ポドールイの人形師

8−2、雪

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 ナシャさん、ジューヌさまはもういないのに、どうして動いているの?
 ――まあ、知らないのですか? 名匠に作られた人形が、長い時間強い思いにさらされると、自然魂が宿るのです。
 知ってます、でもおとぎばなしだと思ってました。ナシャさんにはいつから心があるの?
 ――さあ。初めからあったような気もしますし。シシルさんをたまらなく愛しく思うこの気持ちは、今でも他の誰かの心のような気もします……。

 人形館に、お客さんが来たようだった。ずいぶん長く扉の前に立っている。開けてあげるつもりなんてないというのに。
 赤白の仮面を被る。闇に目が慣れると、やがて白い景色が広がった。庭の枯れ木に登った黒猫の目を借りて、様子を探る。お客さんは若い青年将校のようだった。斜め上から、将服の背中と、亜麻色の髪の後頭部が見える。猫に将校の前に回りこむようお願いする。高い梢から飛び降りた黒猫は、雪のクッションに柔らかに受け止められる。足音を雪に沈ませながら、将校の前に回ってくれる。
 将校の、首から下の正面像が映った。何者であろうか、国籍も身分もわからない。だが長旅をしてきたらしいくたびれた将服の胸には、貴族の当主にしか許されぬ金縁の家紋が施されている。翠色の雪の結晶。知らない紋章だったが、意匠の美しさには心が惹かれた。
 猫に気付いたのか、青年の視線がこちらに向けられたのを感じた。少し屈んで手を出して、にゃあ、と将校は猫の鳴き真似をしてみせた。黒猫はすぐに逃げてしまったので、将校の顔はわからなかった。悪い人ではない。というか、かわいい人らしい。
 人形館の主は少し明るい気持ちで、椅子に座ってとぼけた顔の操り人形を胸に抱く。
 等身大の女の人形。手のひらほどの小人の人形。熊や狼のぬいぐるみのような物に、今にも動きだしそうな、醜悪な怪物を模した物。暖炉脇、人形でいっぱいの部屋の隅に、椅子と小机を据えている。しばらく座って待っていると、女の姿の陶人形が、銀盆に紅茶とお菓子を乗せて持ってきた。お砂糖とミルクをたっぷり注いだ紅茶は澄みを失い、匂いまでも甘かった。手焼きの茶色いクッキーは、少しこげている。機械のように精密だった陶人形が、このところちょくちょく小さな失敗を見せてくれる。
「ありがとうナシャさん」
 人形館の主が礼を言うと、陶人形は嬉しそうに首を傾げた。翠の雪の紋のお客さんは、もう諦めて帰ったろうか。そんなことを思いながら、クッキーに手を伸ばす。口元まで持ってきて、仮面のせいで食べられないことに気が付いた。少し悩み、諦める。赤白の仮面を外したくない気分であった。
 足元からがさがさと音がした。黒猫がご褒美をもらいに入ってきたのだろうか。クッキーをやろうと暖炉に目をやると、亜麻色の頭頂部が現れ、腰を抜かした。
「うー、この通路こんなに狭かったっけな」
 もぞもぞと暖炉から抜け出すと将校は立ちあがり、煤だらけの服をおざなりにはたいた。人形館の主は固まってみる。椅子に座った道化の人形。ごまかせないだろうか。
「シシルの姉ちゃん。こんちわ」
 将校は陶人形に挨拶した。おひさしぶりね。陶人形も困ったように返事をする。
「全く、いるなら開けろよな」
 将校は無遠慮にクッキーに手を伸ばした。さらに勝手に紅茶のカップを取ると、行儀悪くずずっと音を出して啜ってみせる。人形館の主はじっと我慢をした。叱ってやりたいのはやまやまだが、動いてしまうとばれてしまう。
「……シシル。その頭の悪そうな仮面、外せって」
 動かないでいると、将校はクッキーを頬張ったままの声で、呆れたように名を呼んだ。長い髪を掴んで引っ張られる。仕方なく、人形館の主は赤白の仮面を外した。いつの間にかお菓子を飲み込み、澄ました顔の青年がいた。持ち上げた淡い金の髪を、将校は自分の唇に当てる。紫紺の瞳がいたずらっぽく細められて、こちらを見ていた。
「ナシャさんのこと、まだわかってないくせに。クリスチャンくんに頭が悪そうなんて言われたくない」
 将校は人形館の主の髪から手を離す。落ちていく髪を視線で追いながら、馬鹿にすんなよ、と呟いた。
「冗談だよ。それ、ジューヌがシシルに似せて作った人形だろ」
 なんだかかわいくないクリスチャンがそこにいた。

