左手記念日

 1


 身も心もくたくたになって、和琴はなんとか部屋に辿り着いた。越してまだ一ヶ月のワンルーム。今日も扉の向こうには、殺風景な空間が待っている。
 テレビも冷蔵庫さえ置いていない部屋に、ベッドだけが置いてある。南向きの大きな窓には、迷った末に、星空の描かれた深い紺色のカーテンを掛けた。暗い気がしたが、和琴が唯一、悩んだ末にこだわったものだ。
 なんとなしに部屋の中を思い浮かべ、憂鬱と安堵のないまぜになった不思議な気持ちで、鍵を差込み、扉を開く。黒いヒールの靴を脱ぎながら、電気をつける。
 この靴も慣れない。どうせ和琴は夏になっても長袖しか着られないのだし、おしゃれなんて考えたくもない。綺麗なネイルに触れて、そこに綺麗なマニキュアを描きたいだけで、そのために専門学校も卒業して、資格をとった。
 ネイリストがおしゃれでなければいけないなんて間違った固定観念、一体誰が作ったのだろう。
 それでも今日はネイルサロン・リコリスに見習いとして勤めて初めて、お客さんを担当させてもらえた日だった。リコリスには、初めてのお客さん専用の裏コースがある。初めての来店の客にはそもそも五割引の特典があったが、さらに和琴のような初心者に任せてくれるなら、ネイルケアからカラーリングまで、通常の九割引の千円ぽっきりで利用できる。
 和琴の初めての実地として実験台になってくれたお客さんは、目つきの鋭い三十前後の女の人だった。お客さんのネイルは、扁平で角張っていて、和琴の理想とは程遠かった。それでも、自分の小さな左手ではなく、お客さんのネイルに絵を描くのは、感動が違う。
 初めての客へのリコリス定番になっている、彼岸花のマニキュアを、和琴は丁寧に描いた。人と話すのは苦手だった。目を合わせることすら、少し怖い。
 和琴の小さな狭いネイルとは違う、扁平だけれど幅広のキャンパスを、和琴は終始黙って見つめ続け、彼岸花のマニキュアを完成させた。
 満足できる仕上がりだった。少なくとも、お店のサンプルに遜色ない。初めての本番にしては上出来だ。
 和琴は安堵に気を緩めて、つい心の準備もなく顔を上げ、お客さんと目を合わせてしまった。
 喜んでくれるわけでもなく、細い目をさらに細めた感情の読めない顔で、お客さんは爪の彼岸花を見つめていた。和琴の絵は、お気に召さなかったのだろうか。
 頭が空白になってしまい、和琴は無言でお客さんをレジまで送った。
 逃げ出したいほど慌てていたので、急かすような、失礼な態度になってしまったかもしれない。焦りが焦りに拍車を掛ける。店長が気付いて、リコに代わってレジをやってくれた。
 手持ち無沙汰になって、でもこのまま何もしないのではいけない気がして、和琴は突然思い出した。すっかり忘れていた。初めてのお客さんに、彼岸花を描いたときのマニュアルトーク。
「その、彼岸花には、『再会』っていう花言葉があるんです。是非またお客様にご来店していただけるように、と思って描かせていただいています。またよければ、次回は私を指名してください」
 お客さんに名刺を差し出した。目は合わせられない。
 マニュアルトークさえ、歯抜けだらけの不完全なものになった。絵柄を見て、彼岸花とわからないお客さんのほうが多い。本当なら、マニキュアを描く前に説明するようなことだ。
 顔が熱いのが自分でわかって、和琴は俯いたままだった。
 お客さんの爪の先の彼岸花が、和琴の名刺を払った。厳しい目で、ずっと黙っていたお客さんは、やはり和琴の仕事に不満だったのだ。
 なぜだろう。上手く描けたと思ったのに。和琴の態度が許せなかったのだろうか。そんなことを言われたら、何もできない。
「除光液を下さる?」
 お客さんは、それきり和琴を無視して、店長にそう告げた。
 お客さんが帰ったら、和琴の描いた彼岸花は、除光液で消されてしまう。
 除光液の小瓶を受け取る指の先、余命短い彼岸花は、上手く描けたと思っていたが、改めて遠見にするとやっぱり拙く見えた。
 お会計は、三千九百八十円。内訳は、和琴のマニキュアが千円、除光液の小瓶が二千九百八十円だった。除光液は、和琴の仕事よりも高い。
 ありがとうございましたもいえず、和琴は俯いたままだった。
 二度とはお店に来てくれないだろう、和琴の初めてのお客さん。お会計を済ませて出て行く際も、派手なピンクのハイヒールの、足元だけしか見られなかった。
 思い出したくもない一日を振り返ってしまい、余計に暗い気持ちになりながら、電気をつけて明るくなった部屋を見回す。
 何もない部屋。窓を覆うカーテンの星空が断ち切れた下、白い狭い壁からだらりとマネキンの腕のようなものが生えている。……違和感を覚える。
 毎日の習慣で、ラベンダーのアロマをセットした、加湿器のスイッチを入れた。すぐに白い水蒸気が立ち上り、柔らかな香りが空気に漂う。何もない部屋。越してきて、お店に勤めるようになって、仕事以外何も手をつけようがないほど、毎日が疲労困憊だった。
 なんでもいいから、この追い詰められている感を和らげてくれるリラクゼーションが欲しくて、つい生活に必須な家電より先に、衝動買いしてしまったものだった。
 今も、とりあえず落ち着きたかった。
 バッグをまさぐり、帰りに買ったペットボトルのミルクティーを取り出す。とうに温くなってしまっている。和琴の手の方が冷えていて、持つとほのかに温かく感じるほどだった。バッグを少し乱暴に、ベッドに放り投げる。
 和琴はカーテンの星空に寄り掛かり、ずるずると膝の力を抜いて窓際に座り込んだ。
 横に、白い腕が生えている。二の腕の半ばくらいからの、細い腕だ。死んだように、力なくだらりと垂れている。
 和子は夢心地で、壁から生えた手を観察する。
 繊細な、綺麗な手だった。指が細くて長い。でも節が固そうで筋張った、男の人の指だった。手首に一筋古いためらい傷が走り、形良い長い五枚のネイルには、暗い藍色の夜に咲く、赤い花火のような彼岸花の花が咲いていた。
 不思議に思ったり、悲鳴をあげたりすることを忘れてしまったのは、この彼岸花のマニキュアのせいだった。
 一目で魅了された。和琴の描きたかったものがそこにある。自分で描くのが馬鹿らしくなってしまうほど、その彼岸花は美しく、さらに和琴の感性に寸分狂わずマッチした。和琴は、暗い色彩のコントラストが放つ輝きを愛している。
 魂が吸い取られるほど美しい。和琴は本気で、そんな感想を抱いてしまう。
 そっと、白く長い指先に触れてみた。冷えた石膏像のような感触を予想していたが、指は意外と温かく、まるで本物のようだった。
 突然、指がピクリと動いた。
「きゃっ」
 部屋に帰って、和琴は初めて声を漏らした。
 白い腕は、生きていた。和琴の手を掴まえた男の手に感じたのは、恐怖ではなかった。赤い彼岸花。白く細く長い指の形良いネイルに描かれた、藍色の夜闇に映える赤い彼岸花。それが、本物なのだ。マネキンに描かれた、サンプルではない。
 和琴はペットボトルを置き、両手で包むように白い男の手を握り返した。白い手は熱く、冷えた和琴の手に熱が染み込むようだった。



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