つけますから。それはシシル様をも、傷つけることにもなるかもしれない」
 足を止め、振り向かずにリュックは応えた。穏やかな声音は、幼い頃シャイヨーで聞いた、聖職者の説教を思い出させた。今は亡きシャイヨー司教の言葉は、このように優しげだった。そして、このように空虚だったろうか。
「仲直りを、してきます」
 そう呟いて、リュックは部屋を出ていった。平静を装って、その声に隠し切れない苦渋が覗いた。リュックさま。もう一度呼び止めなければならないのに、シシルはうまく声が出せなかった。
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