ポドールイの人形師

7−4、団長の剣

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 ポドールイ自警団は、緊急の作戦会議を持った。議題は、悪いラザールに捕まっている、シシルの救出についてだった。ラウラン家のラザール、彼は貴族のくせに乱暴で不真面目で、ダメな種類の大人だった。時折自警団の悪さに呼んでもいないのに混ざってきて、挙句ダルジャントー卿に叱られている、むしろ子供たちに近い大人なのだ。だが今は、なにやら荒れてやけに不機嫌になっているので、理不尽に八つ当たりをされる危険性があった。絶対に捕まらないように注意が必要なのだ。まず、団長のクリスチャン・フュレーが作戦を発表した。
「まず、俺がラザールのおっさんを峰打ちでぶっ倒す。そんでもって、俺がシシルを抱き上げて、颯爽と助ける」
 自警団の団員たちはどっと笑った。みんなが機嫌の悪そうなラザールのことを恐れていたが、クリスチャンの発言で場の空気は一気に和やかに緩まった。クリスチャン一人が、顔を真っ赤に自分の作戦を力説している。当然誰も吟味すらすることなく、団長の作戦は流された。
 さて、前座が見事に場の空気をほぐす大役を果たしたところで。いよいよ真打の登場だ。皆の視線は、新入りの女の子に集まった。行方不明だったクリスチャンの妹、シファ・フュレー。期待と、疑念。この小さな女の子には、たくさんの不確かな噂が囁かれていた。カトリノー司祭が逃げ出して来られたのは、シファのお陰らしい。本当だとしたら大変なことだが、これは胡散臭い司祭本人が言っていたことなのであまり信用ならなかった。たくさんの人が殺されたアルビでの水計が、シファの仕業に違いない。この無茶な主張はクリスチャンによるもので、誰もまともに取り合ってはいなかった。シファが自警団の仲間だったガストンを殺した。ポドールイでシファを襲ったガストンが、突如泡を吹いて御者台から崩れ落ちる光景を、みんなが見ていた。そうはいっても、その時はみんなジュダの黒騎士の迫力に慄き逃げ散ってしまったもので、誰も正確な事実を把握してはいなかった。自警団の歴戦の中でも、もっとも恥ずべき事件なので、誰もが口にするのを憚っていた。
 結局のところ、尾鰭どころか胸鰭背鰭のついた噂のどれ一つ、自警団の子供たちが、真偽を確かめられたものはない。だがその噂だけで、どこか呆っとした様子の、紫紺の瞳の幼い女の子に、不思議な迫力が備わるのだ。
「そうね……さっきから、匂いがきついの。ハッカの匂い」
 視線に促され、シファが舌足らずな口調で呟いた。どこか上の空な様子だった。それでも子供たちは息を飲んでシファの声に耳を傾け、クリスチャンもふて腐れつつ黙り込んだ。
「陶酔草は使えないけど。トワレ・ド・ミント。ハッカの香水を使ってみましょうか。お馬さんたちも、匂いには弱いわ。作戦実行は、行軍が止まってから。移動中だと、失敗したとき置いてかれるかもしれないし。危険が少し多すぎる」
 六歳の少女がとりとめもなく紡ぐ作戦を、自警団は半ば畏敬を持って聞いていた。シファの語り口調は、少なくとも団長のそれよりは、遥かに知的で大人びていて、作戦の体を為していた。

