ポドールイの人形師

2-8、風の精霊

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「と、……司教様?」
 背の高い娘が、いつのまにか自分の横に立っていた。十八年前のシャイヨーには珍しい雪の日に、教会を訪れた哀れな踊り子に押し付けられた娘だ。カロルはしだいしだいに、名前も聞けなかったあの美しい踊り子に似てくるようだ。
「いいよ、いつもどおり『父様』と呼んで。みなさん兄上ゆかりの方々だ。そんなに固くなることはない」
 この評定の席に乱入してきたのだ。なにか伝えたいことがあるのだろう。しかしいつも快活なカロルらしくなく、リュックの前で気まずそうに俯いたまま、カロルはなかなか話を切り出そうとしなかった。それもわからないではない。ラウランの一族の内でカロルは、肩身の狭い立場にある。
 カロルは、シャイヨー司教リュック・ド・ラウランの実子ということになっている。だが本来、神に仕える教皇庁派の聖職者にとって、子を為すための行為は重大な戒律違反となる。カロルが、聖職者であるリュックの実子だということは、本来あってはならないことなのだ。だからといってカロルにリュックの血を認めなければ、母親の素性がまったくわからない以上、カロルはラウランの系統から外れ、まったく身寄りのない娘になってしまう。そのため、リュックは恐ろしく強引な手段に出たのだ。
 自らは童貞だ、だがこの子は自分の血を引いていると。
 かつてメシアを生んだ聖母が処女だった、という聖典の話ばりの強引な論法で、リュックは教皇庁とラウラン家双方に、自らの貞心とカロルの身の上を認めさせたのだ。幸いなことに、清貧を通してきたリュックに教皇庁は好意的であった。またラウラン家も、兄ジネディに継ぐ、当主としての第二位の継承権をもっていたにも関わらず、それをあっさりと放棄して聖職の道に進んだリュックに、下手な野心を見出すこともなかったのだった。結果、誰にも害のないこのリュックのわがままは、教皇庁とラウラン家、双方ですんなり通ってしまった。さすがにメシアになぞらえた『神の子』とまではいかなかったが、カロルは『精霊の子』なる称号まで戴いてしまった。なんでも教会では、リュックは風の精霊と通じたことになっているらしい。
 だがカロルを見る眼は、依然厳しい。まさかリュックの言い分を本気で真に受ける者がいるはずもなく、カロルは聖職者であるリュックが淫通をもって為した子か、もしくはラウラン家とは微塵も関係のない娘。そのいずれかにすぎないのだった。

「カロル、シシル様がどこにおられるのか、そろそろ教えてくれないかい?」
 なにやら固まってしまっているカロルに、リュックから話し掛けてみる。
「そ、それはダメです! 匿ってくださっている方にご迷惑がかかるから、お館様からも絶対誰にも教えないよう、言われているんです。ただシシル様はきっと、ご無事なはずです」
 勢い込んで早口でまくし立てたカロルに、リュックは笑みを浮かべ、周りを見回す。シャイヨーの館が落とされたとき、侍女として本家に仕えていたカロルは、当主ジネディの最後の言葉を受け取り、そのジネディの一人娘、シシルとの繋がりを持つただ一本の縄紐なのだ。ラウランのご面々をそれぞれ笑顔で睨みつけ、血筋や出生を抜きにした、カロルの価値を思い知らせる。リュックに睨まれ、貴族たちはこころなしか縮こまり、堂内の視線はカロルに集まる。
「それで、カロル。なにか話すことがあってここに来たのだろう?」
 舞台が整い、リュックに促されて、カロルはようやく話す決心がついたようだ。皆の方へ向き直り、一言一言確認するよう、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「皇帝陛下が諸侯の兵を集めて、このポドールイへやってきているそうです。その……いかがいたしますか」
 顔を真っ赤に、しだいに語尾を沈めるカロルの様子は、微笑ましいものだった。カロルが話し始めて一瞬緩んだ一堂の緊張は、その内容の衝撃を理解するや、一気に張り詰める。
ある者は顔を青くして怯え、ある者は顔を赤くして怒りだした。
 