「クリスチャンくん、大きくなったね」
 体は本当に大きく逞しい。あどけなかった顔も、今は鋭い大人の顔になっている。少し怖じけながらも、年上の貫禄を保とうとシシルはお姉さんぶって言ってみた。
「シシルは変わんねえな」
 思いがけず、クリスチャンはくしゃっと表情を崩した。追い詰められた心理であったシシルは、肩透かしを受けるようにほっとしてしまう。だがよく見ると、小机に片手を付いて身を預けるクリスチャンは、所作も表情もやっぱり見違えて大人びていて、――クリスチャンへの評としてはひどく違和感を覚えるが――洗練されていた。貴族の家紋を胸につけた、この青年将校は誰だろう。
「何から聞けばいいのかしら。自己紹介をしてくれる?」
 クリスチャンは目を細めた。含みのある表情は、シシルの知らない顔だ。
「クリスティアン・フォン・フューラー」
 仰々しい音の名を唱え、クリスチャンはじっとシシルの顔を見つめた。反射的にシシルが強く視線を返すと、クリスチャンは苦笑を浮かべて視線を背ける。
 シシルにはできない喉を震わす発音は、プリィス語の名前だ。『フォン』はロアンヌの『ド』に当たる、プリィスの貴族の称号だ。数瞬ナシャの方へ逃れていたクリスチャンの視線は、一回りしてシシルに戻る。
「俺の八年間に、話すことはそれほどない。この蛮人の名前で事足りる。まだ生き残っている報償に、俺は少し強くなった」
 八年。現実感のない時間を、クリスチャンは口にした。人形館では時は動いていない。プリィス人の名を名乗るクリスチャンの八年に、まるで想像は及ばなかった。祖国を捨てたのか。命を懸けたのか。腰に下げる長い剣、胸に描かれた翠の雪の紋章、シシルを見つめる深い紫紺の眼差しと、幾つの強さを得たのだろう。だがやんちゃな少年だった彼には、確かに目の背けようもない重い時間が堆積していた。
「俺のことより、シシルに聞きたいことがたくさんある」
「嫌よ!」
 いたたまれなくなってシシルは叫んだ。クリスチャンは傷ついたように、情けない顔になった。泣きそうだと思った。勝ったと思った。同時に、幼い自分に羞恥が募った。

「ロアンヌの皇帝は、もう三十も過ぎたというのに、未だに妃を取らないらしい。勇猛で、狡猾で、それなのに何故か憎めない魅力を持っている。滅びかけた帝国を再興させた名君だ。応えてやらないのか?」
 機嫌を損ねているシシルは、クリスチャンから目を逸らしたままに首を横に振ってみせた。黒皇子がいなくなり、白皇子が再び皇帝になった。月に一度、ミカエルは欠かさずシシルに手紙をくれる。王家の百合紋の封蝋で留められた手紙を受け取ると、ほっと嬉しくなる。だが応えるものを持たぬシシルは、封蝋を解いたことは一度もない。
「異教徒の王も、シシルを望んでいると噂を聞く。帝国を崩した傾国の花が、人の住まわぬ雪の邦に一輪ひっそり咲いている」
 ポドールイは異教徒の支配の元に置かれていた。かつてこの地に住まった純朴で優しい人たちは、誰一人帰っては来なかった。無礼な使者が何度か来た。時には異教徒の軍隊がやってきた。全てナシャが追い返した。時に表で盛大な爆発音が鳴り響いたこともあったが、何をしているのかシシルは知らない。
「八年経っても。いや、シシルと初めて逢った時から、十数年の年月が流れても。俺の気持ちは変わっていない、姫君を守る勇者でありたい」
 シシルは再び首を振った。
「どうして。心を、時間までも凍らせて。ジューヌなんか忘れろよ。シシルはジューヌの人形じゃない」
 落ち着いた大人の言葉を話していたクリスチャンが、いつの間にか、べそをかく子供のような声音になっていた。不機嫌を忘れて、シシルはクリスチャンの顔を覗き込む。
「……どうして。どうして昔と変わらず、俺より若い姿のおまえがいる!」
 クリスチャンは突然癇癪を起こしたように怒鳴った。剣を抜き、横薙ぎに振るってナシャの頭の上を払ってみせる。ナシャは身を翻して避けようとしたが、すぐに糸が切れたように崩れ落ち、床の上にわだかまってしまった。
「なんで、人形がまだ動いてるんだ」
「人形には、心が宿るから……」
 あの人はもう、いないはずだ。だけど、シシルは今も、不思議な力で護られている。人形には魂が宿る。そんなおとぎばなしを信じるのは、小さな子供だけだ。クリスチャンですら騙されない。八年が経ったとクリスチャンは言ったが、あの人が消えてしまったのが、シシルにはつい今しがたのように思えるのだった。
 情けなくて、臆病で、卑怯で。そんな人だった。堂々と姿を現す勇気などは、絶対にあるまい。そう思うと、降り積もる雪に凍りついたようだった、世界の全てが変わって見えた。
 シシルは、黒皇子の人形を強く抱き締めた。絞め殺してやる、といわんばかりに力を込める。
「……クリスチャンくん。この館を徹底的に家捜しするわ。見つからなかったら村にも下りてみる。ついてきなさい」
 シシルは低い声で呟いた。
「いや、だめだ」
――勇者が先頭だ。お姫様が後ろからついてくるんだ。
 うれしそうに、クリスチャンがずれたところに異論を唱えた。

 クリスチャンの黙った一瞬、縫うようにしじまが訪れた。しんしんと、雪の降り積もる静かな音を聞いた気がする。誰かが慌ててこっそりと、冷たい綺麗な白銀を舞い降らせ、シシルの邪魔をしようと企んでいる。そんな気がした。
 黒皇子を抱き締める。為されるがまま、黒皇子はとぼけた顔で、窓の外遠くあさってを眺めていた。まるで表情を零さないように、ぐっと我慢しているように思われた。


fin
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