ポドールイの人形師

2-5、留守番

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「なんだ、おまえ。いつからそこにいやがった」
 開け放しの戸口で立ち尽くしていたリリアンは、赤ん坊を抱いた少年に見つかった。妙に言葉遣いが乱暴だが、大きな瞳のその顔は、あまりに邪気がなく、リリアンは思わず笑みを零してしまう。
「兵隊は嫌いだ、乱暴だ」
 帯剣に軍服のリリアンを見てか、少年は開口一番にそう言った。だがそう言いつつも、なんの警戒もなしに少年はリリアンに近づいてくる。人間を知らない、野生の子ヤギを連想させた。人里の動物は人を見るなり逃げ出すが、人間を知らない山奥の野生動物ともなると、乱暴な人間の振る舞いに憤りつつも、好奇と無知に衝かれて、警戒もなしに人の側へと近寄ってくる。
「でもなんか、おまえ恐くねぇな。顔が、弱そうだ」
 少年は、そのあどけない顔の造作がつぶさに見える距離まで近寄って、一言リリアンにそう言った。にぱっと笑う少年の顔には、あいかわらず邪気が欠片もない。リリアンも思わず笑い返してしまう。胸の紋章が見えていないのだろうか。この少年は、貴族という種族の恐ろしさをまるで知らない。言葉からして、兵卒と貴族の区別もついていないようだった。
「おまえもさ、司祭様は嘘つきだと思うだろ」
 持て余すように赤ん坊を細腕で抱えながら、前振りなく、少年はリリアンに話を振ってくる。どんな暴言も、この子に言わせれば許せてしまう。そんな邪気のなさが、この平民の少年の魅力かもしれない。
「ああ、そうかもしれないね。聖職者という種族は、まことしやかに神がいると吹聴する。あるいはそれは、嘘かもしれない」
「へ?」
 予想していなかったリリアンの答えに、少年は素っ頓狂な声をあげた。見ていて飽きない。かわいい子だ。
「いや、いいんだ。ただ、人を簡単に信じてはいけない。ときには人を出し抜かねばならないときもある。僕はそう、おやじに育てられた」
「ふーん……?」
 まったく要領を得ない様子で少年は首を傾げる。きゃっきゃっ、と声をあげて、少年の腕の中で赤ちゃんが自己主張をする。一目でわかる。リリアンに向けて両手を伸ばす、この小さな赤ん坊は、この少年の妹だろう。かわいそうに、白目が充血して真っ赤だ。だが澄んだ大きな紫紺の瞳は、お兄ちゃんにそっくりだ。
 リリアンは懐から小さな布包みを取り出した。慎重に布を広げると、中には指輪が一つ、収まっていた。匠された大きな宝石が、教会の静かな薄闇で、兄妹の瞳よりは若干淡い紫色を湛えている。人差し指に指輪をはめ、リリアンは右手を差し出した。
「握手をしよう」
 脈絡のない行為は、不自然かもしれない。だがそれでも、リリアンの強引な笑顔に流されて、少年は慌てて赤ん坊を左腕一本に持ち替えた。促されるまま、右手を差し出す。 リリアンは、差し出された小さな手を軽く握ると、すぐに腕を引っ込めた。
 きょとんとした少年の顔。それを即座に、苦悶の表情がとってかわった。

 クリスチャンは軽く手を握られて、将校の指輪の当たった辺りに、チクリと小さな痛みを感じた。自分から握手を求めてきたにも関わらず、逃げるように青年は手を引っ込める。真意を読み取れぬまま、青年の人好きのする笑顔を、ぽかんと見上げた。兵隊は嫌いだが、この将校はそれほど嫌いじゃない。平和そうな笑顔のこの青年に、軍服や帯剣はひどく不似合いだった。
「僕の名前は、リリアン・ド・ヴィルトール。『ド』は貴族の称号だ。感謝しなよ、一般庶民が貴族に暴言を吐くと、斬り殺されても文句は言えない」
 突如、クリスチャンは右手に熱いものを感じた。なにか真っ黒なものが血管をさかのぼって、体を浸食するような違和感を覚える。右腕を蝕まれるような熱さに、思わずクリスチャンは妹を、抱いていたシファを取り落としてしまった。
「ん、どうしたの? 割と効いたのかな、指輪の毒」
 滲む視界にかろうじて映る軍服の青年、リリアンの表情は、あいかわらず平和そうに微笑んでいる。あまりに台詞に則していないその笑顔に、クリスチャンはいまだ自分の状況を把握することすらできなかった。
「この石、知ってる?」
 黒いものが、血管を這いずり回る。いよいよ体中が熱く蝕まれ、膝を屈したクリスチャンの眼前に、リリアンの右手が突き出された。人差し指を、淡い紫の石が飾っていた。
「おやじにもらったんだ。クリソベル、この石の名前。石言葉は、裏切り。しゃれてるでしょ」
 そう言ってリリアンは人差し指から紫の石を抜き取った。目が霞んで、表情はもう見えないが、頭に響くリリアンの声がひどく楽しげで、クリスチャンは気が狂いそうな気分になってくる。胸が辛くて、そのままクリスチャンは床に這いつくばる。同じ視線の高さに、先ほど落としてしまったシファが見えた。状況を理解できないのか、シファは床に座り込み、指をくわえて、ぽーっとリリアンを見上げている。
「おや、お嬢ちゃんどうしたんだい? いきなり落っことすなんて、ひどいお兄ちゃんだよねー」
 しゃがみこみ、リリアンが今度はシファに話しかける。あやすようなやさしげな声音に、シファは意味も解さず喜んで、無邪気にリリアンに腕を伸ばした。
「や、やめろ」
 シファの手に応じるように、右の手のひらを差し出したリリアンに、クリスチャンはやっとでそれだけ絞り出す。リリアンの手には、先ほどのクリソベルの指輪が乗っている。
「きれいでしょ。お嬢ちゃんにも、貸してあげる」
「やめろっ!」
 必死に腕を伸ばそうとするが、クリスチャンの体はもう思うようには動かない。
 なんの警戒もなく、シファはリリアンの手から、紫の石の指輪を握り取った。シファの口から零れた、悲鳴にもならない、小さなうめき。
「あーあ、そんなに強く握りしめて」
 尾を引くように、リリアンの無責任な呟きが教会のホールに響き渡る。小さなシファは、その場で崩れた。

