周瑜嬢
6、ドアラ君とトラッキー君……(by周瑜)
「尚香ちゃん、朝だよ」
周瑜の腕枕に寝ている間に抱きついて、尚香が親にしがみつくお猿の赤ちゃんのように眠っている。周瑜が耳元に囁くと、尚香は周瑜の腕を抱え込んだまま、丸くなって身を縮こまらせた。
男系大家族の孫家に、周瑜を安全に置いておける空き部屋はないらしい。女扱いは不本意であったが、特に策を前にすると、身の危険を感じないではない。
そういった理由で、周瑜は尚香の部屋に居候させてもらっているのである。だからと言って、一つの寝台の上で女の子と一緒に眠るのは我ながらいかがなものかな、と思う。しかし今、策や権と一緒に寝ることなど、想像するまでもなく怖気をふるう。あと三年くらいは許されるだろうと、尚香の幼い寝顔を見ながら、周瑜は自分に言い聞かせていた。
今日は日曜日だ。リョーコと買い物に行く約束をしている日である。
しがみつく尚香をそっと解いて、周瑜は寝台から抜け出した。手早く手櫛で髪を整え、権に借りているネグリジェを脱ぎ捨てると、策に借りたTシャツとジーパンに着替えた。出かける時には、革ジャンをさっと羽織っていく。
外来語も違和感なく使いこなせるようになってきた。由来が分かれば、無作為な音の羅列に聞こえていた言葉も、すんなり意味を為すのである。これもリョーコに教えてもらった英和辞典を暗記した成果である。
「ユキさん、今日お買い物に行くんだっけ?」
「うん、友達と一緒に」
背中に寝ぼけ声の質問が聞こえて、周瑜はそう答えて振り向いた。訊かれてもいないのに、友達と一緒に、なんて言っている。素敵な友達は、自慢したくなるのである。子供っぽい自分に、周瑜は一人で照れ笑いを浮かべた。
そんな周瑜の顔を、少し憎たらしい白けた目で見て、尚香はもぞもぞと布団から這い出てくる。
「あたしも一緒に行ってあげる」
「え、いいよ、別に」
「今朝のユキさんは浮かれているから。もともと頼りないのに、心配ったらないもん。ついでにお洋服選びも手伝ってあげる、ユキさんの趣味怪しいし」
さんざんな言われようである。
今の装いは、褪せた色のジーンズに、ドアラとトラッキーの竜虎宿敵相見える、可愛らしく斬新な絵柄のTシャツだ。
「それ、中日と阪神のマスコットキャラよね。なんて言うんだっけ」
「ドアラ君と、トラッキー君……」
孫策に、教えてもらったのだ。
リョーコとは、荊町の隆中バス停で待ち合わせをしていた。
バス。化石燃料で動く、大型の乗り合い車両だ。毎日図書館に行く際利用したので、周瑜は既にその乗り方を熟知している。回数券まで手に入れた。今日は巴蜀町まで行かず、途中下車すればいいのである。
この世界では専ら生活のために使われているようだが、ほんの少し軍用に改造すれば、強力な兵器にもなるだろう。なんとか自動車やバスといった化石燃料で動く車両を、呉に持って帰りたいと周瑜は思っている。
策や権はなんとなく予想していたが、翊や匡までもがついて行きたいと言ってきて、周瑜は困った。こんな騒々しい軍団を引き連れては、絶対リョーコに迷惑である。しかし『女の子同士のショッピング』を盾にして、全部尚香が追っ払ってくれた。
「イヤなことはイヤって、はっきり言わなきゃダメだよ。兄貴たち、揃いも揃ってデリカシーなんて欠片もないんだから」
道すがら、尚香に怒られてしまい、周瑜は肩を竦めて曖昧に笑った。
デリカシー、心配りの繊細さ。確かに孫家の兄弟にそんな言葉は似合わない。だが実は、決してそれが欠けているわけではない。周瑜を含め、あれほどまでに有能な家臣たちに三代に渡って慕われた孫家が、人の心に疎いはずがないのである。
「あ、バス来ちゃったよ、尚香ちゃん!」
バス停に着く直前、時機よくバスが周瑜たちを追い越した。ぷりぷりしている尚香の手を握り、バスに向かって手を挙げてバス停に駆ける。
「待ってくださーい!」
バスは扉を開けたまま、周瑜たちが乗り込むのを待ってくれた。
次は隆中バス停です、のアナウンスが言い終わる前に、周瑜はすかさず立ち上がり、『降ります』のボタンを押した。
一番乗りに『降ります』ボタンが押せると、なんとも言えず気分がいいのだ。尚香が幼い顔にお姉さんぶった笑みを浮かべて、にやにや周瑜を見上げている。周瑜はそ知らぬ顔で席に戻った。
隆中バス停につくと、ベンチには既にリョーコさんが座って待っていた。茶色のチェックのスカートと無地の白いブラウスに、スカートの色と取り合わせた薄いカーディガンを羽織り、リョーコは図書館で会った時より大人びて見えた。ドアラとトラッキーのTシャツに黒の革ジャンという格好が、周瑜は不意に恥ずかしくなってしまう。
しばらく止まっていたバスは、リョーコが客でないことに気付き、扉を閉めて発進した。
エンジン音が走り去ってから、リョーコはようやく立ち上がる。
「こんにちは、ユーコさん。来てもらっちゃってごめんなさいね」
乱れたカーディガンの前を合わせ、リョーコはおっとりと挨拶をする。
「こんにちは。妹さん?」
周瑜の次に、隣の尚香に目を合わせ、リョーコはにっこり大人っぽく微笑んだ。
尚香は気の強い目でじっとリョーコの顔を見つめるだけで、答えない。強い視線を受けて、リョーコも笑顔のままながら、目から笑みが消えてしまった。
「えっと、この子は私がお世話になっている家の子で、尚香ちゃんです。尚香ちゃん、こちら図書館で知り合ったリョーコさん……」
「よろしく、リョーコさん」
周瑜が慌てて取り持とうとしたところ、周瑜を遮り、尚香がいきなり言葉を発した。
「信用はならないけど、おもしろい人なのは確かね。ユキさんと仲良くしてあげてください、ただし、必ずあたしの目の届く場所で」
尚香のいきなりの挨拶に、リョーコはくすっと噴出すように微笑を零した。
「よろしく、手強い保護者さん」
差し出されたリョーコの大きな手を、尚香は顔を逸らせて拒絶した。
身内の失礼な態度に、周瑜は理不尽に顔を熱くさせられて、尚香の頬っぺたを軽くつねってやった。
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