青い水底に揺れる街

 四章、レキ(3)


 それから一週間、リコたちはレキの言う通り、センセイの家に隠れていた。もう三月だろうか、日差しは日に日に暖かくなる。
 五日目の日、外がやけに騒がしかった。レイディは無頓着だったし、レキは無感情だった。いよいよ、ヒトの軍隊がドッグタウンに入ったのだろうか。思うところはあったが、リコも気にしない振りをして、騒動を無視した。
 六日目は、至って静かであった。レイディはずっと日がなまどろんでいたし、レキは一言も喋らなかった。リコも、ほとんど会話もなく、ほとんどレイディの水槽に身を寄せて過ごした。時の流れるままに、一日が過ぎた。
 七日目、水槽の仔ネコが暴れた。抱き上げて出してやると、レイディは身軽にリコの手を払って飛び降りて、きょろきょろ辺りを見回した。真っ白な部屋には、ほとんど何もない。水槽と、折りたたみ椅子があるだけだ。隠れる場所のないことに気付いたレイディは、所在なげにリコの脚にしがみつく。
 誰かが来る。レイディの反応から、読み取れた。それもレイディの怯える誰かが来る。
 階段から、レキが上ってきた。続いて、ダークグレーのスーツの男がついてくる。猫背をすっと伸ばし、いつもぼさぼさだった髪をぬっとりと撫で付けると、センセイは見違えるほど鋭く冷酷に見えた。
「レイディ、リコちゃん、ただいま」
 声音は、不自然なほどにかつてのセンセイのままだった。
「危ない、辛い目に合わせたね。でも二人が無事で、本当に良かった。もう、大丈夫だから」
 懐かしい、少し気弱な柔らかな笑み。その言葉が、心底から発せられた気がして、ぞっとした。
 まだ、リコがセンセイを好いていると思っている。レイディが、センセイを憎んでいないと思っている。リコを置き去りにし、レイディを実験動物にし、レキを壊した。アリウムを殺した。リーリを殺した。ドッグタウンを、吸血鬼と死者の街に変えてしまって、葬った。
 それなのに、自分が恨まれているなんて思っていない。それどころか、歓迎されると思っている。
 リコはレイディを抱き上げ、ふらふらと折りたたみ椅子に座り込んだ。脱力して、全ての思考が面倒になる。
「……おかえりなさい。ジプは?」
「連れてきていない。リコちゃんがいなくなって、少し不安定になっていてね。無事を知ったら、喜ぶよ」
 センセイは、少し浮かれているように見えるくらい、すこぶる上機嫌だった。人形のように畏まったレキの頭をぐしゃぐしゃと撫ぜて、柔らかな笑顔をむやみに振り撒く。
「リコちゃん、君は自分を誇っていいんだよ。ドッグタウンのイヌの、ほとんどが死んでいるか、そうでなくても発狂している。リコちゃんは、正気で生きている。不治のウイルスに打ち克ったレイディほどではないにしろ、リコちゃんは運命の女神を味方につけて、自分の手で今の瞬間を勝ち取ったんだ。リコちゃんには、尊敬の念すら覚えるよ」
 レイディが、リコの唇の端に軽く口づけた。生温かい湿った吐息に、ほんの少し正気が戻った。
 レイディはリコの膝の上から飛び降りる。リコとセンセイの間に立つと、後ろ手に腕を組んで、可愛らしく小首を傾げた。耳は、恐怖の感情のままに伏せている。顔はきっと、唇の両端を持ち上げる、引きつった笑みを浮かべている。くせっ毛の乱れた後頭部を見ているだけなのに、そんな表情が目に浮かぶように浮かび上がった。
 センセイが、蕩けそうなほどうれしげに目許を緩ませ、レイディに手を伸ばそうとした。
「センセイ」
 レイディの前髪の先を、ほんの少し摘んで放し、センセイはリコに目を上げる。邪魔されて、ほんの少し迷惑そうだった。それでも手の掛かる子供に呆れたような、優しげな笑顔が浮かんでいる。
「なんだい、リコちゃん?」
「あたしたち、これからどうなるんでしょう」
「『たち』というのは、どこまで含むのかな。リコちゃんとレイディはヒトだから、僕の養子になってもらうつもり。ジプとレキは、飼いイヌとして引き取るよ。飼い主の登録はリコちゃんのままにしておくから、ちゃんと大事にするんだよ。あとは……ウイルスが拡がらないよう、処分する。街も、再開発される」
 気まずそうに言う態度が、受け入れられない。飼えない動物は捨てるから。そんな軽さで、ドッグタウンは葬られるのだ。
 レイディの後ろ姿を見ていると、レイディの考えていることが、手に取るようにわかった。目の前の男を殺す方法がないかと、必死に頭を働かせている。そして自分が何の手段も持っていないという結論に至り、絶望している。
 レイディは実験動物だったと言っていた。何度同じことを考え、同じ絶望を味わったのだろう。少なくとも、リコの比ではない。
「センセイ、お願いがあるの」
「なんだい、僕にできることなら、なんでも聞いてあげる」
 作り笑顔なんて、慣れていない。下手な営業スマイルがひきつった。うまくいっただろうか。センセイは特に訝る様子もなく、優しい笑みを返してくれた。
「カフェは、壊さないで。ジプと一緒に、またお店をやりたいの。レキやレイディと、あそこで一緒に暮らしたい」
「僕だけ、仲間はずれ?」
 センセイは、おどけたように口を尖らせた。胸が張り裂けそうに、憎らしい。殺意だ。この感情をそう言い換えても、違和感はない。ただリコが、その術を持たないだけだった。
「お向かいに、花壇のあるレンガ造りのかわいい家が建っていて、そこにちょっと頼りない優しいセンセイが住んでいたら、そんな素敵なことはないわ」
 憎悪も殺意も絶望も、全てを押し殺して最後に残ったのは、イヌの本能だった。守りたい、取り戻したいものがある。リコの理性は、感情を排した、合理性だけの判断を選択した。そこに生粋のイヌには難しい、嘘とおもねりが混ざったのは、リコのもう半分の、卑劣なヒトとしての性だろう。
「それは素敵だ、とても魅力的だ。この家と教会だけは、もともと法律上も僕とリコちゃんの土地だから、取り壊さないでもらえるようお願いしよう。でもリコちゃん、そんなに怯えなくたって大丈夫だよ。耳が、ぺったんこ」
 リコはセンセイをじっと見据えたまま、下ろされた髪の上から、両耳に手を当てて隠した。センセイは少し異質な、皮肉な笑みを浮かべていた。



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