青い水底に揺れる街

 終章、青い水底


 冷たい春が過ぎ、乾いた夏を経て、街は秋の色合いに染まり始めていた。具体的には青空は高く澄み渡り、夕日は紅の深みを増して、センセイの家の花壇にはコスモスが花開いた。
 センセイは外国の公演に出掛けている。不治の難病といわれたウイルスの解明に成功したセンセイは、科学者として有名になった。廃街に棲みついた野良イヌを『駆除』した報酬と口止め料が国から出て、センセイはお金持ちにもなった。イヌの大量殺戮は、ヒトにとっても惨事らしい。そういったヒトという種族の、無責任で浅はかな憐れみの情に、この上もなく憎悪が募る。
 レキは、機械のように優秀な助手らしい。ジプは、空いた時間はリコと一緒にカフェに出てくれる。しかしセンセイの秘書のような仕事もこなし、何かと忙しそうだった。煙草を控える様子はないが、アルコールに泥酔した姿は、ここ一年近く見ていない。
 もうすぐ、一年になる。あと季節一つ、くすんだ彩りの秋が枯れれば、色が消える冬になる。風景の色ばかりではなく、あの冬、街の全てが消え失せた。
 リコの好きだった人たちが消えた。リコの信じていた人が消えた。ドッグタウンの住民が消えた。ドッグタウンの建物は、市庁舎も集会所のあったマンションも取り壊された。ドッグタウンの名称すら、今この街の住人は誰も知らない。
 シェットランド・カフェの運用形態は変わらない。古い礼拝堂を手作りで改装した、個人経営のバー。夕方から明け方までの営業で、アルコールと簡単な食事を出す。冬以来、客の種族は変わったが、酒場に集まる人間なんて、イヌもヒトも本質は何も変わらない。
 シェットランド・カフェに来るのは、虐げられた人たちだけだ。
 夕方、店は開店前だったが、お客が一人だけ来ていた。カウンター席に座る、子供のようなあどけない顔をした、背の高い青年の名前をリコは知らない。占いや、花の名前や、星座の形。何の役にも立たなさそうな無駄な知識ばかり持っていたので、他の客は彼をハカセと呼んで揶揄していた。街の再開発のために、泡のようにシェットランド・カフェに溢れた日雇い労働者の一人だった。
 ハカセは動物も好きだった。お酒を飲みにではなく、リコの猫目当てにカフェにやってくる。
 リコは今、真っ白な長毛と青い瞳のペルシャ猫を飼っている。レイディのような、人間の姿のネコではない。センセイに買ってもらった、外国から輸入された動物の猫だ。この国の先住民であったネコを買うより、ペットの猫の方がよほど高いらしい。半分イヌのリコとしては釈然としないものを感じつつ、確かにペルシャ猫はレイディよりも可愛かった。夜行性のレイディは、空が紫に染まるこの時間になっても、まだ降りてさえ来ない。
 ハカセは膝に猫を乗せ、毛を逆立てられているのにも頓着せず、子供っぽい顔をさらに幼い表情に緩ませている。
 目的は猫、しかも時間は開店前。そんな人間を客として扱う必要も感じられず、リコはハカセを放ったままに、自分の作業に没頭していた。
 ガラスの水槽がある。レイディの入っていたような大きなものではない。リコの一抱えもないくらいの、小さな水槽だ。その水槽に、カウンターの裏でリコは五本目のリキュールの壜を空けていた。
 ブルー・キュラソー。無色透明のリキュールに、人工の青を溶かしたお酒だ。人工色がいかにも毒々しくて、昔は嫌いだった。毒々しい、そんな印象は変わらない。なのに今はその青が、吸い込まれるように美しく、魅力的に映るのだ。
 水槽が、透明な青の液体に満たされる。
「ねえ、リコちゃん。今日のサフィ、様子がおかしいよ」
「金払えって怒ってるのよ。うち、ひやかしはお断りなんだから」
 名無しのままだったペルシャ猫に、ハカセはいつの間にか勝手にサフィと名付けていた。ペルシャ猫の青い瞳を見て、宝石のサファイアから取ったという。サファイアが青い宝石であることを、リコは猫の名前で初めて知った。
 リコの悪態に、ハカセは悪びれのない顔でへらへらと笑っている。どうにも憎めない、少し不思議な人だった。
 同じ、ヒトだからだろうか。まるで似ていないのに、まるで昔のセンセイといるような、居心地の良さを感じる。
「うわ、サフィ!」
 ペルシャ猫が、ハカセの手を噛んだ。カウンターに駆け上がった猫を、リコはすかさず首根っこを掴んで捕まえる。
「サフィ……」
 ハカセが半べその声を上げた。呆れ果てながら、リコはハカセの手を見る。
 頭は少し緩んでいても、さすがに一応は肉体労働者である。身体は情けないほどに線が細いにもかかわらず、手だけは黒く焼けて無骨で固そうだった。噛まれた手の甲に、痛々しく真っ赤な鮮血が滲んでいる。
 ざっと、計算する。手なら、潜伏期間は約一週間。この人は、レキやリーリのように理性が強いだろうか。
 リコはカウンターの下に隠れ、ペルシャ猫を水槽に突っ込んだ。優雅なペルシャ猫には似合わない、金切り声の断末魔が響き渡った。
「リコちゃん! 今、サフィのすごい悲鳴が聞こえたよね!」
「尻尾を踏んじゃったのよ。逃げられちゃった、また嫌われたかも」
 立ち上がって、リコは苦笑いを作ってみせた。
 白い長毛が重く水を含んで広がって、青い水にゆらゆら揺れて浮かんでいる。ペルシャ猫は、痙攣を起こして絶命していた。
「リコちゃんは芯があるから、サフィも一目置いてるよね。僕なんて眠たいときに使うだけの、体のいい人間椅子くらいにしか思われてないもん」
 カウンターの向こうで、がっかりとしたことを隠す様子もなく、ハカセは残念そうにお愛想を返す。
 ハカセの平和そうな笑顔を、リコはぼんやり覗き込む。指に残ったキュラソーの滴を、ちょんとハカセの顔に弾いてみた。
 ハカセは悲鳴を上げたりはせず、わずかに迷惑そうに顔を顰めた。

fin


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