ポドールイの人形師

7−1、眠り姫

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 血の臭いが嫌いかと訊ねられたとしたら、答を窮してしまうだろう。それは宮廷の中庭に、春の終わりのわずかな期間に慎ましくほころぶ、紫の花の芳香には敵うべきもない。ただアルビを、花の名の少女を見捨てた邦を包み込んでいた清らかな水の香に比べれば、飛散していく錆びた匂いは、むしろ馨しいと感じてしまう。
 裸に革の鎧を着た傭兵たちが、ざんばらな髪を振り乱して襲い掛かってくる。丸腰で乗り込んでしまったロセンサルは、敵から剣を奪い取り、半裸の傭兵たちと同じく野蛮に戦った。向けられる刃もろともに打ち砕く勢いで、立ち塞がる者たちを叩き斬る。剣が折れると、血の水溜りから新たな剣を拾い、無造作に振るった。
 彼らは北の国、プリィスの兵士たちだった。ロアンヌの民と同じ神を信じるものの、ロアンヌ人は彼らを野蛮人と蔑んでいる。プリィスは産業どころか、農業すらもほとんど行なわない後進の国だった。だが戦闘のみにおいて、プリィス王国は大国ロアンヌにも比肩する軍事大国だ。そもそもが侵略と略奪によって国家の生計を立てている、プリィスはそんな国だった。
 人を国家や民族の枠などで区別するのは、それこそ卑しいことだ。ジュダ人たる自らの境遇から、ロセンサルは今現在の自らの心境を、深く卑下した。だが、耐えられないのだ。華の都と謳われたパリスの街――ミカエルを体現したような無理に虚勢じみて傷付きやすく美しい街――を、半裸の傭兵たちが我が物顔に闊歩していた。盛り場で大声を上げ、昼間から歓楽街を席巻する。その存在だけで街が、国家が――ミカエルその人までもが――貶められているようだった。そしてなによりも、野蛮人たちが殺到した宮殿の最奥には、あの美しいミカエル本人が囚われている。
 リリアンは、もう手遅れだと言っていた。だがロセンサルは、例えばミカエルが殺されているかもしれない、などという思考には全く及ばなかった。ただ、辛い目に合っていると、苦しんでいるだろうと思うのだ。そもそも野蛮なプリィスの者の手が、天使のようなミカエルに触れることを思うだけで、腹の底から怒りが込み上げる。
 人を殺すのはどれだけ振りであろうか。ミカエルに仕えてより、ロセンサルは誰も殺してはいなかった。今、プリィスの傭兵たちを何人斬っても、罪悪感の欠片すらも覚えることはない。
 意識を、余計な思考に振り分けすぎていたかもしれない。死角をついた矮躯の兵士が、ロセンサルの剣を掻い潜り、鎧の継ぎ目に剣を差し込む。熱い感覚が、ロセンサルの脇腹を切り裂いた。深い痛みに、やがて半身の感覚が消える。刹那握力を失い、ロセンサルは剣を取り落とした。しかしすぐさま、懐の背の低い傭兵の頭を掴み取ると、気付いた時には力任せに握り潰していた。生温かさが飛び散るのをいやに鮮明に感じたが、逆に握った触角がわからない。頭蓋は確か、とても硬いものだったはずなのに。
 あとわずか、ミカエルのいるはずの、玉座の間の扉は見えている。まだ感覚の確かな左手で剣を拾う。もう少し。黒騎士は、咆哮した。

