ポドールイの人形師

2-21、夜明け

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 手が痛い。その身が崩れ落ちてなお、司教は握る手を離さない。クリソベルの毒は回ったはずだ。司教はすでに絶命している。
 足に力が入らず、リリアンもへたりと雪野に腰をついてしまう。
「陛下、敵将が落ちました。ラウランの連中を皆殺しにしましょう」
 叫ぶことすらできず、リリアンが必死に絞り出すことができたのは、まるで覇気のない震え声だった。ミカエルは黒マントから頭を出し、きれいな顔を曝していた。憂鬱な表情はなぜかひどく落ち着いていて、いつものかわいいミカエルとは別の人間のようだ。
「リリアン」
 死体に握られている右手が熱い。雪に沈んだ尻から次第に冷たさが染みてくる。
「落ち着け、お前らしくもない。俺にはもはや兵はいない。このままでは殺されるのは俺たちだ。どう逃げるかを、考えねばならない」
 陛下はひどく冷静で、その言は至極、的を射ていた。苛立たしいことばかりだった。
「ミカエルのくせに生意気だよ」
意味のない暴言を口にして、一呼吸おいてその愚かさに気が付いた。しかしミカエルにもロセンサルにも聞き流され、哀れまれているようで余計に惨めになってしまった。

 呆然と雪野に座り込んだままのリリアンのもとに、小さな手が伸べられた。場に似つかわしくない、女の手だった。
「父様を許してあげてください。いたずらに人を傷つける人ではないのです。公子様を怒らせるため、わざと無礼を働いたのだと思います」
 少女の声は毅然としていた。リリアンは声の方へは目をくれず、死体の指をほどいてゆく。固く握られた指を、一本一本剥がしてゆく。細く長い指先は、すでに熱を失い冷たかった。
「陛下がお赦しを下されば、ラウランは皆様に危害を加えることはないと思います。父様の死を無駄にしたくはありませんし……今思えば、父様が死ぬのは、なぜかわかっていたような気がします」
 絡まった指を、ほどき終えたリリアンは、そこでようやく少女を見上げる。確かカロルといっただろうか。兵士服の奇妙な少女は、なぜか自分に手を差し伸べたまま、動かない。
「なんだ」
「私の手も、握って下さい」
 女の小さな手を見て、リリアンは目を伏せ自分のクリソベルの指輪を見た。宝石は靄がかった暗い色に移ろっている。カロルは死を望んでいるようだった。少女の大きな鳶色の瞳は、蒼く冷たく司教の目とはまるで違うものだったが、その眼差に同じような不快さを感じる。
「たくさんだ。死にたがる人間を殺すほど、気分の悪いことはない。死にたきゃ勝手に死ねばいい」
 クリソベルの環を外し、雪の地面に叩き付ける。カロルは慌てて屈みこんだ。雪に埋まったクリソベルは白さを映し、その輝きを取り戻す。カロルの小さな両の手が、いとおしげに透明な宝石を包み込んだ。
 針が刺さったのか。カロルは少し顔をしかめる。だがただそれだけで、毒に顔を歪める様子はない。泣きそうな顔で、膝をついたカロルはリリアンを見つめた。
「そんな顔で僕を見るなよ。恨むんなら、自分の父親を恨むことだ。馬鹿みたいに握りやがって、毒を全部吸い取っちまった」
 リリアンは立ちあがり、雪を払って、カロルを見下ろす。
 カロルは足元にうずくまったままだった。その傍らに、黒い僧衣の司教の屍が転がっていた。
 ふと思い立ち、死体の頭に足を乗せた。長靴の底で、うつぶせの顔を地面に押しこむ。
「なにを、するの……」
「仕返しさ。君の父親と、同じことをしているだけだろ」
 カロルの大きな瞳は、踏みつけられる司教の死体を見つめていた。怒りすらも忘れたような、呆然とした眼差だ。カロルの様子が楽しくて、リリアンは司教の頭部に、今度は両足で乗ってみる。もう底までついてしまったのか、頭は雪にあまり沈まず、やや安定が悪かった。
「あは、あははは」
見上げるカロルに向けて必死に絞り出した『ヴィルトールの笑み』は、きっと表情は引きつったままであっただろうし、声は恥ずかしいほどに乾いていた。


 司教の死んだ丘の上は静かだった。
黒騎士は、剣を拭いている。暗闇の中で見えないが、剣には司教の血がついているはずだ。老人とロバは、ただ暗い天を見上げている。数人の村人たちが老人の周りに集まっていた。わずかに残った傭兵たちは、あいかわらず何をするでもない。ただ司教の死に戦の終わりを感じたのか、張り詰めた空気が消えていた。仮面の道化に至っては、いつの間にかその姿を消している。ふもとの村より逃れた人々の中には、遠くより聖印を切り、手を組む者もちらほらいたが、兵士服の奇妙な姿のカロルのほかには、この人形館の丘の上に、司教の死を本当に悼む者はいないようだった。
 皇帝ミカエルが、いつの間にかリリアンのすぐ側へと寄っていた。ミカエルは纏う黒マントの隙間から指を出し、リリアンの袖を軽く引っ張る。どけ、ということらしい。もう少し鬱憤を晴らしたかったが、その意のままに、リリアンは死体のもとから退いた。
「娘。ラウランの者か。ふもとの陣に帰って伝えて欲しい。司教に免じて、ラウランを赦すと」
 カロルは素手で雪をかき、司教の頭を掘り出そうとしていた。皇帝の恩赦の言葉もまるで耳に入った様子はなく、一心に作業を続けている。カロルの小さな手が冷たそうで、また雪から出てくるであろう司教の死に顔など見たくはなくて、リリアンは踵を返し、その場を去ろうとした。
「公子様。今すぐ私も殺して下さい。さもなくば、私はあなたたちに復讐します!」
 戻る途中、叫ぶ声を背に聞いた。カロルの叫び、それは正しい感情だろう。カロルが生きると言ったことに、なぜかひどく安堵した。

 戦に敗れた。自らにしても、結局ラウランの司教に躍らされていたのかもしれない。司教は死にたがっていた。そして司教が亡くなり、皇帝とリリアンは、話す相手も戦う敵も失った。
 赦さざるを得なかった。それは司教の望むところであったのだろう。
 だがそれでも、司教は消えた。そして自らは生きている。
 尖塔の間より、ようやく朝陽がのぞき、人形館の丘を覆う、夜のほの闇をわずかに薄めた。この黎明は、誰のものになるのだろう。自分のものかはわからない。だが少なくとも、司教リュックのものではありえない。
「陛下。勝ったのは、僕ですよね」
 光に向けて、リリアンが呟いた言葉に、ミカエルは返事をくれなかった。
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