ポドールイの人形師

2-2、悪夢

前へ | 次へ | 目次へ
 草原には、穏やかな風が吹いている。慎ましい高地の花が楽しげに咲き誇り、鳥たちは賛美歌を奏でている。
 ここはどこだろう。よく兄と一緒に遊びに行った。シャイヨー。たしか、ラウラン侯爵の治める避暑地であった。
 草むらの中、幼い女の子と、暗い肌の色をした長身の少年が、人形をもってままごとをしている。少年の顔は、美しく優しげだが、ミカエルはそれを欺瞞だと思った。
「あなた、おひさしぶりね。宮殿から帰っていらしたのは何ヶ月ぶりかしら? 皇子様たちがきたときばかり愛想がよくて、たまには私や娘のことも考えてくれたっていいでしょうに」
「あはは、それもしかして、シシルのお母さんの口まねかい?」
「水を差しちゃだめです。はい、アンドレさまの番。お父さん役」
 シシルと呼ばれた幼い女の子がそう言うと、アンドレと呼ばれた少年は、優雅に両手を動かした。指からつながった糸に繰られ、お父さん人形が動きだす。
「ナシャ、許しておくれ。私は君も愛してる」
 糸で操られた男の人形が右手を動かし、シシルが持つ女の人形の頬に触れる。
「このお人形。お母さん人形の名前はナシャなの?」
「ごめん。勝手に名前付けちゃって」
「ううん、不思議な響きだけど、きれいな名前ね。異国の言葉かしら」
 なぜ少女は、アンドレにはあんなにきれいに笑うのだろう。
 少女の笑顔が我慢ならず、ミカエルは人形のままごと遊びに土足で踏み込み、人形たちを蹴り払う。
「アンドレと遊んでなにが楽しい! 俺の方がアンドレよりも、剣だって強いし、勉強だってできるし、馬だって乗れる。皇帝になるのだってこの俺だ。俺のなにが気に入らない!」
 怒鳴りつけられた幼い少女は、怯えた様子は微塵もなく、冴え冴えとした翠の双眸でミカエルを見上げた。
「ミカエルさまより、アンドレさまのほうが……」

 ミカエルは跳ね起きた。
 手が汗ばむ。呼吸が荒い。ひさしぶりに嫌な夢を見た。
「ちっ」
 舌打ちをしてみても、気分は晴れない。
「陛下」
「なんだ、ロセンサル。朝っぱらから無礼だぞ」
 行き場のない気分の悪さを、黒騎士にぶつけてみる。
 それにしても朝から漆黒の鎧とマントに身を包んだこの騎士は、まさか一晩、この格好で寝たのだろうか。
「すみません。しかし、お客がきております」
「誰だ」
 客。街に駐屯地している本陣からの連絡なら、客とは言うまい。本気で心当たりがなかったので、ミカエルは訝しげに聞きかえした。
「昨晩の。下仕えの娘が扉の前でお待ちにございます」
 昨日の、人形のような少女。悪夢の元凶。なるほど、まさに珍客である。呼び出しはしたが、まさか本当にくるとは思わなかった。
 通せ。そういう命ずる前に、扉が開いた。