沈黙していた評定に、突如降って沸いた議題に、堂内は真っ二つに割れて紛糾する。
 青い顔の者たちが怯え唱える、逃亡論。赤い顔の者たちが怒りわめく主戦論。理性的に考えて、疲弊したラウランの逃亡軍が、皇帝の率いる大軍に対することなど無謀と言えた。だが感情的には、ほとんど理由もなくラウランの家を攻め滅ぼし、さらに追い討ちをかけんとする皇帝の非道さに、憤る主戦派の気持ちもわからないではない。
 結局、感情的な論議のみが交わされ、決定は指導者たるリュックに委ねられた。人任せな体質は、ジネディ・ド・ラウランという偉大すぎる当主を持ってしまった、ラウラン家の悪しき慣習だった。この事態を打開する、奇跡的な判断が下される。疑いもなくそう信じる、期待を込めた皆の視線が痛い。常にこの視線を一身に受け続け、その期待に応えてきた兄の偉大さを改めて認識する。
 ふと横のカロルを見上げると、まったく同じ、期待を込めた目でこちらを見ているので、さらに気が滅入ってしまった。
「コホン」
 一つ咳き、精一杯威厳を込めて辺りを見回す。皆の緊張した面持ちに、リュックは思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
「私は、陛下を座して待ちます」
 ラウラン家は何も悪くない。逃げるいわれも、戦ういわれもありはしない。結局リュックは、無抵抗で皇帝に捕らわれた兄と、同じ判断を下した。
「しかし、陛下をお待ちするのは、私一人で十分です。みなさんは、ラヴェンナの山を越えて、教皇庁へ庇護をお求めなさい。猊下には私が一筆、したためておきます」
 卿もおられますしね。そういって、宥めるように逃亡派の先鋒だった老人に、微笑みかける。彼――ダルジャントー卿――の兄は、ラヴェンナの先代の教皇だった。現猊下は先代とは折り合いが悪かったと聞くから、歓迎されることもないかもしれない。だが少なくとも、凋落した名家は、ラウラン家にしてもダルジャントー家にしても、それほどの教皇庁の毒になることもないはずだ。ポドールイの南に聳えるラヴェンナの山脈。楽な旅ではないが、そこを越えれば神樹を構える聖都ラヴェンナはすぐそこだ。皇帝に仕えるのと同じく、教皇猊下にも敬虔に勤めてきたラウラン家だ。落ちぶれたとはいえ、無下に扱われることもないだろう。
 沈黙が堂内を覆う。顔を赤くしていた者も、青くしていた者も、色を直し静かに考え込んでいた。
「我々は、なにも悪くない」
 誰かが言った。
「逃げるいわれなどない」
「しかし戦ういわれも、ありはしない」
 どこからか続いた。
「リュック司教、我々は戦いたくありません。しかし、逃げるのももうこりごりでございます。我々も、座して陛下の到着を待ちしましょう。司教殿に、どこまでもついてゆきます」
 逃亡派の筆頭だった、長老格のダルジャントー卿がそう締めた。異論は、どこからも出てこない。決意だったり、諦めだったり、瞳に宿る光はそれぞれだが、皆の総意ととって間違いはないようだ。皆の出した結論だ。否定することはできないが……
 彼らと、自分ごときに付き従ってくれた八百人余の兵たち。皆の命を預かる責任など持てはしない。なんとか皆をとどめてくれる声を探して、リュックは周りを見回した。卿の決心は固いようだ。弟のラザールに至っては、逃げるどころか、戦いたくてうずうずしている。
 ふと、一人椅子が用意され、リュックの後ろの上座を用意されていた年嵩の女性と目があった。淡く色褪せた長い金の髪は、行方不明のかわいい姫君を思い起こさせる。その時まで、存在すらも忘れていた義姉に、リュックは繕い微笑みかけてみる。美しいが、幽霊のように存在感のないこの兄嫁を、どうにもリュックは苦手にしていた。
「テレーズ様も、そのようでよろしいですか?」
 この兄嫁の一言で決定が覆ることに、一縷の望みをかけて、リュックは上座の女性に問いかける。しかし彼女は、感情のこもらぬ微笑を一つ浮かべ、目を伏せた。肯定とも、否定とも取れぬ、彼女独特の処世術。こうなると、取り付くしまもない。
 背を後ろに傾がせ、リュックは天井を仰いで嘆息した。どうにもこのまま、皆を巻き添えにお家を潰すことになりそうだ。
 突然肩を引っ張られ、あぐらをかいたまま後ろに倒れそうになるのを堪えるために、リュックは慌てて床のイグサに手をつく。きまずい自身の失態に、リュックは眉根を寄せて、横に立つ不届き者を睨みつけた。
「父様、さすがです。私も一生父様についてゆきます」
 いたずらっぽく、カロルが小声で耳打ちする。気勢を削がれ、文句の一つも言い出せなかった。
 この娘を逃したかったから、皆に逃げるよう言ったのに。兄ジネディと同じことをしたかっただけなのに。
 自分の信念を貫き、なおかつ鮮やかに一族と娘を逃した兄の手際のよさに、いまさらながらリュックは感嘆せざるを得なかった。
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