青い水底に揺れる街

 三章、リーリウム(5)


 シバにぞんざいに促されるまま、リコはリーリの向かいのソファーに座らされた。三人掛けの大きなソファーの真ん中にリーリは脚を組んで偉そうに座っていて、二つ並んだ一人掛けの片方に、リコは仔ネコを膝に登らせて腰掛ける。シバに、ふわりと頭にタオルを置かれた。
 地下室は思いがけず、広い空間だった。大部屋が一つ。そこに居間も食堂も会議室も、壁もなく並べられている様子だ。リーリの取り巻きの若者たちだけでなく、お菓子屋のルバ婆ちゃんや、広場を掃除しているガウラ爺さん、リーリとまるで接点のなさそうな人物たちの姿も目に付いた。思い思いに過ごしているが、皆どこかに革水筒を持っている。雑多な雰囲気だったが、狭いわけではない。白い照明にあまねく照らされ、地上よりも眩しいほどだ。
 きょろきょろしていたリコだったが、ふと視線を感じて向き直る。リーリは忙しなく自分の水筒の蓋を弄りながら、興味深そうに目を細めてリコを見ていた。
「拭いたら。風邪ひくよ。光が珍しい? 電気灯っていうんだ」
 頭からタオルを取ると、リコは仔ネコの濡れた金髪を拭いてやる。仔ネコは迷惑そうに首を竦めながらも、大人しくされるがままになっている。首元までタオルを這わせると、さすがに身体を捻って抵抗した。
「ヒトの技術ですか。光は、どうでもいいです。ここは何なんですか?」
 肌に触れる部分だけ、リコは自分の髪もタオルで絞った。舐めるように水筒に口をつけながら、イヌの子だなぁ、とリーリはやけに楽しそうに苦笑する。
 リコは観察する眼で、あいのこの青年を見据えた。物腰は柔らかで、実力者というだけの迫力もある。だが柔らかさは何かを隠すオブラートに見えたし、迫力は鋭い分だけ危うく感じた。そんな印象を頭に浮かべ、リーリをセンセイとジプに比べていることに気付き、リコは心の中で嘆息する。二人とも、リコのもとから去ってしまった。この比較は、まるで当てにならない。
「なんて説明しようか、一つの共同体として、ドッグタウンにも情報交換と意思決定の場が必要なんだ。リコちゃんはジプから直接聞けるだろうから困ったこともないだろうけど、この街には一人で生きているイヌもたくさんいる。どこかで、彼らにも情報を伝えなければならない。ジプのシェットランド・カフェがそのための表の集会所だとしたら、ここはドッグタウンの裏の集会所になる。表で口に出せない情報が、ここで共有される。管理人は、僕」
 子供に噛んで含めるような、丁寧な説明だった。そしてどこか、歯に何かが挟まったような様子でもある。裏といっても、その趣旨や集まっているイヌたちを見る限り、さほど隠されたものでもないようだ。
 しかしリコはレイディに聞いて初めて知った。レイディは、レキに聞いたと言っていた。
「外から来たレキさえも知ってました。この街に生まれたあたしは、知りませんでした」
「そう、僕たちあいのこは招かれない。自分でここを見つけ出し、さらにイヌたちの承認を得て、初めてここに立ち入れる。とっても閉鎖的なんだ。例えジプの娘でこの街の酒飲みたちのアイドルでも、リコちゃんは今の今まで、ドッグタウンの『お客さん』だった」
 リーリは、華やかな顔で皮肉げに笑った。共感しろというのだろうか。ヒトの世界で排斥されるリコたちあいのこは、結局イヌ社会でも完全に受け入れられることはない。
 だがそれはお互い様だ。あいのこのリコだって、垣間見えるイヌという種族の淡白さに、時に耐えられないほどの違和感や嫌悪を覚えることもある。それでも、ドッグタウンは好きだった。そこに埋めようのないある種の溝があったとしても、リコには、おそらくリーリにも、居場所はここしかない。
「あたしは仲間になれますか?」
 リーリは少し、目を瞠らせる。やがて柔らかに微笑まれ、リコも少しつられてしまった。
「いいね、いい子だ。その仔ネコはまだ保留だけど、リコちゃんのことは歓迎するよ」
 そう、悩んだって仕方がないのだ。リコもリーリも、前を見据えていくしかない。

 リコが提供できた情報は、ジプがもう戻ってこないという事実だけである。それは重大な事柄だったようだが、集会所の空気がどっと落ち込み、リコは申し訳ない気持ちになった。
 逆に集会所の仲間に迎え入れられたリコには、頭がパンクするくらいの情報がもたらされた。リコはドッグタウンを、野良のイヌたちが寄り添って生きているスラムのように考えていた。ジプがボスだったことも、子供の遊びで自然生まれる、リーダー格の悪ガキと同じ程度にしか思っていなかった。だがこの地下室でドッグタウンのイヌたちは、緻密な『政治』を行っていたのである。
 ジプは、イヌたちが明確な合議で選んだドッグタウンのボスだった。同様にリーリは、ジプに任命を受け、集会所のイヌたちが議論の上承認した、ドッグタウンのナンバーツーだった。役割分担もしっかり決められていた。大雑把に言うと、貧民の救済や住民管理など表立ったことはジプの管轄で、制裁や警察的役割は、リーリの一派が担っているらしい。
 住民票も作られていた。どういう組み合わせか、リーリがルバ婆ちゃんを連れて、集会所から出て行ってしまった。置いていかれたリコは、たくさんの文書と睨めっこをしている。作成者であるジプの娘でありながら、十枚以上に渡って記された名前や備考を、一つも解読できないなんてことは結局言い出せない。かろうじて、市役所の飼いイヌ登記よりもたくさん書き込まれているな、とわかるくらいである。そしてその半数以上に、赤い取り消し線が引かれていた。
「レキ」
 ノートに身を乗り出したレイディが、名簿の中の四文字の短い名前を指差した。滲んだ赤線に貫かれていて、なんとなく痛々しい。
「アリウム」
 同じ紙。五文字。こちらも赤い取り消し線が引かれていた。少し線が、ぶれている。
 この赤線の意味するものは……、想像が詮無いものにしかならないと気付き、リコは思考を中断した。
「ようはいなくなった仲間の名前を、こうして線を引いて消しているわけ」
 にゅっと、リコの肩越しから手が伸びてきた。赤いサインペンの先端が、視界の端を行過ぎる。咄嗟のことに驚いて、リコは硬直してしまう。
 いつの間に帰ってきたのか。ネコが気配なく近寄るのはレイディで慣れていたが、不意に現れるのが可愛いレイディかあくどそうなリーリかでは、心臓にかかる負担も違う。手を出したものの腕が短くテーブルまで届かないらしく、リーリはソファーの後ろから身を乗り出して身体ごと手を伸ばし、七文字の名前に赤線を引っ張る。傍若無人も、ネコの血の特性らしい。
「ルバーブ」
 レイディが、読み上げた。ルバ婆ちゃんの、本当の名前。
「これでちょうど、七十人目。半分は街を出ようとして、ヒトに殺された。後の半分は、吸血鬼に殺された犠牲者だ」
 ルバーブの名前に引かれた赤線と、リーリの言葉の意味がわからなくて、混乱した。どうして。ついさっきまで、ルバ婆ちゃんはそこにいた。リーリが連れて行ったではないか。
「リコちゃん、君にもやっぱり、知っておいてもらいたいことがあるんだ。ついてきて」
 硬直するリコの耳元で、リーリが低い声で囁いた。



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