ポドールイの人形師

7−2、黒騎士

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 皇帝を抱きかかえ、妾室の一つにロセンサルは辿り着いた。かつてここに、異教徒の姫君が住まったという。囚われの姫君の故郷を模して、原色の赤と落ち着かないアラベスクに染められた異国調の内装だ。そしてリリアンが使った部屋だった。足の向くままに来てしまったが、赤は玉座の間の惨状を思い起こさせ、見慣れたアラベスクの螺旋は、ミカエルと自分とリリアンと、この場所の思い出を、望んでもいないのに掘り起こした。
 紅い布団の大きな寝台に、ミカエルをそっと降ろした。拡がった紅いドレスが花弁のようにふわりと広がる。やがて波が静まると、紅い衣の花弁は同色の布団に溶け入るように、輪郭を失った。
 ロセンサルはミカエルの顔を覗き込んだ。中性的な天使に見紛う美しい顔は、白く少し色褪せてしまったように見える。鮮やかな金髪が散らばって、さながら光を放つようだった。息を詰めて主の顔に見入っていると。ぱっちりと、ぎょっとするほど唐突に瞼が開き、深い蒼の瞳が覗いた。むくりと上半身を起こすと、どこか虚ろな眼差でロセンサルを見上げた。
「我が民族は、勇者を崇める。我が国家は、忠臣を尊ぶ。私自身は、神に仇なす所業を平然と為す者を、畏れずにはいられない。とさ」
 文語調の不思議な言葉を呟くと、蒼い瞳はロセンサルの元から外された。主は膝を立て、びりびりとドレスを破り始める。何を言っているのかわからなくて、ロセンサルは困惑した。
「北の王のお言葉だよ、おまえはプリィスの言葉がわからないだろう」
 視線を向けてはもらえない。ただ黙々と真っ赤なドレスを破りながら、主は冷ややかな口調で教えてくれた。いかにも酷薄に見えたプリィスの王だったが、彼は何事かをロセンサルに告げ、ついにロセンサルを殺さなかった。その真意をロセンサルは今知った。ジュダの言語だけでなく、蛮族のプリィスの言葉も学んでいるとは、ミカエルはとても勤勉だ。
「陛下、なにか適当なお召し物をお探ししましょう」
 黙々と服を破りつづける主を見かねて、ロセンサルはそう声を掛けた。花が自らの花弁を破りつづける。不遜ながら着衣が乱れるにつれ、美しい主はその悩ましさを増していく。
「いらん。血だらけだぞ。寝たらどうだ、怪我人」
「いえ、ご心配なく。さほど痛くもありませんし」
 ロセンサルは腹部に深い傷を負っていた。それは解っていたが痛みはなかった。右の半身まとめて感覚が希薄だ。それが危険なことだという自覚もあったが、現状としては好ましかった。
 右足を引きずるのを気取られないよう、あえて上がらない右足に重心を掛け、左足を高く上げて歩んでみせる。少しバランスが崩れたが、倒れずに一歩を踏み込めた。背の高い衣装棚に体を預け、不意に襲った眩暈に必死に耐えた。
「ロセンサルの殺したアルトワ大司教は、忠臣だった。たった一人、俺のことを庇ってくれた」
「申し訳ありません。お怒りですか?」
 悪い事をしたものだ。言葉は正確に理解した。怯えた顔の聖職者は、命懸けでミカエルを庇ってくれた。ロセンサルはそれを一刀のもとに斬り殺した。糸は簡単に解けていく。頭は常よりも冴えていた。だが感情は極限までに鈍磨している。ミカエルを救いたかった。仕方のない、いまさら取り返しのつかないことなのだ。罪悪を理解しつつ、感情は微塵も揺らがない。
 感覚の取捨選択が限界を間近にした獣の生存本能だということも、戦士たるロセンサルは理解する。だがそれを恐れるような感覚は残っていない。
「別に。おまえは勇者で、忠臣で、神をも畏れぬ最強の戦士だ。愛してやまない。ただ大司教の勇気を、おまえだって知っておくべきだろう」
 ロセンサルはリリアンの衣装棚を乱暴に物色していた。随所に金糸の縁取りの為された豪華な礼服の上着を引っ張り出すと、寝台に放ってみる。
