青い水底に揺れる街

 二章、センセイ(6)


 日の差しているテーブルの上で、行儀悪く丸くなっていたレイディが、ぴくりと耳を動かし、不意にむくりと起き上がった。
「二階に行く」
 ひょいと飛び降りると、リコやジプに見向きもせずに、レイディは時計部屋への梯子に向かう。
 センセイが来る。紅茶のティーバックを用意するため、リコは慌ててカウンターに入った。ネコは敏感で、来客の気配が分かるらしい。レイディはなぜかセンセイが苦手らしく、その来訪を察知するといち早くどこかに隠れてしまう。ここ一週間、レイディの習性は、センセイ専用のカウベル代わりになっていた。
 レイディの足先が見えなくなるのとちょうど同じくらいのタイミングで、玄関扉が、ギィと重い音を響かせて開いた。
「いらっしゃいませ、センセイ」
 やがて扉の影から姿を現したセンセイは、今日もびっくりした顔になっている。正体を見破られたことに、驚いているのだ。
「リコちゃん、お客さんが僕じゃなかったら、どうするんだい? もし間違えたら、怒られちゃうよ」
「確信がありますから。『もし』なんてありません」
 ホットワインにティーバックを落とし込む。
「シェットランド・カフェには、扉の向こうのお客さんがわかってしまう秘密があるの」
 センセイの座ったテーブルに、ホットワインティーを持っていくと、センセイは子供っぽく、不満そうに唇を尖らせた。リコは楽しくなって、笑ってしまう。
 唯一人になってしまったお客さんとの、こんなやりとりは、いまやリコが心待ちにする毎日の恒例になっている。
 昨日までなら、ここでセンセイの控えめなクレームを汲んであげて、カップを取り替えてあげるところだ。だが今日は、昨日と展開が違った。リコはセンセイに、席に座るよう促された。
 少し緊張しながら、リコはテーブルにカップを置き、センセイの向かいに着席した。
「リコちゃん、耳が伏せちゃってる。そんな怖がらなくても」
 リコは慌てて髪を下ろして、耳を隠した。センセイはいつもの気弱な愛想笑いだ。リコだけが心の内を見透かされるのは、やや理不尽に感じる。
「実はリコちゃんに折り入って相談、というかお願い事があるんだ」
「なんですか」
 センセイの神妙な顔に、リコも居住まいを正す。センセイはそっと、ホットワインティーのカップをリコの方へ押し付けた。
「ドッグタウンの様子がおかしいのは、リコちゃんも気付いているよね」
 長い睫毛を伏せて、似合わない真面目な低い声で話されても無駄である。せっかく淹れてあげたのに、感想もなしに返された。だがセンセイのこんな子供っぽさも、かわいらしく見えるのだから、リコもリコで重症かもしれない。自分で淹れたカップを両手で持ち上げ、目を瞑って一口、口をつけた。
「おいしい?」
「おいしいですよ」
 センセイはうれしそうに、にっこり笑う。さすがにそれは、酌量の余地なく卑怯だと思った。
「それで、本当に吸血鬼が徘徊してるとでも言うんですか」
「うん、少なくとも否定できる状況じゃない。リコちゃんも、レキ君とアリウムさんの末期症状を見たんだろう。同じ症状が今、ドッグタウン中に拡がっている。噛み付かれて感染する。好戦的になり、食事を受け付けない。光に特別弱いわけではないが、概して夜行性になる。水には、明らかな拒否反応を見せる。かなりの部分、伝承の吸血鬼の記述と一致する」
「嘘、そんな様子はないです。ドッグタウンは、静かで平和ですよ」
 カフェにはお客さんは来ない。通りには誰も歩かない。センセイの家には子供たちが集まってきたりはしないし、お年寄りが検診と称して雑談に来たりもしない。時が止まり、誰も存在しないかのように、街は平穏で、静寂に包まれていた。
「本当……なんですか?」
 センセイは困ったように、情けない表情で笑みを浮かべた。