 大司教アルトワは、元より持っていた選帝侯の地位に加えて、宮廷付きの司教の役目も手に入れていた。聖職界の寵児と言われた、先の宮廷付き、シャイヨー司教リュック・ド・ラウランは、三年前の内戦の折に亡くなっている。アルトワとともに選定侯を兼ねていた帝国におけるもう一人の大司教、ギィオ。彼は内戦直後に発布された禁教令への対応を誤り、失脚、投獄された。教皇庁からの独立も果たした大国ロアンヌ帝国のあまねく教会の頂点に、いまやアルトワが一人で立っているということになる。
 アルトワはラウラン家の司教のように、ずばぬけた才知を持ったわけではない。野心と弁舌を持って、非難と軽蔑を浴びせられながら、力ずくでのし上がった大司教ギィオとも違う。相応の家格と相応の才知、そして人より少し、機を見るに敏だっただけなのだ。
 自分は、自分たちは出世したのだろうか。これは成功というのだろうか。他の選択肢はなかったのだろうか。アルトワは、自らをこの場所に導いた、悪魔の使いに目をやり、自問した。
 紅色の斑紋の走る大理石の床に、恰幅の良い巨体がうつぶせている。彼の体からというよりも、大理石の紅斑が液体になって湧き出してきているようだ。うつ伏せた体を中心に、こんこんと、延々と、今も真紅の液体が同心円状に拡がり続けていた。それが悪魔の使いと呼ばれ、策謀と非道さでのし上がった男、ティエリ・ド・ヴィルトールの末路だった。容赦ないただ純粋な暴力の前に、その知略を振るう機もなく殺された。
 薄い唇に酷薄な笑みを浮かべた蛮族の王は、兵卒も廷臣も使用人も、城内の悉くを皆殺しにした。ただ聖職者である自分と、ヴィルトールの薬で眠らされたままのいたいけな皇帝陛下のみが生きている。
 アルトワは、忠実な人間ではない。臆病で、失うことのできないものが多くて、己が保身のために信仰を曲げた。その際に皇帝の足元にひれ伏して、震えながら誓った忠誠も、本物であろうはずがない。頭を垂れ服従の言葉を紡ぎながら、心の中で呪詛を唱えた。だが今アルトワは、ほとんどわけもなく、皇帝を守らねばならない使命感に駆られていた。
「陛下は……陛下を……」
 恐慌に思考と体の自由を奪われながら、血の池と化した大理石の床を這いずり、アルトワは玉座を探す。赤い斑紋がアルトワの白い衣を汚してゆく。皇帝、ミカエル・ド・ラ・ヴィエラはそこにいる。
 自分を指差し、プリィス王の若い側近はげらげらと笑っている。思考は追いつかないにも関わらず、感覚ばかりが研ぎ澄まされる。血色の悪いプリィスの王が、紫の唇に侮蔑的な薄笑みを浮かべるのも、つぶさにわかった。
 純白の衣を斑に染めて、アルトワはようやく玉座の足にしがみつく。よじ登るように立ち上がり、大きな玉座に横たえられた皇帝の顔を覗き込んだ。真っ赤なドレスを着せられている。薬で眠らせた皇帝を、ヴィルトール侯爵が戯れに着せ替えたのだ。甘やかな美貌と、緩やかな真紅の絹に覆われたしなやかな肉体、皇帝は匂いやかに、倒錯的に美しい。だが二十三の青年の寝顔を、少女と見紛う者はもう誰もいないだろう。
 長い睫毛が揺れた気がした。振動に、目が覚めてしまったのだろうか。アルトワは慌てて、皇帝の瞼の上に手を当てる。
「い、今はまだ、早うございます……」
 思考が回らず、声が大きかったかもしれない。プリィス人たちに気取られずに済んだろうか。やがて、蛮人たちがロアンヌの言語を理解できないことに思い至り、安心した。
「今は耐えて、お眠りください。プリィス人たちを、刺激しないよう。目を瞑っているのです。罪深い我々ですが、神はきっと……」
 わざと視線を外しながら、アルトワは皇帝の耳元に囁いていた。目的もなく定めた視線の先、白い床の紅斑が一つまた一つと、侵食を続ける赤い海に飲み込まれていく。
 突如地面を揺るがすかのような、巨大な咆哮が鳴り響く。救われる歓喜、それとも張り詰めた糸の切られる崩壊への絶望か。どちらともつかぬ感覚を抱えながら、アルトワは赤く染まってしまった大理石の床から目を上げた。
 安堵のせいか、あるいはやはり絶望なのか、腰が砕けた。アルトワは濡れた地面に座り込む。乱暴に扉を破り飛び込んできたのは、おそらく、願わくは、救世主。血を流す、漆黒の鎧のジュダ人だった。

 ロセンサルは、玉座の間に飛び込んだ。扉を破ると、むっと錆びた血臭が押し寄せた。こんな時に、ここまで来て、目が霞む。金色の鎧に身を包んだ、爬虫類のような冷たい瞳の男がいる。その従者らしき、こちらを振り向き笑顔のままで表情を凍らせる青年がいる。紅い水をぶち撒かれた床には、死屍累々が無造作に散らばる。ロアンヌの廷臣たちの死骸の中には、真っ先に殺そうと思っていたティエリ・ド・ヴィルトールも巨体をうつ伏せに息絶えているようだった。ロアンヌ帝国宰相、リリアンの父親、悪魔の使い、ミカエルを売った最大の裏切り者。
「ジュ、ジュダ人……」
 断片的な思考の中、自分を呼ぶ声が聞こえた。玉座を振り向く。呼んだのは、怯えた顔のロアンヌ人の聖職者だった。選帝侯の一人、アルトワ大司教。意志薄弱の、日和見主義者。悪魔の使いの追従者。腰砕けの風に大司教が、白い衣を血に染めながら、背後の玉座を庇うように大理石の地べたに座っていた。大きな玉座をゆりかごのように、真紅のドレスの人物が眠っている。
「ミカエル!」
 見つけた。血の池を頓着なく突っ切りロセンサルは間合いを詰める。剣を振り下ろし、飛び出んばかりに両眼を見開いた大司教を、袈裟に叩き割った。崩れ落ちる聖職者を踏み越える。目の前に、ミカエルを取り戻した。
 美しく、似合っている。しかしなぜこんな格好をさせられているのだろう。そっと起こさぬよう、ロセンサルは真紅のドレスの姫君を抱き上げた。
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