周瑜嬢

12、俺は孫策じゃない通りすがりだ(by甲)

 徐州町の町内会長、陶謙という人物は、暴力団追放の市民運動の急先鋒だった。
 暴力団追放ポスターのコンクールを開くなどの比較的可愛らしい運動から、自警団による町内巡回といったまっとうな運動、さらには関係者やその子弟を拉致監禁して恐喝するなど、どちらが『暴力』団かわからないような運動まで行い、市内のインモラルな組織と鋭く対立していた。
 陸家など四家を含む江南町のマフィアコミュニティーにとっても、陶謙は癌のような存在だろう。一方、徐州町を挟んで江南町の北に位置する河北町は、蒼天会という指定暴力団の勢力圏だった。会長の曹操という男が、三国市の市長であったりする。
 誰かが行動を起こすのは、概観しただけでも時間の問題だった。
 そして孫堅はその陶謙を潰すため、賊に扮してマダム・スゥこと、曹嵩を狙った。曹嵩は個人バーを経営する、半ば隠居状態の在野の士に過ぎず、政治的には何の影響力も持っていない。当然陶謙とも、何の関係もない人物だ。但し、指定暴力団蒼天会会長、曹操の実父だった。
 曹操の父親が、反暴力団を掲げる陶謙が町内会長をやっている町内で殺された。容疑は当然、陶謙にかかる。
 緊張関係にある暴力団と、対立する町内会。両者が潰しあってくれれば、江南町のマフィアコミュニティーにとって、まさに天佑だった。
 実際河北町方のヤクザが大挙して徐州町に蔓延って、町は不穏な様子らしい。
 陸遜からの小出しのリークを総合すると、事態はそのように、拍子抜けなほど孫堅の作戦通り――つまりは周瑜の読み通り――に進行しているようだった。


 紅東学園は、幼等部からエスカレーター式の、大きな学校だった。生徒数に応じて施設も巨大だ。まだ乾いている水田の只中に、広大な学園都市が広がっている。時計塔のある高等部校舎を天守閣として、ほとんど小さな城邑のような様相だった。
 三月の半ば、桜の花びらが綻び始め、いよいよ春の気配を肌に感じるそんな日に、周瑜は邑内に踏み入れる。編入試験、合格すれば、周瑜はこの学園の高等部第二学年の生徒になる。
 受験生は周瑜ともう一人、黒いガクランの男子生徒だけだった。ガクランの校章には、『徐』の字が彫られてあったので、校区の事情には疎い周瑜にも、なんとなく彼が徐州の人だと見当がついた。
 それにしても、どうしたことだろう。たった二人だけだったのに、思い返してみても、もう一人の顔がまるで浮かんでこない。監督の先生は、どんな人だったろうか。圧迫感があったので、身体の大きな人だったと思う。何か怒っていたのかもしれない。
 そんな印象の全ても、理屈で考えた後づけだった。周瑜はすっかり気落ちしていて、半ば自棄気味に油断していた。
 マダムトゥの店で、策を出し抜いてまで、周瑜は全てを見せたのだ。躊躇わず人を殺す技術も、戦略を読む先見も、裏の世界に関わる覚悟も、周瑜は孫堅に示してみせたつもりだった。
 孫堅の、その答がこれである。偽造の調査書。成績は全て五になっていた。良いのか悪いのかわからない。いつの間に隠し撮りされたのか、恥ずかしいほどの笑顔の写真の貼られた受験票。名前には、『周瑜姫』とある。『ユキ』に勝手に漢字まで充てられ、もしやそれがこの世界の正式な名前になるのではと思うと、周瑜は心底ぞっとする。
 願書は勝手に提出済み、道具やお弁当は呉夫人に全て用意してもらって、周瑜は試験会場に行って、試験を受けるだけだった。
 孫堅は、周瑜を認めてはくれなかったのだ。周瑜を使ってくれるどころか、猜疑を抱いただけだった。自分の経営する学園に入学させ、周瑜を閉じ込めようとしている。策と同じ学年にして、策に周瑜を監視させようとしている。策は喜んで乗るだろう。周瑜は一人で行動を起こし、つまりは策を裏切った。きっと策は、周瑜に不信の念を持ってしまった。
 孫堅が周瑜を認めてくれなかった場合、全ては想定されたことだった。そして抗う余地のないことも、周瑜は事を起こす前から承知していた。
 命ぜられるまま、周瑜は孫堅の用意した檻に入ることにした。放心してしまって、周瑜は出された試験問題を配慮もなしに解答した。五教科、制限時間は六時間。気付くと、周瑜はそれを一時間半で終えてしまっていた。合格ラインは正答率七割と聞いている。だから本当は、八割程度だけを正しく答えるつもりだった。意味もなく、目立つことはしたくない。しかし結局周瑜は、調整も偽装も怠ってしまったから、おそらく解答は全問正解だ。
 もう一人の受験生は、いつの間にかいなくなっていた。周瑜より早くに終えたのだろうか。そうだとすれば、相当優秀か、諦めが早いかのどちらかだ。この時初めて、周瑜はもう一人の受験生に違和感を覚えたが、時既に遅く、彼はとっくに出て行ってしまっている。
 惰性のままに見直しも終えて、文房具を筆箱に戻そうとしたところ、身に覚えのない四つ折りの紙片が目に付いた。誰の仕業だろう。考えられるのは、もう一人の受験生。これではカンニングを疑われかねない。しかし罠にしては、手緩い。
 気もそぞろに周瑜は試験監督の先生に答案用紙を提出し、鞄を肩に引っ掛け、試験会場の教室から駆け出ていった。先生の、無礼を嗜める怒声を背中に聞く。カンニングを見出したわけではないようなので、周瑜は無視して階段を飛び降りた。