主は賢い。だが割り切れるほどに利口ではない。宰相ヴィルトールを始め信じた者たちに裏切られ、しかし今度は辛く遇した大司教アルトワの思いがけない忠心に戸惑い、彼を殺したロセンサルを許すこともできずにいる。冴えた理性が、正確に主の心情を理解する。
「誤解しないでくれ」
 腕を伸ばすこともなく、ミカエルは頭でロセンサルの投げた上着を受けていた。黒鷲の紋章がちょうど見える角度で頭に上着を被ったまま、ミカエルはドレスを袖から脱ごうともぞもぞと動いている。ボタンのないドレスはどうやら勝手が違うらしい。白い肩を片方だけ、しどけなく露わにしつつ、余計に絡まっている風情だった。ロセンサルは慌てて視線を外し、そうした自分に違和感を覚えた。上着の下に着せる、肌着やブラウスが必要だ。ズボンもいる。頭が朦朧として、選び出すのが億劫だった。よく見もせずに、ロセンサルは棚の服を手当たり次第に引っ張り出す。
「俺の無能さがこの状況を招いた。宰相やリリアンが裏切ったわけじゃない。期待に応えられなければ、見限られるのはわかっていたはずなんだ。アルトワを殺したのも、ロセンサルじゃなくて、この俺だ。矜持も何もなく、こんな恥ずかしい格好で、俺は最後まで寝たふりを続けた」
 見やるとミカエルは、頭に黒鷲の紋の入った上着を被ったままだった。ようやっと片方の袖を抜き取って、今は右腕の袖と悪戦苦闘を続けている。利き腕が使えなくなる分、左の袖よりも分の悪そうな様子だった。
 被された上着が主の視界を奪っているのをいいことに、ロセンサルは感覚のない半身を庇いながら、壁伝いに体を預けて寝台の傍に戻った。両腕いっぱいに抱えた衣類を、どっさりミカエルの上に落っことす。弾みでミカエルの頭に被った上着が滑り落ちる。ようやっとドレスが脱げ裸になった白い上半身は、すぐに衣類の山に埋められていた。
 不意に曝された蒼い瞳は、涙が零れそうなほどに潤んでいた。視線が合うと、ミカエルはキッと気丈に眉根を寄せて、乱暴に腕で涙を拭った。
「なあ、ロセンサル。どうしよう。俺は、どうすればいいんだろう」
 主は俯き、ぐっと口元を引き結び。苦しそうにそう漏らした。無力ないたいけな、幼子のような表情だった。
「私は陛下の命令に従う者です。道を示すことはできません」
 ロセンサルは豪奢なヴィルトールの上着を、ミカエルの白い肩の上に羽織らせた。唇を噛み締め、主は強い眼差でロセンサルを見上げてくる。だが少しでも揺らしたならば、また涙が零れてしまうだろう。そう思わざるを得ないほど、主の視線は痛々しい。
 ヴィルトールの黒鷲が、主の震える肩の上で、羽ばたくように翼をわずかに動かした。この後に及んで、感傷的な錯覚に捉えられた自分を、ロセンサルは薄く自嘲した。
「……もし、もしも裏切り者のリリアンなら」
 ミカエルの、澄んだ蒼の瞳が、ロセンサルを見つめている。
「リリアンは、非道で、傍若無人で、しかし自分に屈辱を与えた者には執念深く、ほとんどたやすく矜持も捨てて、手段を選ばず報復を行うヤツでした。彼ならば、悔やむよりも自分を責めることよりも……」
 突然、どっと疲れが押し寄せた。追い詰められて、リリアンを語る自分が、滑稽だった。リリアンは卑怯な人間で、軽蔑すべき人間で、真っ先に殺してやりたい人間で……。
「陛下、すみません。失礼します」
 体を支えきれず、絞り出すように許しを乞うて、ロセンサルは主の傍ら寝台の上に倒れこんだ。
「ああ、大丈夫、無理するな。リリアンか、そうだな、あいつなら。ロセンサルも、俺の隣りにいてくれるんだし」
 ミカエルの声が遠くに聞こえた。もう少しで元気を取り戻してくれそうで、もう一言力づけてあげたかった。ただもう、体の感覚が全くない。声をどうやって出したものか、わからない。
「ロセンサル?」
 思考は空白に侵される。
「おい、ロセンサル!」
――ロセンサル、ロセンサル、ロセンサル!

