青い水底に揺れる街

 二章、センセイ(7)


「リコちゃん、一緒に来てくれる? もし良かったら、僕のことをお父さんと呼んでくれると、うれしいな」
 リコは振り向かず、ホットワインティーに口を付けた。わざと啜り立て、大きな音を立てる。何の味もなく、熱さだけが火傷した舌先に沁みてしまう。遠慮がちなセンセイの声が、いつもの気弱で優しげなものに戻っていて、混乱する。
 お父さん、それだけは頭の中で切り捨てた。少なくとも、リコは母イヌのジプのことさえ、『お母さん』などと呼んだことは一度もない。
 どうしよう。ジプがいなくなると困る。シェットランド・カフェに、吸血鬼のうろつくというドッグタウンに一人置いていかれたとしたら、どうしたらいいのだろう。レイディが降りてこない。ネコの子なら、聞こえているに違いない。
「リコ、センセイがいいって言ってる。一緒に行くよ」
「でも、レイディがいるし……」
 リコがいなくなると、レイディはどうするのだろう。自分の身の世話もろくにできない仔ネコ一匹、吸血鬼のいるイヌの街で、生き延びられるはずはない。しかし、会って数日のネコの子を、イヌのリコが身を危険に晒してまで守ってやる義理もない。ならばもしもレイディがイヌの子なら、イヌのルールでは助けなければならないことになるのだろうか。
「そうね、リコは優しい子だから。でもネコの子のために、わがままを言わないで」
 違う。レイディがネコだろうが、イヌだろうが、それは関係ないはずだ。そんなことで区別をするのは、リコのルールではない。そう決めたのだ。
 レイディという、可愛らしいだけの、頼りなげでわがままで嘘つきの子を、面倒見るか見捨てるか、ただそれだけの二択だった。
 首筋に冷たい指を当てられた。振り向くと、いつの間にかそこにいた、ジプと真っ直ぐ目が合った。
「来なさい。リコのボスは私で、リコは私を選んでくれるって言ったわ」
 切れ長の黒い眼は、アルコールが入っているとは思えない、切実なものだった。
 この本性を知っているから、ドッグタウンの犬たちはジプをボスに祭り上げ、ジプの命令に従うのだ。普段はそっけなくて、冷たくも見えるジプが、仲間の危機に見せるこの表情が、リコも大好きだった。脅し宥めすかし、なりふり構わず、弱い仲間を必死に助けようとしてくれる。
 あいのこの、半端なリコにもちゃんとその顔を見せてくれた。ジプと幸せな気持ちで別れられることを、リコはすごくうれしく思った。
「あたし、野良だよ。飼いイヌになったジプに、ついていくわけにはいかない」
 ジプの眼が、すっと細められた。口の端が歪められる。それは心底、酷薄な笑みだった。
「そうね、確かに。その通りだよ」
 リコの首筋から、冷たい手が離れた。ジプはアルコールに鈍った少し虚ろな目になって、リコから視線を外してしまった。
「センセイ、連れて行って。リコは来られないって」
 ジプだ。ジプである。ドッグタウンで誰よりも、仲間には格好良くて優しくて忍耐強い、ジプである。そして一度切り捨ててしまった相手には、まるで存在すらしなかったかのように冷淡になる。リコの知ってる、ジプである。
 育ててくれてありがとう。あいのこのリコを、仲間と平等に扱ってくれてありがとう。リコの母親であってくれて、ありがとう。
 言いたいことは山ほどあったが、口にすれば、ジプは困惑するだろう。ジプの中で、リコはもう死んでしまったのだ。死体に礼を言われたら、きっと薄気味悪くて、ジプは顔をしかめてしまう。
「リコちゃん、イヌじゃなくて、ヒトとして一緒においでよ」
 センセイの声が遠くで聞こえたような気がしたが、リコは無視してホットワインティーを呷った。温くなっていて不味かったが、一気にいけた。



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