青い水底に揺れる街

 四章、レキ(2)


「レキ、そろそろカフェに帰ろうと思うんだけど。レキも一緒に帰ろう。子供二人くらい、カフェで充分、食べさせていけるから」
 レキの調達した卵とライスで、オムライスを作った。リコは二つ皿を持ち、レキには一つ持ってもらって二階に運んでいる。仔ネコはやけに水槽に馴染んでしまって、怪我が治っても出てこようとはしなかった。レキが言うには、レイディは体質的に身体が弱い『アルビノ』だから、アイソレーターに密閉して無菌を保ったほうがいいらしい。蓋を被せていないから無意味ですけど、ともレキは付け加えた。
 リコの提案には反応せず、レキは無言のまま、慎重に皿を二階に運んで床に置いた。
 また無視されてしまった。そう思いながら皿の一つを水槽のレイディに渡していると、不意にレキがリコに向き直って口を開いた。
「一週間待ってください。そうしたら、一緒に外に出ましょう」
 一方的にそう言って、レキはオムライスに口を付ける。レイディも何も気にならない様子で、皿に直接顔を突っ込んだ。
 リコは溜息をついた。一週間、待っても構わない。方針に異存がないのなら、口を噤むのがドッグタウンのルールだった。余計な詮索は、誰にとっても無駄だとされた。
 しかしそのルールに大人しく従っていたお陰で、リコはずっと街で除け者にされていた。リコは生粋のイヌではないのだ。自分で探し出さなければ、集会所にも招かれない。もう、黙ってイヌのルールを守る気などなかった。
「一週間、ここにいてもいいよ。でもなんで一週間なのか説明して。レキの中で終わらせないで」
 少し意外そうに眼を眇めて、レキはリコと視線を合わせた。沈黙が降りたが、話す気がないというより、レキは言葉を探しているように見えた。
「他にも、訊きたいことがいっぱいあるのよ。レキ、変だよね。ここにレキがいるのはうれしいけど、ここにいるのも変だよね。今のドッグタウンの様子が、想像つかないわけではないの。ジプもリーリもいなくなって、街の人たちを纏める人が誰もいない。吸血鬼のウイルスは、きっとずっと蔓延している。レキがいなくなって、一週間で半分死んだの。もう、あたしたち以外誰も生き残ってないかもしれない。知ってて、黙っているのは卑怯者だよ」
 水槽から、オムライスの皿が投げられた。胸の辺りに、べっとりと卵がくっついた。皿は床に落ちたが、乾いた音を上げるだけで、割れたりはしなかった。
「リコ、言い過ぎ」
 仔ネコが、大きな瞳を怒らせて、きつくリコを睨んでいる。布巾を取ってきます。レキが腰を上げて、階段に向かった。
 床はつるつるとした材質で、掃除は簡単そうだった。リコは皿を拾って、床に散らかってしまったオムレツの、拾える分だけ素手で拾う。
「僕がね、レキを噛んだの。生きててくれて、うれしい」
 リコは自分の指を口に含んで舐めとった。卵の、甘い味がした。水槽に手を差し入れ、仔ネコの顎の下をごろごろしゃくった。
 着替えてくるから。そう仔ネコを言い含め、リコはレキを追い掛けた。


 絞った布巾を奪い取り、リコは自分の手を拭いた。
 ダイニングテーブルには、椅子が一脚しか備えられていない。レキに椅子に座るよう命令して、リコは机に腰掛け服を拭いた。
 レキは大人しく言うことを聞いてくれる。ジプを思い浮かべて偉そうにしてみたが、意外とサマになっているのかもしれない。リコは、妙な自信を持った。
「リコスの言っていた通り、ドッグタウンはほぼ全滅状態です。今週中にも、ヒトの軍隊が動員されて、残ったイヌの完全な駆除、街の殺菌が行われることになっています。この家がその対象になっているのかどうかは、実は聞いていません。ただ僕がここにいることをドクターは知っていますし、リコスとレイドを保護したことも連絡してあるので、外よりは安全なはずです。僕たちを助ける気があるかどうか、ドクターの意向次第ですが」
 街は全滅。ヒトが入り込んで、リコの生まれ育った街を葬りに来る。じわりと胸に悲しみが染みたが、それは既に懐かしさに似た感覚だった。大事な人たちは、既に街を去るか、死んでしまっている。守るべきレキとレイディは、ここに、手元にいてくれていた。
「レイディがレキを噛んだんだって? あの子、苦しんでる」
「噛まれたことは事実です。だけど、そのせいで感染したわけではありません。レイドはその時、既に完治していましたから。その後、ドクターにウイルスを植え付けられました。でもそのことはレイドには言わないで下さい。僕を噛んだのはレイドの意思でしたし、レイドが苦しむのはドクターの意向でもあります。ちなみに僕が、ドッグタウンにウイルスを蔓延させた、最初の吸血鬼、なんですよ」
 ドクターって、センセイのこと? 訊ねると、レキは失念していたという風にわずかに目を瞠り、頷いた。
「治療してもらう条件が、ドクターの飼いイヌになることでした。僕は末期症状まで進行していましたし、レイドのように完治できなかったんです」
 レキは、指で自分の頭をとんとんと叩く。
「中身の色んな部分が壊れてしまったらしくて、感情というものがわかりません。リコスやレイドを好きだった記憶も、ドクターを心底憎んだ記憶もあるのですが、それが何の意味も為さないのです。一度発症して、生きているだけでも奇跡なのですよ。その歓びすら実感はないのですが、心底生きたいと思った記憶はあるので、やはりありがたいことです。イヌの本能なのか、ドクターの言いつけに従っていると、安心します」
 まだ、説明しなくてはならないことがありますか? レキは、生真面目な顔で訊ねた。
 リコは首を横に振る。机から降りて、レキを抱き締めた。
 レキはじっと動かず、人形のようだった。リコの嗚咽にも、何の反応も示さず固まっていた。



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