 ミカエルは叫んだ。声が割れるほどに大声で、喉が嗄れるまで繰り返し、ジュダ人の名を呼び続けた。
 ミカエルは、なにもかもを。失った。


 大きな爆音が響いた。石造りの壁ががらがらと崩れ落ちる音が聞こえる。騒音に我を取り戻しその方向に視線を送ると、真っ赤な人影が視界に映った。長く流れる銀の髪が、崩れた壁面から漏れ入る陽光になぶられ、時折眩しく光を弾く。
「魔女……」
 赤衣の魔女は一瞬声に向けて視線を送った。しかしすぐに興味なさげに視線を外すと、今度は目に付いたらしいアラベスク装飾の衣装棚を爆破する。
「……なにをしている?」
「後始末。立つ鳥後を濁さず、っていうでしょ。自分のいた痕跡を、この国に残したくないの」
 今度はミカエルに目すらも向けずに、床から天井にかけて、広範に魔法の光球をばらまいた。一呼吸をおいて閃光と、続けて轟音と爆風が炸裂した。しかし不思議と崩れる瓦礫は音もなく、全て魔女を避けて落下する。耳をつんざく音の次の瞬間は、痛いほどの無音が世界を支配した。
 壁の壊れた背景は、抜けるような青い空。瓦礫の隙間に佇む魔女が、ゆっくりミカエルに振り向いた。息を呑むほどに美しい。しかしどこか哀しげな、厳しい目をした女だった。
「どいてくれない。その寝台も、片付けたいの」
 言われるままに、動こうと思った。ロセンサルの冷えた身体を引っ張った。とても動かせない。どうすればよいかわからなくなって、ミカエルは魔女を見上げた。魔女は小さく嘆息して、しゃがみこむ。赤い長衣の中の膝を抱え、上目遣いにミカエルを見た。
「いつまでも泣いていたら、そのジュダ人に失礼よ。傭兵が主のために命を落とすのは、悲しむべきことではないでしょう」
 視線はいつの間にか緩んでいる。なぜか言葉は優しげだった。ミカエルは慌てて、手の甲で目を擦った。瞳は乾いていた。心を見透かされていることに、ミカエルは余計に恥ずかしさを覚えた。
「どうするの?」
 辛抱強く、幼子を諭すような問い掛けだった。どうしよう。ロセンサルにも、リリアンにも、もう訊ねることは適わない。
「俺にはかつて、最高の家臣が、二人いた」
「そう。今はいないんだ」
 零れた思いに、魔女は穏やかに応えてくれた。そう、ロセンサルとリリアンは、もういない。魔女の双眸は、ミカエルを急かしてはいなかったが、逃避を許してくれる目でもなかった。もしも、ロセンサルなら。ミカエルが殺されて、ロセンサルを置き去りにすることになったとしたら……。
「命を懸けて、刺し違えてでも、敵をとります」
 自然ミカエルは、追い詰められた、険しい表情をしている自分を自覚する。
 リリアンなら。誇りを奪われ、屈辱を味わい。例えばそれが、自らの及ばなさと失策の帰結だったとしても。
「どんな手を使ってでも、この屈辱を返してやるさ。だから魔女、俺を助けろ」
 昏い笑みが、顔いっぱいに広がっていくのを止められない。自分のものではないような口元にミカエルは手を当てて、寝台の上から立ちあがった。ロセンサルを、置き去りにしたままに。
 ありがと。そう言って、魔女はミカエルの離れた寝台を爆発させた。寝台のほとんどの部位が木っ端微塵に消し飛んでいたが、ロセンサルだけはその黒い鎧に傷一つ増やされることなく、床へと落ちた。
 魔女は踵を返すと、ミカエルの元から離れていく。赤い長衣から覗いた靴が、破壊された壁の跡に足を掛けた。真っ赤な壁のあった場所に、いまは真っ青な空が開けていた。魔女が振り向いた。銀糸がなびいて、冷ややかに煌く。異国めいた美しい顔が、不意に誰かと重なった。
「出たいなら、一緒に来なさい。面倒を見る気はないけれど」
 頼るべき者を思い出した。その選択は考え得る屈辱の極地だったが、今なんでもやると決めたところだ。力を込めて空を見据え。ミカエルは赤衣の魔女の元へ駆けていった。
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