左手記念日

 プロローグ


 この世に生まれて二十年と少し、あまりうまくいかなかった。それはきっと、勇気が足りないからだった。
 今日自分は死ぬ、そう決意してみる。
 そう思えば、今までできなかったやりたいことを、全部できるような気がする。死者に、怖いことなどあるだろうか。恥ずかしいなどと、思う必要があるだろうか。
 そう思って。そう決めて、街に出た。
 季節は春、空は雨だ。
 ずっと気になっていた、駅前の店に初めて足を踏み入れた。ネイルサロン・リコリス。男の自分にも、綺麗に化粧をした店員は怪訝な顔をすることなく、愛想よく迎え入れてくれた。
「白くて細くて長い指、こんな手にさわらせてもらえるのは幸せだわ」
 左手に黒いシュシュをつけた店員は、手馴れた所作で男の左手をとると、壊れ物のようにそっと指を取り、一本一本の爪に丁寧にやすりを掛けてくれる。
 男の手首の傷跡には何も触れない。ただ男の指を、丁寧に磨いてくれる。
 黒に近い深い色の塗料でコーティングをして、男の爪はきらきらと輝きを放つ。
 これから店員が筆を入れて、この夜闇のような背景に、絵を入れるらしい。
「ご希望の絵は、ございますか?」
 訊ねられ、考えてなかったので、狼狽した。綺麗な絵を、狼狽しながら、そんな抽象的な注文を出す。
 店員は笑ったりせず、わかりました、と赤い塗料を手に取った。
 店員は一度目を瞑り、不思議な無防備な表情で、一つ小さく息をついた。接客をしてくれる店員の様子は、自分と違って世慣れて見えた。しかしこうして見ると、ひどく幼く見える。もしかして、男よりも年下だろうか。
 すぐに目を開き、店員は表情を、また隙のない笑顔に切り替える。何かを測るような仕草で、店員は小さな手を、男の左手に重ねた。
 何かを得心したのか、店員は微かに口許を綻ばせた。男の爪に筆を乗せ、さらさらと魔法のように絵を描いていく。その手順の全てが流れるように淀みなく、時を忘れるほどに心地いい。
 至福の時間はすぐに過ぎ、十の爪には、十の花が咲いていた。放射状の花びらの、可憐な赤い花だった。
「彼岸花です。お店の名前の『リコリス』は、彼岸花のことなんですよ。当店初めてのお客様には、半額サービスで、いつもこの絵柄を描かせていただいているの。彼岸花の花言葉は、『別れ』とか悲しい言葉もあるのだけど、当店ではもう一つの花言葉、『再会』の願いを込めて描いています。またいらしてくださいね」
 一息にそう言ってにっこり笑うと、店員は小さな両手で、ぎゅっと一度男の手を握った。
 慣れた笑顔は、きっと営業スマイルだったが、不思議とまるで嫌味がなかった。
 帰り際に、店員は名刺をくれた。
「ネイルのことじゃなくても、困ったら掛けてください。助けに行きますから」
 彼岸花のアニメ絵のプリントされたボールペンで、店員は名刺に電話番号を書き込んだ。携帯電話の番号だった。風俗店の営業みたいだ、男は思った。


 家に帰り、男は今、仰向けにベッドに転がり、右手を掲げて美しい彼岸花を眺めていた。
 暗い自室。ネイルサロン・リコリスの、あの華やかで至福の時が嘘のようだ。爪の花たちだけが、薄闇の中、夢の名残のように咲いている。
 やりたかったことを試してみた。さあ、終わろうか。
 ウィスキーを呷って、ビンから睡眠薬の錠剤を無造作に手に移す。彼岸花は、毒をもつ花らしい。赤い花がちろちろ揺れて、白い錠剤を一粒ずつ、男の口に運んでくれる。
 世界は揺れていて、赤い花が瞬く以外、視界は闇に包まれていく。綺麗だと思った。この死に方は、不幸ではない。
 完全に暗闇に閉ざされる。意識が混沌とする。死を感覚的に理解した。
――ふと、恐怖を覚えた。
 男はこの段になって、抵抗した。真っ暗な闇を破ろうと、彼岸花の咲く指で引っ掻き回す。闇を掻いたところで、手ごたえはない。男は転がりながら、戦いを続けた。
 真っ暗な中、左手に手ごたえを覚える。力を込めて引き裂く。人差し指の彼岸花が、散ってしまったかもしれない。渾身の一掻きに、闇に裂け目ができて光が漏れ入った。
 男は必死の思いで、光差す闇の裂け目に手を差し入れた。光り輝く裂け目の先は、温かな水面にでも手を差し込んだように空気が異質で、微かに空気が纏わりつくほどに柔らかな気がした。
 ネイルサロン・リコリスの店内を、少し思い出す。
 目を覚ますと、そこはやはり自分の部屋だった。男は死ぬことができなかったらしい。
 夜はまだ、明けていない。カーテンのない窓から、鈍い月の光が差し込んでいる。
 ウィスキーのビンが倒れ、フローリングの床に中身がこぼれていた。床に広がる暗い琥珀色の湖に、飛び石のように白い睡眠薬の錠剤が散っている。アルコールの匂いがほのかに立ち込め、微かな酩酊が抜けきらずに残っている。
 夢の中、光の裂け目に差し入れた左手は、二の腕からベッドの横の壁に刺さっていた。
 夢から覚めても、その光景は変わらない。不思議な裂け目。引っ張ってみても、動かない。男の腕を咥えてぴったり閉じてしまっている。
 角部屋の、壁を隔てたこの腕の先は、外のはずだ。薄い壁の向こうでは、おそらくまだ冷たいだろう、春の雨の音が響いている。
 裂け目の向こう、壁に刺さった腕は温かかった。
 彼岸花の咲くはずの指先に、冷たい何かがそっと触れた。



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