周瑜嬢

11、普通のおっさんでがっかりしちゃったでしょ(by曹嵩)

 空が群青に染まる、冬の夕暮れ時。年が明けて冬休みも終わりに近づき、ようやっと街の喧騒も収まってきた。
 図書館で午前のうちから呂蒙と陸遜と落ち合って、学びて時にこれを習う。そんな習慣が、誰から言い出したわけでもなく、いつの間にか周瑜たちの日課になってしまっている。図書館にいると時を忘れて、空はあっという間に暗くなってしまうのだ。孔子の言うとおり、またよろこばしからずや、である。
「ユキさん、すみません、送ってもらっちゃって」
 柾目の立派な表札には、『陸』と美しい行書体で彫られている。歴史を感じる古いお屋敷の立派な門までたどり着くと、陸遜はくるっと回って周瑜を見上げ、かわいらしく笑顔を見せた。いつの間にか、陸遜まで周瑜を『ユキ』と呼んでいる。気に入らないので、眉を寄せ、軽く睨んでやる。
 図書館で勉強をした帰りは、まず家の近い呂蒙を送って、次に回り道して陸遜を送り、周瑜が一人家路に就く。大人は周瑜一人だけであったから、そこまでは責任を持たなければならない。
 そして帰り道、陸家の長い石塀の角を曲がったところに、どうせ策か孫堅伯父さんが待ち伏せているのだろう。毎日色々と言い訳を凝らしてくれるが、一週間も続けば、さすがに偶然だなどとは信じられない。
「ユキさん、顔怖いですよ。そんなに怒らないで下さい」
 思考を脱線させていたら、いつの間にか眉間の皺が、意識していた以上に深くなっていたらしい。無邪気な笑顔で、それでも呼び方を改めようとしない陸遜に、周瑜は怒りを通り越して感心してしまう。
「お詫びにいいこと教えてあげます。この間、幹部会があったんですけど、その時に決まったことをリークしてあげます」
 リーク。漏れること。この場合は、意図的に秘密や情報等を漏らすこと。いまや周瑜は、外来語を聞くと、頭の中で即座に変換してしまう癖がついている。
「徐州町に、バー・マダムトゥ、っていう居酒屋があるんです。僕は未成年でノーマルだから、行ったことはないんですけど。そこが明日、襲撃されることになりました」
 陸遜のいたずらっぽい上目遣いに、周瑜も笑みを返そうとする。うまくいかない。片側の頬を、痙攣のようにひきつらせるのがやっとであった。
 これは……、
「僕がユキさんに教えてあげるのは、もちろん罠です。ユキさん危なっかしく嗅ぎ回っているようですから、ちょっとお灸を据えたほうがいいかな、と思いまして。でも罠と分かった上で行くかどうか、それはユキさんの自由です」
 目を瞑って、息をつく。瞼を開けると、陸遜の大きな瞳と目が合った。
 大丈夫、落ち着いた。修羅場は向こうで、いくらでも潜り抜けている。この程度の逆境には動じない。
 それにしても、なんと人を食った子供だろう。
「いいことを教えてくれて、ありがとう」
 周瑜はにっこりと、今度は余裕を持って笑いかける。陸遜は無邪気な笑みを貼り付けたまま、それでも驚いたように目を瞠り、口許を少しひきつらせていた。
「そこで待ってて。ユキさん、本当に危ないから、お守りあげるよ」
 お屋敷の奥に入っていく陸遜を見送って、周瑜は言われたとおり、門に凭れて高く晴れた空を見上げた。



 バー・マダムトゥは、入り口の嵌めガラスに小さく店名がプリントされただけの、目立たない居酒屋であった。『CLOSED』。ドアノブに下がる、刃物の引っかき傷のように文字の彫られた銀盆を無視して、店に入る。
 暖房の効いた店の中は薄暗く静かで、違う時間の流れに踏み入れたような錯覚を覚える。ドアに備え付けられている鈴が、からんころんと、重たげな音を鳴らしていた。
「いらっしゃい。ごめんなさいねぇ、オープン十八時からなのよぉ」
 野太い声を掛けられて、見ると前屈みでカウンターを拭く人物と目が合った。少し肥満気味の体型の、頭の白い初老の男性である。襟元のはだけた白シャツに、黒いパンツ。ラフで品のいい格好をしていた。
「あら。あと、未成年の子入店禁止、女性の一人客もお断りなの。なぁに、あなた。お客さんじゃないのかしら?」
「客です。お構いなく」
 無茶なことを言って、周瑜は隅っこのカウンター席に目をつけた。カウンターの角部分、奥側の短い辺に二席だけ椅子がある。そこなら比較的目立たず、邪魔にもならずに店内を観察できそうだ。意識的に傍若無人に、周瑜は店内を横切って、コートを脱ぎ、隅の席に座り込んだ。
「全く、若い人は何考えてるかわかんなくて、嫌んなるわ。もう!」
 周瑜は白いコートを、くるくると丸めて膝に抱えた。インナーは黒で統一したので、薄暗い店では、もうさほど目立たないだろう。
「アルコールは出せないからね。烏龍茶でいいかしら」
 返事も聞かず、ガラスコップいっぱいに四角い氷が積まれていく。冷蔵庫からペットボトルを取り出して、男は氷の隙間に烏龍茶を注いだ。面倒そうな顔をしながらの鮮やかな手つきに目を奪われていると、いつの間にかウーロン茶に浸る氷が周瑜の前に置かれていた。
「ありがとう」
「いいわよ。まだ開店前だしね」
 男はおばさんのような、変なしゃべり方をする。だが不思議と違和感はなかった。少し、周瑜は自分の父親を思い出した。押し付けがましい指向性のない、そしてそれにほんの少し劣等感を抱いている、穏やかな名士を前にしているような安心感がある。
 希望通り、周瑜は放っときぼりにされて、男は忙しなく開店準備に戻ってしまった。望む望まざるに関わらず、こういった人が謀略の標的にされるのである。
 望んでここにいる周瑜に、それを非難する資格はない。それでも幅の広い背中を眺め、胸が少し痛んだ。