 燻る臭い。火事かもしれない。アルコールを薄める作業を中断して、司祭ジャン・カトリノーはホールへ向かった。近づくにつれ、不穏な気配を感じる。
 クリスチャンとシファしかいないはずの聖堂には、見知らぬ三つの人影が立っていた。
「公子、こんなところにいらしたんですか。火をかけましたから危険ですよ。早くお逃げになったほうがよい」
 細い口ひげを生やした、せむしの小男。あまりに軍服が似合っておらず、はた目には哀れさえ誘うが、胸には豪奢な紋章が施されていた。双頭の獅子。金の刺繍は、当主の証だ。あやふやな記憶を辿って、カトリノーはその紋章が、七選帝侯の一侯、タルモン家のものだと思い出した。必定、貧相な口ひげを生やしたせむしの小男は、タルモン侯爵その人ということになる。
「司祭殿」
 タルモン侯に話しかけられた若い将校が、侯には答えず、カトリノーに呼びかけてきた。人好きのするゆったりとした笑顔に、カトリノーはふと油断したが、つづいて胸の黒鷲の紋章が目に飛び込んできた。黒い鷲。今をときめく、宰相家、ヴィルトール侯爵の紋章だ。ふと見やると、タルモン侯の隣に佇む大柄な男も、胸に双頭の獅子が施されている。貧相な当主の面影はないが、タルモン家の公子なのかもしれない。
 選帝侯ゆかりの者たちが、自分のみすぼらしい教会に、なぜか三人集っている。いまさらになって、カトリノーは場違いな状況に怯んでしまう。
「司祭殿」
 最初の報告を無視された様子のタルモン侯が不快な表情を造る中、ヴィルトールの公子が再びカトリノーに呼びかけた。そのまま柔らかに笑って、公子は自分の足元に視線を送る。公子の足元に、悶える幼い兄妹を見ても、あまりに毒気のない公子の微笑みに、カトリノーは感情を封じられた。
「お兄ちゃんのほうは、処置をすればおそらく助かります。お嬢ちゃんのほうは、諦めたほうがいいかもしれません。ずいぶん強く握っちゃったみたいだから」
 笑顔を残し、ヴィルトールの公子は踵を返した。
「あと、早く逃げたほうが身のためですよ。この教会は、火をかけられてしまったそうですから」
 公子の言葉を合図にしたかのように、藁葺きの屋根が一気に炎上した。 高貴な身分の三人が去ったあと、燃え上がる聖堂には、カトリノーと幼い兄妹が残された。

 苦しそうに歯を食いしばるクリスチャンにはまだ意識があるらしく、瞳には強い怒りが宿っている。
「すぐ、すぐ助けてあげますからね」
……シファ、指輪、握手、毒。
 的を射ないクリスチャンの呻きから、カトリノーはなんとかこの子を苦しめているのが、毒だろうとの推測を立てた。目に見えて変色している、クリスチャンの掌の傷口をアルコールで洗う。とりまく火気に、アルコールを使ったのは失敗だったかと躊躇するが、慌てて僧服の黒い袖で、少年の掌をふき取った。ちらちらと屋根の藁の灰が降り注ぎ、煙が辺りに充満する。頑丈な自分の僧服は破っている時間がないと判断したカトリノーは、クリスチャン自身の服を切り裂き、その細い右腕を縛り上げる。これ以上、小さな体に毒が回るのは、命に関わる。露わにされた、あばらの浮かぶクリスチャンの薄い胸板が、火気のせいか、はたまた毒のせいか、赤く火照っていた。
 続いてカトリノーは、シファのほうを見やった。紫紺の瞳を大きく見開き、小刻みに喘いでいる。呼吸も、すでにままならないようだった。ホールの高い天井を支える主柱が、一面に火花を撒き散らしながら、背後で倒れた。大音響。瞬間的に、カトリノーはこの赤ん坊に、処置なし、と診断する。炎に包まれた極限の状態で、カトリノーにさらにシファを救うだけの裁量は残されていなかった。黒い僧服を脱ぎ、シファに覆いかぶせる。カトリノーがこの赤ん坊にしてやれたのは、それだけだった。
 あられもない黒ズボンと下着のみの姿でクリスチャンを担ぎ上げると、カトリノーは教会を脱出した。背後に熱さが迫り、藁葺きの屋根が焼け落ちる轟音が響いた。
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