 ジュダ人。救世主、メシアを殺した民。聖書にはそう記されている。高利貸しを営み、他人の生き血を啜る、寄生虫のような民族。巷ではそう聞いている。 
 黒髪黒瞳、皇帝に仕える黒騎士は、典型的なジュダの顔をしていた。
「汚らわしい。触らないで」
 部屋に踏み入ったシシルを迎えようと肩に伸ばされた騎士の腕を、忌々しげに振り払う。大柄なジュダの騎士は卑屈に身を縮め、慌ててシシルから遠ざかった。
「ふん」
 騎士の後ろ、黒い鎧の死角から、鼻で笑う声が聞こえた。
「よく来たな。まさかあんな紙切れで、本当にくるとは思わなかった」
 寝台の上に横たわったままの皇帝は、上半身だけを持ち上げ、片手で体を支えている。フリルのブラウスの寝巻き姿の皇帝は、昨晩の鎧姿とはまったく異なる印象を与えた。少女のようにも見える華奢な体は、皇帝としての父の仇としてのミカエルではなく、数年前に見た少年皇子としての彼を思わせる。
 昨晩、去り際に黒騎士に一片の紙切れを握らされた。皇帝の宿室に訪ねてくるよう、意外にも丁重な言葉で綴られてあった。よっぽど破り捨てて無視してしまおうかとも思ったが、それで気を悪くされるのも迷惑だ。それに、逃げたと見られるのは癪だった。
「ジュダの従者とは、陛下らしいですね」
 皮肉が口をついてしまった後、いまさらながら後悔する。無防備なミカエルの姿に、つい暴言を吐いてしまったが、どんな姿をしていても彼は皇帝なのだ。それも冷酷無比な、ラウラン家を滅ぼし、ジューヌ伯爵をもとりつぶすかもしれない、恐ろしい皇帝なのだ。
「どうした、それだけか」
 シシルの皮肉に、ミカエルは薄く酷薄な笑みを造った。
「も、もうしわけありません」
「なにを謝る」
「陛下を、ジュダなどと一緒にしたことを」
 シシルはこの皇帝をジュダよりも軽蔑している。その皇帝に頭を下げさせられることは、重ねて屈辱的だった。
「それを謝るのは見当違いだ。ロセンサルは俺の影、身も心もこの俺に捧げている。共にあることが当然なのだ。だが、他に謝ることがあるだろう」
 そう言って、皇帝は黒騎士のほうへ目をやった。黒騎士は恐縮したように身を固くする。しかしその態度で皇帝の意図を解してしまったシシルは、容赦なく、むしろ傲慢さをもって、ジュダの騎士に向き直る。
「ロセンサルだ」
 言いよどんだシシルに、皇帝が声をかける。
「ローゼンタール様」
 ジュダ語読みの騎士の名を、あえてロアンヌの読み方に変換して、シシルは男を呼び上げた。聖書を読むため、ジュダ語も教えられた。聖書の原典は、悪魔の民の言葉で書かれている。世界の大いなる矛盾である。
「先ほどの無礼、お許しください」
 皇帝に頭を下げるより、ジュダに平伏したほうがどれだけましであろう。そう考えるとさしたる抵抗も感じず、シシルはジュダの騎士に尊大に謝罪をしてみせた。

「娘、それで謝罪のつもりか。おまえは謝罪を口にしても、目がいつも逆のことを語っているな。ロセンサルになんの恨みがある?」
「陛下、いいんです。私は大丈夫ですから」
 黒騎士が慌ててミカエルを制止する。
「いいのか、おまえは民族を否定されたのだぞ。俺がおまえをローゼンタールと呼んだときは、火がついたみたいに怒っていたくせに」
「その節はすみません。しかし、子供の言うことですし」
 ジュダ人は人のいい困った笑顔を浮かべている。黒い鎧に身を包んだ男ははるかに見上げる巨人のようだが、黒い目を細めるジュダ人の笑顔は妙に幼い。
「当時は俺も子供だったのだがな。まあ、ロセンサルがいいというのなら、別にかまわんのだが」
 どちらが当事者かわからない。苦笑する黒騎士の前で、ミカエルのほうが欲求不満で不機嫌な顔になっている。シシルにしても、ジュダ人に子ども扱いされたことは、はなはだ面白くない。
「さて、娘。それで、お前を呼び出したのはだな……」
 気を取り直すように表情を直すと、寝台の上に足を放り投げた体勢のまま、ミカエルがひらひらとシシルに手招きをした。威押されることのないよう、あえて胸を張って、シシルはゆっくりと、ミカエルのもとへ近づいた……と、突然手首をつかまれ、引っ張り込まれる。
気がついた時、シシルは寝台の上に組みふされていた。

 何を油断していたのだろう。下仕えの娘が一人、男の部屋に呼び出されて、こうなることはゆうに予想できたはずだった。肩を押さえつけられ、身動きが取れない。よもや身動きが取れたとしても、逆らうわけにはいかないだろう。ジューヌに迷惑は掛けないと決めたのだから。
 何を奪われたとしても、心までは屈するまい。
 ミカエルの長い金髪が寝台の白いシーツに、シシルの顔にも流れ落ち、その様がひどく淫らだった。細い金色の筋の合間に見える、自信にあふれたミカエルの顔を、せいぜい憎々しげに睨み付けてやった。熱い手が、シシルの首もとに伸ばされるのを感じた。
前へ | 次へ | 目次へ
Copyright (c) 2006 Makoku All rights reserved.