青い水底に揺れる街

 三章、リーリウム(4)


 街庁舎の横手、広場を囲うように巨大なマンションが聳えている。ドッグタウンに、マンションより背の高い人工物は二つある。街庁舎の尖塔と、教会の時計塔の先から伸びる、十字架の先。だが単純に『巨大』という尺度では、このマンションほどに大きな建物は存在しない。三行十列規則正しく窓の穴が穿たれた、それはまるで分厚い灰色の壁だった。
 このマンションのように、なんの損傷もなく残るヒトの遺産は、さほど多くない。ドッグタウンの建造物のほとんどは、屋根が崩落したり、柱が傾いたりの欠陥を持ったまま利用されている。単純故に頑丈なのだろう。そうした徴候のまるで感じられないこのマンションは、街では意外に稀有な建物だ。
 かつてヒトの時代、マンションは庁舎の職員たちの寄宿寮だったらしい。今ではリーリが、建物一棟占拠している。教会や街庁舎のように街の象徴的な建物ではなく、それでいてもっとも堅固で巨大な場所を棲みかにしていた。リーリの性格の一端が、垣間見える。ようは自己中心的で、現実的なのだと思う。
 どうせ呼んでも聞こえないであろうから、挨拶もなく、リコは扉の外れた玄関をくぐって、マンションの内部に踏み入れた。他人のナワバリへの侵入、この時点で例えば殺されたとしても、文句は言えない。わかっているのか、少し大人しくなって手を引かれるままについてくる毛布の仔ネコも、不安げに耳を伏せている。
 だがリーリはそんなことはしないだろう。力と知恵のある者は寛容になる。あまり性格は関係ない。
「広い。どうしよう」
 玄関から入って右手には長い廊下が伸びており、打ちっぱなしの灰色の壁の両側に、のっぺりと個性のない板のようなドアが繰り返されている。正面はがっしりしたコンクリートの階段だった。外観から三階建てであることを知っていても、階段の上に漠然と、得体の知れないものを感じた。
 不安な気分で階段の先を見上げていると、レイディに手を引っ張られた。
 引き結んだ口許が、少しだけ強張っているだろうか。見上げる白い顔にさほど表情はない。だが耳がぺったんこに伏せられている。繋いだままの手を持ち上げて、リコはレイディの丸い顎をしゃくってやった。
「どうしたの?」
「上じゃない。下にいるよ」
 レイディはリコの手を振り払い、毛布のマントをかきあわせた。尖った耳がピクリと揺れる。ネコは耳がいいのだ、リコには聞こえないものが聞こえるのかもしれない。イヌは、鼻がいい。半分流れるはずの血の特性を思い出し、リコは嗅覚に意識を集中させた。階段を上昇していく空気の流れを感じる。リコたちは臭いの流れの始点ではなく、途上にいた。玄関からの外の新鮮な空気ではない。リコたちの立つ地面よりも下から、上へと空気が流れている。
「階段の……裏」
 コンクリートの階段の、入り口から見て死角になっていた場所にリコは回りこむ。仔ネコが少し慌てた様子で付いてきた。階段の下は空洞になっており、ちょうど人一人分通れるくらいの狭い階段がさらに下へと続いていた。
 レイディから握ってきた手を掴み返し、リコたちは恐る恐る暗い階段を降りていく。すぐに狭い踊り場に行き着いた。床に置かれた一本の太い蝋燭が、ゆらゆら辺りを照らしており、階上の廊下に並んでいたのと同じ、丸いノブのドアを浮かび上がらせている。
 ここがイヌの集会所。ここまで来ればリコにもわかる。中に一人ではない、おそらく仲間たちであろう気配がある。
 リコは意を決してノックをした。不思議なことに、指先を伝って震えを感じる仔ネコほどに、リコは怯えていなかった。選択肢を限定されると、覚悟が決まって心は静まる。
 ノックの音がくぐもっている。ドアを挟んですぐに、誰かが存在する気配を感じる。警戒されているのか、向こうからの誰何はない。
「シェットランド・カフェの、リコス・パー……」
 不意に、ドアが開いた。冷たい。自己紹介も終わらないうちにドアが押し開かれて、突然水を掛けられた。若い小男が、水滴を垂らす革水筒の口をリコたちに向けている。
「リーリ、吸血鬼ではないみたいです」
 呆然とするリコと憤怒の唸り声を上げるレイディも置き去りに、男は平静な声で背後に呼びかけた。
 シバ。細い吊り眼の鉄面皮のこの雄イヌは、リーリの腰巾着だった。一応、リコの飼い犬として市役所に登録されている。お酒を飲みにきても始終つまらなそうに表情を変えず、耳すらピンと硬直させたまま、そのくせ真っ先に潰れる客だった。
「カフェのリコちゃんじゃない。早く入れてあげなよ、誰かタオルを持ってきてあげて」
 シバの背後、明るい室内を盗み見る。一人三人掛けのソファーを占領し、くつろいでいるリーリがいた。ハウンド種のような大きなふわふわの垂れ耳が、女の子のおかっぱのようにふわりと茶色い髪から落ちている。レイディと比べると世慣れた小狡い印象が強い、だがネコの血筋独特の有無を言わせぬ華やかな顔が、少しニヒルに笑っていた。



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