ポドールイの人形師

4−9、冷ややかな蒼

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 シシルの鼻先で、焚火の炎が突然踊りあがり、燃え盛った。炎が鼻先を掠め、思わず尻餅をつく。R侯爵をかざして陰に隠れる。ディディエが飛び立ち、炎の中に飛び込んだ。
「あら、シシルちゃん」
 やがて炎が静まり夜闇がその静寂を取り戻すと、そこにはカラスを肩に止まらせた、赤い魔女の姿があった。
 ポカンと口を開けているチビたちの反応は、間抜けだがまっとうだ。出たな、悪の魔女! そう叫んで、腰が引けながらもクリスチャンは剣を抜く。魔女が綺麗な顔を迷惑そうにしかめるところまで含め、いかにもクリスチャンらしくて、微笑ましい。端で子供たちと同じように口を開け、しかし、美しい……、などと漏らしているカトリノー司祭は、とりあえず間違っている。
 ドロティアは、気だるげに周りを見まわした。鼻で小さく息をつく。なぜか不満そうだ。出てくる場所を間違えた、とぼそっと独り言を零している。
「シシルちゃん、無事だったのね、よかったわ。ジュダの黒いのと……」
 そこで魔女は力の入らない様子で片腕を持ち上げ、クリスチャンを指差した。
「それの妹ちゃんがあなたのことを探してたけど。安心したわ」
 腕を上げた拍子に、カラスが魔女の腕から、シシルの頭に飛び移る。
「あのね、精一杯ごまかしたのよ。ただ顔は一緒なのに、それと違って妹ちゃんなかなか鋭くてね」
 視線をクリスチャンに固定したままだったが、魔女はシシルに向けてなにやら言い訳しているようだった。ドロティアなら魔法の力で、ジュダの黒騎士一人くらい容易に退けられるのではないだろうか。いつもに増して魔女のことが掴めないまま、シシルは応える言葉を捜してみる。
「大丈夫です。ジューヌさまはジュダ人ごときには負けません」
「そう、ありがと」
 視線をシシルから外したまま、ドロティアはそこで、なぜか乾いた笑いを漏らした。変な顔をして固まっているクリスチャンや、ぼーっと見とれているカトリノーを傍目に、魔女がつかつかとシシルの前に寄ってきた。思わず一歩、後ずさる。
「それ、また趣味の悪い人形を持ってるわね」
 屈み込んで、シシルの腕の内を覗き込む。興味があるようだったので、シシルがR侯爵をおずおずと両手で差し出すと、ドロティアは軽く人形に手をかざした。爆ぜろ。小さな呟きがドロティアの唇から零れる。壊される。経験上、シシルは思わず目を閉じた。だがR侯爵が青い光を発したのみで、爆発する様子はない。見上げると、魔女は口角を片方だけ痙攣させ、怖ろしい表情を造っていた。
「まったく。あれは何を考えているのかしら。とりあえず、その人形。しっかり持ってなさい」
 ドロティアの端正な顔が怒りに歪み、怖かったので、言われた通りにR侯爵を胸に抱きしめる。纏う銀の髪が空気を含んで舞い上がり、闇夜に煌く。焚き火の炎を映したにしては、光は冷たく、まるで自ら光っているようだった。真っ赤な袖をはためかせ、ドロティアが不思議な動きで両腕を振るう。袖から覗く指先の長い爪が仄かに光を放ち、振るった軌跡が緩い弧となり夜闇に残る。一瞬視界が真っ黒になり、遠くに耳鳴りを聞いた気がした。
 R侯爵から溢れ出る青い光がシシルを包む。光の胞衣の外側で、夜の闇と静寂が世界を覆うのが目に見えた。子供たちが、クリスチャンやカトリノーが、闇に呑まれその場で崩れ落ちる。ディディエがシシルの頭の上からボトリと落ちた。やがて人間たちから穏やかな寝息が、カラスからは大きな鼾が聞こえ始めて安心する。
「ごめんなさいね。ちょっと、シシルちゃんと二人きりになりたかったの」
 鮮やかな紅を刷いたような唇から、軽い口調の言葉が滴る。しかし自分を見下ろす魔女の視線が、いつもと違うようだった。常と変わらぬ人を馬鹿にした余裕のある表情の中に、半眼に薄められた黒瞳だけが、鬼気迫る一抹の真剣さを宿している。
 誰もいない。怯えてはいられない。シシルもキッと、魔女の瞳を見据え返した。
「ラフィセちゃんは、クリスチャンの妹じゃないですよ。ヴィルトールの子だと言っていました」
 シシルは、とりあえず魔女の誤解を解いておこうと思った。射るように鋭い、ドロティアの強い眼差が痛い。何か怒っているのだろうか。かわいいラフィセや、緊迫感をぶち壊してくれるクリスチャンの名前が、この空気をほどいてはくれないものかと期待する。
「……ああ。少なくとも同じ血が流れているわ。よく似た色をしているもの」
 ドロティアは一瞬、シシルの言ったことがわからなかったようだった。考え込むように、魔女の眼差がわずかに移ろい、その鋭さが一瞬和らぐ。緊張が緩むのを捉え、シシルはさらに言を接ぐことを試みる。だが魔女の応えの意味がわからず、シシルはなにも言葉が浮かばなかった。
「まあ、あれの妹ちゃんのことを話しにきたわけじゃないのよ」
 ドロティアはシシルに視線を戻すと、一つ溜め息をついてみせた。眼差は和らぎ、人形の放つ青い光に照らし上げられた端正な顔は、美しい無表情を湛えている。だが意識的に感情を抑えたような言いようのない迫力が備わり、シシルは見上げる魔女の顔に、余計に緊張してしまう。すっかり固まってしまったシシルに向けて、紅い唇がおもむろに言葉を紡ぎ始めた。
