ポドールイの人形師

2-19、敵意

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「司教様、ようこそ。お会いできて、光栄です」
 楯を掲げる、黒い僧衣の聖職者を、真っ先に迎えたのはリリアンだった。ゆったりと僧衣を纏わせた、司教の細身のシルエットに、胸の奥が熱くなる。心にもない言葉が、いとも滑らかに、自然に口から零れでた。
 手を差し出して握手を求める。だが司教リュックはリリアンの手を飾る大きな宝石を一瞥し、さらに視線を下ろし腰に吊るされた剣鞘の紋章に目をやると、ただ薄く笑んでリリアンの傍らを行き過ぎた。
 そのほんの一瞥の流し目に、リリアンは身動きを封じられるほどの威圧感を感じてしまった。明らかな軽蔑を含んだ司教の表情に、何の反応もできなかった自分がいる。リリアンはクリソベルの指輪を外し、麻の布切れに包みなおす。まだわななく指先を、リリアンはギュッと握り締める。
「カロル、寒いのかい?」
 リリアンも、そして巨大な黒騎士やおかしな老人も、まるで目に入らないかのように無視して通りすぎたラウランの司教は、まっすぐに兵士服の少女のもとに向かっていった。その姿の通りの、聖職者然とした優しげな口調だ。少し落とされた語尾には、否定を求める軽い意志がこもっている。求められるがままに、名を呼ばれた兵士服の少女は、小さく横に頭を振った。
「では脱ぎなさい。これはあなたが着るような物ではない」
 司教は楯を地面に立てて片手で支えた。空いた右手の指二本で上着の襟をつまみあげると、それを少女の肩から剥ぎ取った。ほの暗さの中に、少女の細い肩の線が露になる。奪われた上着は司教の指から離されて、二人の間、雪の地面にふわりと落ちた。足元より、ヴィルトールの黒鷲の紋章が、哀れに暗い天を仰ぐ。
「これは卑怯者の印です。下賎なカラスの印など、私のカロルには似合わない」
 静かな語調は崩れることなく、澄んだ声音が夜闇に染みる。
 誇り高き黒鷲を、リュックは踏み付け、飽き足らず踵で雪に埋めてしまった。あまりにあからさまな司教の行為に、リリアンはあさっての方を向いたロバに隠れ、ただ呆然とするだけだった。
 少女を連れて、皇帝の待つ丘を登る司教の背中を、リリアンは追いかけることすら忘れていた。

「すまない」
 黒騎士の声が耳に入った。ロアンヌの言葉だったが、理解できなかった。短い言葉をしばし頭の中で転がしてみるが、やはり意味がわからない。
「ロセンサル。おまえは今、謝ったのか?」
 見上げると、黒騎士は雪に濡れた襤褸切れを自分に向かって差し出していた。少女の肩に掛けたときと同じく、恭しく黒鷲の紋様の入った上着を捧げ持つ。
「これは、あんたの誇りだろう。みすみすそれを汚させた」
 似合わないロセンサルの殊勝な態度に、リリアンは苦笑してしまう。立ちあがり、黒騎士の手からヴィルトールの上着を奪い取る。そのまま地面に叩き付け、リリアンは自ら、黒鷲の紋章を散々に踏み付けた。
「ロセンサル、お前らジュダ人にとって誇りがどれほどのものかは知らんが、ヴィルトールは違う。そういったなんの役にも立たないものを踏み付けにすることで、生き残って、ヴィルトールはここまで這い上がってきた」
 散々に雪に濡れ踏みつけられた上着を、リリアンは拾い上げ、今度はいとおしげに抱きしめる。冷たさが溶け、毛織物の服を通して、冷気が肌まで染み込んだ。この汚れたカラスが、いとおしい。
「……殺してやるさ、今まで通りに」
 ロセンサルが、いつものように文句を言ってくれることを期待したが、いつまで待ってもなんの声も聞かれなかった。ただ黙って顔を俯けている。こんな時に限って、まるで気の利かないジュダ人だ。
 悔しいわけではない。怒りを感じるわけでもない。ただ司教の行為にリリアンは、殺意だけが純化されてゆく自分を感じた。


 置いてきぼりにされて、すでに半刻ほども経つだろうか。夜明けまではもうそう間もないだろう。リリアンが勝手なのはいつものことだが、ロセンサルまでが傍にいないのは少し心許ない。ミカエルを護る、皇帝軍のわずかに残っている傭兵たちは皆、見知らぬ雇われ兵に過ぎない。
 雪野に独りうずくまる。身を包むのは寝間着用の、薄いブラウスのみだ。冷たい風に吹かれつつ、フリル付きの袖で鼻をかんだ。心細く情けなく、果たしてこれが皇帝であろうか。思わずミカエルは、自分の身分を自問する。
「陛下、風邪をひきます」
 突然黒い布をかぶせられ、白い視界が幕の隙間のわずかに狭まる。暗幕の中、換気の悪いこもった香りが漂った。人形館の匂いだ。
「ジューヌか」
 これが彼の纏っている黒マントだとすると、ジューヌは今どういった格好をしているのだろうか。少し気にならないではなかったが、暖かなマントの中から頭を出す気にはなれなかった。
「陛下。司教リュック・ド・ラウラン様を、どうなさるおつもりですか」
 ジューヌの敬語が鼻につくように思えるのは、ミカエルに引け目があるからだろうか。平坦な口調の質問に、ミカエルは、フンと一つ、鼻で笑った。
「許してやれとでも言いたいのか? 残念だが、おまえの言うことなど……」
「私は殺しました。侯爵様を殺しました。陛下はどうなさるのですか?」
 思わぬ告白にミカエルは言葉を失う。ジューヌの口調は穏やかで、怖気をふるうほどに表情の読めない声だった。
 兄に負けたくないと思っていた。ヴィルトールに従って非情になることが、ラウランに愛された兄を超える道のはずだった。それなのに兄はいまだミカエルなど相手にすることはなく、ミカエルを認めるべきラウラン侯爵を殺したと言う。
まだミカエルたちが皇子だった頃、宮廷付きの司教だったリュック・ド・ラウランには、良くしてもらった覚えがある。その司教と今、自分は敵として、相対している。司教を殺すことが出来たなら、ミカエルは兄に追いつくことができるのだろうか。それともそれは、ミカエルが永遠に兄の足跡を踏み続ける証明を意味するのだろうか。
「ほら、司教様がやってきました。おや、女の子を連れているようです」
 ジューヌの穏やかな口調からは、やはりなんら感情を読み取ることはできなかった。
 マントを閉じて、闇に隠れる。ミカエルは、自分の取るべき道を見失っていた。
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