 ゲイバー・マダムトゥ。訪れるに当たって、周瑜はインターネットを利用して、それなりに下調べを済ませていた。開店時間は午後六時、女性の一人客お断り、承知の上で、周瑜はこの時間に一人でやってきたのだ。
 マスターのマダム・スゥ、漢字では『嵩夫人』と充ててある。店名と違うのは、二代目だからのようだった。ホームページのトップ画像には、初代のマスター、マダム・トゥの大きな写真が背景になったままだった。写真のマダム・トゥこと騰夫人は、外見年齢八十歳以上、百五十歳以下といったところだろうか。年齢不詳の、厚化粧の妙に艶かしい老女だったが、白い喉元に本来の性別を示す喉仏がくっきりと浮かんでいた。
 ゲイバーとはつまりそういうところらしく、マダム・スゥもそんな物の怪の類だろうと周瑜は覚悟していたのである。予想外に、言葉遣いにちょっと癖があるだけの、ただの穏やかな初老の男の人で、周瑜は拍子抜けしてしまったほどである。
「あら、考えてること、顔に出てるわよ。悪いわねぇ、普通のおっさんでがっかりしちゃったでしょ」
「いえ、そんな」
「いいのよ、わたし実はそのケないし。このしゃべり方も、この店やるための役作りよ。マダム・トゥって、あなた知ってる?」
 手持ち無沙汰な手つきでグラスを乾拭きしながら、マダム・スゥは柔和な笑みを浮かべた。
「はい、ホームページで調べました」
「話が早くて助かるわ。酷いわよね、あの写真は。父親が変態だと苦労するのよ。ま、凄い人だったんだけどね。ここもずいぶん繁盛してたんだけど、いまや見ての通り。あの人が引退するや、業界そのものが廃れちゃったわ」
 マダム・スゥが、片眉を上げ、優しげな顔に似合わぬ皮肉な表情を作ってみせた。なんとなく、マスターの本質が見えた気がする。
「それは……なんとなくわかります」
 周瑜もつられて微笑んでしまった。
 孫堅、孫策、孫権。主君筋に当たる者たちだから、変態とはいうまい。だがアクの強い人間たちに囲まれていると、何かと実に苦労する。
「あら、可愛い笑顔だこと。むやみに見せるんじゃないわよ、おじさんとろけちゃうわ」
 女扱いに周瑜は一瞬むっとする。しかしすぐに、笑顔を繕った。
 開店は六時。周瑜の赤い腕時計は、五時四十分を示している。人が来ると面倒が増える。開店前には、事を起こすことだろう。
「マダム・スゥ。せっかく知り合えたのに、残念です」
 からんころんからんころん。噂をすれば影である。乱暴にドアが開けられて、大きな不協和音が響き渡った。
「いらっしゃい、まだ開店前よ。今日はせっかちなお客さんが多いわね」
 剣呑な空気を纏った男たちの、団体客だった。素早く横目で数えてみる。五人いる。いずれも紅巾で顔を隠し、まるでいかにも賊だと主張しているような格好である。
「徐州町内会長、陶謙の刺客だ。恨みはないが、強盗殺人しにきた」
 先頭の男が、ある意味礼儀正しく、自己紹介をして目的を述べた。
 声にこもる感情はまるで違う。だが周瑜の聞き慣れた、低い声だ。
 賊の正体を認識し、周瑜は膝に丸めたコートに手を入れる。実は陸遜にもらったお守りを隠している。コートに包んだまま重い質感を確かめると、マダム・スゥに銃口を向け、間髪入れずに引き金を引いた。
 コートが緩衝材になって、それほど音は響かない。だが予想以上の反動に、周瑜は椅子から転げ落ちた。一拍遅れて、マダム・スゥが倒れ落ちる音がした。
 拳銃を扱うのは初めてだ。だが人殺しは慣れている。音もなく迅速に、手際よく。対象には死んだことさえ気付かせないつもりで、不意をつくのが理想である。
 小娘の姿で油断させたこともあり、手応えとしては最上の部類に入る暗殺だった。
「撤退しましょう、孫堅伯父様」
 達成感も手伝って、周瑜は笑った。
 賊の頭――孫堅――は、片腕で背後の部下を制し、紅巾から覗く厳しい眼で周瑜を睨みつけた。周瑜に一つ頷くと、顎をしゃくる仕草で出るよう命じた。
 命令どおり、周瑜は硝煙の臭い漂うお守りを包んだ白いコートを胸に抱え、立ち上がって出口に向かった。
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