ポドールイの人形師

7−5、作戦名

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 ラザールがぐったりとしてしまった。シシルを捕まえる力が、一気になくなる。少し混乱しながら、シシルはもぞもぞとラザールの懐から這い出した。服についた花弁を払う。乱れた髪を、手櫛で直した。
 突然クリスチャンがすごい勢いでシシルの元に向かってきたので、シシルはキャッと小さく悲鳴をあげた。言葉もなく抱え上げられる。お姫さま抱っこの態だ。トンチンカンな少年を問い質そうと見上げたが、愛嬌のある顔が真剣な上に、張り詰めた緊張感を漂わせており、シシルは言葉に詰まってしまった。
「お兄ちゃん。ラザールさま……気配消えたんだけれど」
 幼い声が下の方から響いた。当惑した様子だ。そしてなぜかそれに伴い、いつもより声音が子供っぽくなく怜悧に聞こえた。
「ぶっ倒した。俺の剣の力をもって」
 小さな妹の言葉に、やはりまだ幼さの残る兄の声がそう応えた。まるで当然といったような、作戦どおり、と続きそうな口調だ。
 シシルがラザールの頬を打って、クリスチャンが剣を振るって、それでクリスチャンがラザールを倒したというのだろうか。クリスチャンが。目の当たりにしても、にわかには信じられない。
 置き捨てられた馬車の陰から、少し遠くの茂みから、花の咲く木の幹の後ろのすぐ近くからも、わらわらと子供たちが湧き出してきた。ポドールイの子供たちだ。子供たちは一様に呆然としていた。信じられないものを見てしまったという風だった。自分の頬を両手でピシピシ叩く子供がいた。クリスチャンが勝つわけないのに、と小さな男の子が声に出して呟いた。少し年長の子供たちは困惑顔で、何にともなく頷いていた。
 シファが、意を決したように、ぐったりと花の咲く木にもたれかかるラザールに近づいた。膝の上によじ登り、斜めに傷の走るいかつい顔に寄る。大きな顔をぺたぺたと触って、鼻や目の部位の位置を確認する。指を伸ばし、シファは慣れた手つきでラザールの瞼を開いた。シファは首を伸ばして、ラザールの目を覗き込む。何かを確認したらしいシファは、登ったときよりもなぜか遥かに慎重に、ラザールの膝から這い降りる。立ち上がりシシルたちの方に振り向くと、シファは決然と言葉を発した。
「瞳孔が開いてません。起きています」
 ラザールががばっと起き上がった。気絶しているはずの、赤ら顔の大男が不意に起き上がるというのは恐ろしい迫力だった。小さな子供たちの中には、泣き出してしまった子もちらほら見える。
「本当に起きていたんですね」
 だが渦中の女の子は驚いた様子もなく、気配に振り向くこともなく、まるで悠然とした様子だった。
「わたし、目が見えないんですよ」
 立ち上がったラザールは、言葉に一瞬動きを止め、悔しそうな唸り声を漏らす。すごく自然な演技だった。目の見えないシファが分かるわけがないのだ。シシルもすっかり騙された。
 麻布のドレスの胸の辺りをまさぐって、シファは硝子の小瓶を取り出した。
「作戦名、トワレ・ド・ミント!」
 大きな声で叫ぶと、蓋を開けて、シファが中の液体を向こう傷の巨人にぶち撒いた。子供たちも揃って硝子瓶を取り出して、喚声を上げながらラザールや馬車馬たちに撒き掛ける。シシルはクリスチャンの腕に収まったまま、思わず少年の肩に掴まってしまった。子供たちの振り撒いた物が、毒かもしれないと思ってしまったのだ。だが、辺り一面に濃密な臭いが立ち込め始め、その液体の正体を理解した。
 トワレ・ド・ミント。ハッカの香水。あの凛と涼しげな匂いが、凝縮されるとこのような、刺激的な悪臭になることを初めて知った。
 ラザールは怯み、シファを捕まえようとしていた動きを一瞬止めた。大人しかった馬車馬たちは恐慌に陥り、繋がれたまま蹄を互いに打ち付けあいながら、悲鳴のような嘶きを上げる。木の幹が暴れ馬の蹄を受け、どっと花弁が降りしきる。
「お兄ちゃん。みんな。シシルさまを連れて逃げて」
 臭いに視界の霞む不思議な感覚。撒かれた香水の中心にいるシファが、苦しそうに呼びかけた。シファが膝を折って、座り込む影が見える。暴れ馬の振動に負け、雨のように舞い降る薄紅の花弁の下、女の子のスカートがふわりときれいに拡がった。
「わたしのことは、置いていっていいから。臭いに酔っただけだから」
 片袖で鼻を庇ったラザールが、シファの襟首を掴んで仔猫でも持ち上げるように吊り上げた。捕まってしまった。シファはもう、逃げられない。
「シファ……許せ」
 クリスチャンが苦しそうに零し、シシルを降ろさないままに花を散らす木に背を向ける。駆け出したクリスチャンを他の子供たちも追ってきた。どの子も辛そうに顔を歪め、よく見ると、涙を浮かべる子もちらほら見られた。少しだけおかしいと思った。だが空気に呑まれ、シシルも叫んでしまった。
「シファちゃん!」
 呼びかけた声が悲痛に響くのが、他人の声のように聞こえた。心の隅の醒めた部分が、滑稽だと言う。だが空気には逆らえず、少し泣きそうになった自分がいた。
 鬼のような形相で、ラザールが自分たちを睨んでいる。子供たちが、涙を流して逃げている。いたいけな目の見えない女の子が犠牲になって、シシルのことを逃がしてくれた。

 ラザールの手から逃げ切った。冷静さを取り戻し、シシルはクリスチャンの顔を下から見上げた。クリスチャンはまだシシルを降ろしてくれようとはしない。彼特有のやんちゃさを映す、それでももう精悍な男の子の顔だ。眉間に深い皺が刻まれ、何か葛藤している様子だった。
「クリスチャンくん、お兄ちゃん失格だね」
 ぎょっとしたように紫紺の瞳を見開いて、少年はシシルを見た。足元をふらつかせながら不安定にシシルを降ろすと、クリスチャンはそのまま蹲ってしまった。気付くと子供たちも、じっとりと責めるような視線をクリスチャンに集めている。シシルを連れて、しかしシファを置いて逃げて来たのは、ポドールイ自警団の団長としても恥ずべきことなのだろう。誇れるような行動をとった子もいなかったもので、声をあげてクリスチャンを非難する者はいなかったが、これでは団長の権威も失墜だった。
「落ち込まないで。子供なんだから」
 少し哀れになって、シシルはクリスチャンを慰めた。ただまるで切実ではないので、言葉はどうしても薄情に響いてしまう。
「あたしは、ジューヌさまに会いに行かなきゃ」
 さらに掛ける言葉も浮かばず、シシルは地平に目をやった。パリスの都は、戦場は、皇帝になったジューヌは、歩いて行けない距離でもあるまい。
 白い小さな花を咲かせる、オリーブの並木道。薄いハッカの匂いは、シシル自身のものかもしれない。目を凝らすとこの地のオリーブの葉には、虫食いがたくさん見られた。見渡す限りの長閑な景色。本当の世界は何も見せてもらってはいない。とにかく行こうと、シシルは道の続く先を強く見据えた。
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