「リコちゃんは、信じなくていいことなんだ。ジプさんは、リコちゃんに知られたくないようだから」
 リコは振り返って、ジプを盗み見た。カウンターで、ジプは酔い潰れて突っ伏していた。それでも耳がピンと立っているから、潰れているのは振りだけで、聞き耳を立てているのかもしれない。
 レキがいなくなって、落ち込みすぎたのかもしれない。アリウムが死んで、取り乱しすぎたかもしれない。ジプの優しさに甘えて、心配を掛けすぎた。イヌの娘として、最低だ。
「わかりました、教えてくれてありがとうございます。それで、ご相談ってなんですか。あたし、なんでも力になります」
「驚いた、意外と平然としてるね。先に言っておくと、吸血鬼から街を守ろうとか、僕はそんな大それたことを考えているわけじゃないんだ。ドッグタウンは好きだけど、僕はヒトだから、君たちイヌのために命を懸ける義理はない」
 リコは気持ちを落ち着けるため、カップに口をつけて、間を取った。何も考えず熱いワインティーを口にして、舌の先を火傷した。
 リコが顔をしかめると、センセイが心配そうな顔で覗き込んでくる。こんな状況にも関わらず、センセイはカフェに顔を出し、差し入れをくれて、リコたちを心配してくれる。
 口で何を言われようと、センセイは優しく、勇気のある人だった。
「それで、お願い事があるんですよね。あたし、センセイのことは好きだから、どんなことでも聞いてあげます」
 センセイはリコと視線を交錯させ、眩しそうに目を細めた。もっと照れてくれたり、しどろもどろになってくれることを期待していたリコは、少しがっかりする。
 そういうリコも、自分で不思議なくらいに落ち着いていた。お互い様かもしれない。
 むしろセンセイの発した次の言葉に、リコは血流を顔に逆流させてしまった。
「お願いします。ジプさんを、僕にください」
「……そんなこと、あたしに言われても」
「飼い主はリコちゃんでしょう。僕に譲って欲しいんだ。もちろん、お金も払う。僕はジプさんを連れて、街を出る。もしも断られた場合、僕は権利章典の第五条に従って、リコちゃんを訴える覚悟もできている」
 バニシュの憲法の、権利章典第五条。リコのようなあいのこの国民が、真っ先に、そして唯一覚えさせられる法律だった。『いかなる人間も、正当な理由による、法の適正な手続きなしに、生命、自由または財産を奪われることはない』。
 一見、リコたちを守る法律に見える。しかしその実、搾取を正当化するための法律だった。
 ヒトの裁判が、リコたちに有利に働くことはありえない。生粋のヒトのセンセイが、正当な理由をもって、法の手続きさえ行えば、あいのこのリコの自由や、あるいは生命までも奪うことができるのだ。財産に属される飼いイヌを奪うことなど、容易いだろう。
「お金なんていりません。ジプがいいって言えば、あたしは止められません」
 五条を持ち出されることは、リコたちあいのこにとって、いわば合法的に拳銃を突きつけられるようなものだった。好きな人が、強盗をしてまで望むのだ。リコに断る術などあるはずがない。
「ごめんね、リコちゃん。ありがとう」
 センセイは立ち上がり、リコの脇を通りすぎて、ジプのいるカウンターへと向かった。すれ違った気配が冷たくて、リコは身震いしてしまう。
 振り返ることなく、リコは聞き耳を立てる。
「あなたを連れて、この街を出ます。一緒に来て下さい」
 およそ愛の告白には相応しくない、事務的な声に聞こえた。いつもセンセイから滲み出ている気弱な優しささえも削がれてしまった、なぜか無機質な声だった。
「リコも連れて行きたいわ」
 ジプの眠たげな声。そしてセンセイは、溜め息を吐いたか、肩を竦めたか。背中の様子は見えないが、その一瞬の間に、センセイが呆れる気配がわかってしまった。



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