――徐州町のファミレス『論語碑苑』にて待つ。大事なお願い事があるの。地図もつけるね。マックの向かい。Byリョーコ。

 手書きの地図。『マック』と入った四角と対に、棒線一本の道を挟んで、平仮名で『ろんご』と入った四角がある。文章以上の情報はない。しなやかだが、女の子にしては力強い達筆は、リョーコ本人の筆跡のはずだ。
 乗るか反るか。それは心の中でさえ、愚問だった。リョーコに呼ばれて、行かないなんていう選択肢があるはずもない。
 家に連絡をしないのは規律違反だろう。呉婦人に怒られかねない。しかし言ったところでおそらく許してはもらえないから、今回ばかりは黙って出かける。
 待ち合わせ場所が、よりにもよって、事件を起こした徐州町のレストランだ。今、徐州に顔を出すのは危険な気もする。だが虎穴に入るのが江南男児の気概でもある。徐州町の様子を自分の目で見る良い機会だ。それにリョーコと一緒なら、恥ずかしい話、なんだか心強くて安心できた。
 おそらく最後の反抗の機会になる。少なくとも当分、周瑜に自由はないだろう。
 周瑜は自然、不敵な笑みを浮かべ、北の徐州町に足を向けた。場所がはっきりしないが、行けばなんとでもなるだろう。


 徐州は一見平穏だった。人通りが少ないのだ。この穏やかさは、戒厳令下の静けさである。
 そんな様子だったから、尾行者の気配も一際わかる。複数いる。とりあえず、あからさまなのが二つ。素人も素人、片方は馬鹿で、片方はふざけている。仮に馬鹿を『甲』、ふざけてるのを『乙』とする。正直正体も知れているので、実は記号を使う必要もない。
 江南町からちょろちょろと、きらきら目立つ金髪にメイド服を着込んだ、尾行者『乙』がうろついている。似合わない黒縁眼鏡をかけているが、果たしてそれが変装のつもりなのだろうか。格好が格好で、関係者と思われたくないので、いくら目障りでも周瑜はずっと無視している。
 もう一人、これも江南町からの連れになるが、尾行者『甲』。こちらは、春麗らかな日に丈の長い西洋外套を深く着込み、手には皮手袋をはめている。極めつけは首から上、目出し帽の上から、サングラスとマスクを重ねていた。逮捕してくださいと言わんばかり、完全な犯罪者スタイルだ。黒いレンズを通してさえ、周瑜を凝視する剣呑な視線を痛いほどに感じてしまう。こうもあからさまだと、むしろ撒くのが馬鹿らしく思えてきてしまう。
 さて、江南町の北で境界を接する徐州町にはなんとか辿り着いたものの、指定された喫茶店の場所はまるでわからない。人通りもなく、訊ねる人も二人しか見当たらない。『甲』と『乙』。甲の方がまだましだろうか。ふざけた者よりは、馬鹿の方が好ましい。
 周瑜が振り返ると、『甲』は素早く電信柱の裏に滑り込んで身を隠した。周瑜は髪を掻き揚げながら、頭痛のするこめかみをしばし抑え、電信柱に近づいていく。
「おい」
 電信柱の陰で、『甲』は黙り込んで返事をしない。風のないアスファルトに、静止した大きな人の影が伸びている。
「策」
「違う、俺は孫策じゃない。通りすがりだ」
 名を呼んでみると、『甲』は否定した。孫策は素直な男だ、たまに嘘はつくが、見つかって誤魔化すことはしない。孫策が嘘を貫く時は、それなりの意味がある。
「じゃあ、いいよ。邪魔はするなよ。論語碑苑っていうファミリーレストラン、知らないか?」
「何しに行くんだ」
「見ず知らずの人間に、教えてやる謂れはないな」
 嫌味を込めて笑みを作ると、『甲』は目出し帽の頭を背けた。
「お前と一緒に編入試験を受けたヤツ、あいつ、徐州の人間だ。それに関係することならやめておいたほうがいい。あえてユキに近づくのは、罠の可能性が高い」
 確かに、周瑜の握る紙片は、試験を受けた隣の学生に渡されたものだろう。リョーコの住まいは荊州町だ。徐州町とは逆方向、彼が徐州町の人間なら、彼に関することだろう。
 しかし周瑜は、それを罠とは思わない。この世界で唯一、心から憧れる存在。リョーコを疑いたいとは思わなかった。仮に騙されたとしても後悔はないだろう。それだけでも、十分に信じる理由になると思う。
「友達と会うんだ、しばらく会えなくなると思うから。権を連れて帰ってくれ、あれは恥ずかしい」
 いつの間に回りこんだのか、『乙』が周瑜の視界に入っていた。目が合うとくるりと回って、エプロンスカートにふわりと空気を孕ませると、わざとらしく可愛らしいポーズをとった。
「いや、あれは他人だ。あんな変態、俺の弟じゃねえ」
 振り返りたくもないというような、心底嫌そうな声だった。あんなのが、自分の主になるのだろうか。思わず『甲』に共感してしまい、周瑜は追及を諦めた。
「場所は分かる。俺が先に行くから、ついて来い。関係ない客の振りをして、俺も店に入る」
 言い置いてさっさと歩いていく『甲』の背中に、周瑜は肩を竦めて小さく息を吐く。『乙』がちょろちょろと『甲』を追いかけた。
 目出し帽の怪しい男と、黒縁メガネの金髪メイド。あの組み合わせで入ってきたら、ファミリーレストランの人間はなんと思うだろうか。
 甲、乙の記号の次は、丙、丁、戊、己と続く。気配が感じられるのは、そのくらいだろうか。十分に間を空け距離をとり、周瑜も二人の後をついていくことにした。
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