 戦端は、開かれていた。ラザールは目を閉じて、耳を澄ます。地面の振動が感じられる。喚声が、怒号が、悲鳴が聞こえてくる気がする。暗闇の向こうから、真っ青な光景が浮かび上がってくる。アンドレに率いられた万余の兵士たちが、北方の蛮族たちと戦っている。大楯が敵を押し潰す。剣が肉を貫く。兵士たちは倒れた者を踏みつけに、進撃を続ける。血が世界を塗り尽くす。血の猛り狂う快感、死と背中合わせの刹那の狂気に支配された、殺戮の応酬。そして狂気が五感を完全に支配したとき。その光景は突如音を失くし、冴え冴えとした透明な青に支配される。
 もうずいぶんと昔、異教徒との戦いで始めて至った、そんな感覚に思いを馳せる。満身創痍。顔に受けた傷は、勲章となった。戦場に立つ、自分の姿。
「ラザールさま」
 澄んだ高い声に呼び掛けられ、瞼を開ける。眩しさに、目を薄める。ようやく光に慣れて目にしたものは、ちょうど一枚、目の前を薄紅の花弁が舞い降るところだった。
 ラザールは軍人にも関わらず、戦場に出ることを許されなかった。音すらも届かぬ、戦場から遠く離れたこの場所で、木陰に座ってまどろんでいる。花の咲く木に、四頭の馬車馬を繋いである。葦毛の馬たちは皆気性が穏やかで、木の皮などを食んだりして、大人しくしていた。
 右手のふわふわの柔らかい感覚は、なんだったろう。ふと思い出し、視線を送る。手に握る、煌く金糸の束を辿っていく。
「……おう、シシル」
 思い出した。シシルの長い髪が、ちょうど良い小犬の鎖になることに気付いたのだ。掴んでおけばかわいい姪っ子を、長い髪で縛れるちょうど良い範囲に放し飼いにできる。
「一人で遊んでろ。俺は傷心中」
 シシルは黙って立ったまま、不機嫌そうに眉根を寄せて、ラザールのことを見下ろしていた。それにしても、なんと良くできた造作の娘であることか。美しい面差しは、母テレーズによく似ている。少し秀でた広いかわいい額など、父ジネディの娘としての形質もきちんと映していた。
 だがこの少女の美貌は、類稀に美しい父母のどちらよりも、人を惹きつけるものかもしれない。父譲りのすました少し薄い唇は、そういったものが生来から備わるものだと下賎な者には落胆を感じさせるだろう、逆らいようのない気高さを少女に与えていた。宝石のような大きな翠の瞳には、同じ色の母の目からは失われた、澄んだ純粋さを宿している。汚してはならない。例えば少女を愛さぬ者ですら、そんな強迫観念に似た思いを抱いてしまうだろう、清らかさ。例えるならばなんであろう。天使というには気高さに過ぎる。女神というには、その純粋さは清らかさに過ぎる。美しい陶人形のよう。少女の造作の精緻さは、そう例えてさえ手に余る。
 そしてこの背景はなんだろう。淡い薄紅の花弁が、一枚、二枚と時を置いて舞い落ちる。花の間を揺れる木漏れ日が、わずかに紅に染まって少女を弄る。そよ風が聞こえるほどのしじまと、仄かな花の芳香が、狭い世界を優しく包む。滞留の場としてここを指定したのは、皇帝陛下その人だった。狂気と殺戮で満たされているであろう戦場の最前線で指揮を執っているはずのその人が、一方でシシルのためにこの花の咲く木を用意した。
「ラザールさま、お客さん」
 シシルが目で示した先に、ラザールも一呼吸遅れて視線を送る。こんな背景では、なにもかもが絵になってしまう。紫紺の瞳の、兄妹が来ていた。兄貴のほうは、刃の丸くなった剣を抜いてラザールのことを睨んでいる。
「とりあえず。シシルを離しやがれ、ラザール」
 挨拶をすることもなく、上の少年が向かってきた。

 体重を乗せた、重い踏み込み。その分しっかりと力の乗った、鋭い剣撃がラザールを襲う。座ったまま左の素手で、ラザールは剣を受け止める。もともと不良な銅材の上、刃こぼれの度を超え磨耗しきった刃は、既に剣としての機能を失っている。ラザールの手の厚い皮を、切り裂くにすら至らない。
「おい、こら。離しやがれ」
 紫紺の瞳の少年は、ラザールの掴んだ剣を抜こうと今度は必死に引っ張っていた。少年の望み通り、ラザールが丸くなった刃を放してやると、少年は勢い余って尻餅をつく。身の程知らずは一生治りそうにない。だが少年の剣の腕は、この行軍のうちにずいぶんと上がっているようだった。程なく戦場でも通用するのではないかというほどだ。
 右手の柔らかな金色の鎖を、ゆっくり引っ張り降ろす。シシルは一瞬抵抗の姿勢を見せたが、ラザールが徐々に髪を手繰り寄せる手に力を込めると、しまいには降参してしゃがみこんだ。すかさずラザールは、手元に降ったシシルを懐に引っ張り込む。抱きとめると、少女はずいぶんと華奢だった。ラザールは慌てて、捕まえる力を少し緩める。ゆったりとしたドレスやふわふわの豊かな髪に騙されるが、シシルはひどく細っこい。シシルを壊さないよう抱え直し、ようやく人心地つく。尻をついたままの少年に目を遣ると、ラザールはにやっと唇の端を歪めてみせた。
 少年は立ち上がり、一気に顔を憤怒の色に染め上げる。体はずいぶんと逞しいが、紅潮した顔はまるで子供で、なんとも可笑しい。紫紺の瞳の妹は、一歩下がって背中の後ろで手を組んで、興ざめな様子であさっての方向を向いている。幼児が造るまるで醒め切った表情は、その愛らしさを差し引いてみても、癇に障った。
 剣を拾った少年の、横薙ぎの二撃目を片手で受け止めようとしたところ。懐から、小さな白い平手が飛んだ。頬を打たれた。まるで痛くはないものの、高い音がやけに響いて驚いてしまった。思わず刃を受け止め損ね、ラザールは少年の強烈な振りを、側頭に強か喰らっていた。
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