「ジューヌは、あれは王の器ではないわ。それに王になる資格も持っていないし。でもそんなことはどうでもいいのよ、あれがあれの意思で王になりたいと思っているなら、手伝ってあげないことはないし」
 ドロティアはそこで、シシルを見据える目を細めた。R侯爵の放つ青い光を映し、黒い瞳が冷たい色合いに閃いた。
「もっともあれは、そんな志を持てる人間ではないけど。例えばあれが、誰かの意思を汲んで王になりたいと言っているとしても、その誰かを大事に思うこともあれの意思だから、尊重したいの」
 ドロティアはシシルから視線を外す。わずかに仰いだ魔女の顔は、下から照らす青い光の支配を逃れ、その表情を闇に隠した。
「ところでシシルちゃん、今いくつだっけ?」
 思いついたような調子の質問だった。意図がわからない。光を逃れたドロティアの横顔を見上げてみる。銀糸に縁取られた細い輪郭は闇に沈み、ドロティアの黒い瞳からはもう表情を伺うことは適わない。魔女はまだ、怒っているのだろうか。
「十八、です」
「十八、ねぇ」
 ドロティアは少し驚いたように漏らし、少し屈んでシシルの顔を覗き込む。シシルの鼻先で、再び青に侵された瞳はただ驚嘆の色を映しており、やがて紅い唇の端が、わずかに綻んだ。魔女の態度にシシルは安心するよりも、思わず憤慨を覚えてしまう。
「見栄えはまだお人形さんだけど、もう大人よね。そろそろ、あれの気持ちにも、気付いてくれているかしら。シシルちゃんはジューヌのこと、どう思っているの?」
「ジューヌさまは、皇帝になるべき方です。民を慈しみ、民に慕われ、王たる器を備えています。そして先帝の長子である以上、皇帝になる資格が問われるはずもありません」
 お人形だなんて、なぜこんなところで言われなければならないのだろう。怒りに任せ、シシルは一つ前のドロティアの評に応えた。
 思いがけず、ドロティアの眼差が厳しくなる。問いに答えるべきであろうか。大人の自分と、ジューヌの気持ち。シシルは少し困ってしまって、曖昧な笑みを浮かべてみせる。魔女の眼差は揺るがない。包む闇を見上げ、シシルは必死に言葉を探ってみた。
「今は戦いのさなかです。皆、命を懸けて、ジューヌさまに玉座についてもらおうとしているのです。今あたしは個人的な感情を持つつもりはありません。きっとジューヌさまも、そう考えてらっしゃると思います」
 不満そうに、魔女はわずかに唇の先を尖らせた。歯痒そうに質問を継いでくる。
「もしも、全部終わったら。シシルちゃんはどうしたいの?」
 真剣な顔をして。なぜドロティアは、そんな質問をするのだろう。
「考えてないですけど、そうなれば。……皇帝陛下の、望まれるがままに」
 シシルの目に映る混沌とした夜闇と同様の、まとまらない思いが口についた。真の王が立つなら、臣たる民は王の所有だ。それは世の則というべきもので、シシルもまた、その例外ではない。ジューヌが皇帝になるならば、シシルがその意思を拒むべき理由はどこにもない。
「そんな言葉を、誰かが望んでいるとでも思っているの?」
 抑えられたドロティアの言葉が初めて、怒気を孕む。端正な魔女の顔は強張り、どうやら本気で憤慨していた。ドロティアには関係ない。なぜそんな顔をするのだろう。なにか言い訳がしたかったが、シシルは自分の言の、どこが間違っているのかわからなかった。
「ですってよ」
 突然、横の夜闇に向かって、ドロティアが言葉を投げ掛けた。真っ暗な視界に闇が動いて、シシルはびっくりしてしまった。気配は近づくにつれ、シシルを包む青い光を浴びて、次第輪郭が浮かび上がる。銀の髪の青年を、知らない人だと思ってしまった。異教徒のような暗い色の肌の顔に、一瞬ピンと来なかった。
「ドロティア様。私は自分の意思で、皇帝になりたいと思っています」
 人影は、低く澄んだ声を発した。いつものマントを着ていない。赤白のとぼけた仮面に慣れてしまって、その下にこの悲しげな蒼い瞳が隠れていることなんて、忘れていた。
「アンドレ、さま……」
 優しい人の、呼び慣れぬ名を口にする。明るい蒼の視線がまっすぐシシルの瞳を捉えた。 仮面に隠され、いつももどかしく思ってきた。それなのにいざその眼差を受けて、シシルは目を逸らしてしまう。
「アンドレさま、どうしてこんなところに。叔父さまたちが心配します」
 なぜ地面に向かって話しているのだろう。俯いた顔を上げられない。無闇に声が震えてしまう。
「司祭様にご挨拶申し上げようと。私は大丈夫です、ナシャに仮面とマントを被せてきました」
 ナシャに仮面とマントを……。ジューヌと一緒に、行軍を先導している者たちの顔を思い浮かべる。リュックと、ラザール。ときどきクリスチャンがいたずらにくるのだろうか。なるほど普通ならいざ知らず、相手がその面々ならそれでごまかせるかもしれない。変装したナシャと肩を並べるリュックたちを想像し、シシルは思わず自身の口元が綻ぶのを感じてしまう。
「シシルこそ。途中、兵士たちが大慌てしてましたよ。シシルのせいですね」
 そうだろう。兵士たちには迷惑をかけている。後でちゃんと、謝らなければなるまい。降ってくる声音が優しくて、シシルはひどく安堵する。緊張が解け、どうしようもなくうれしくなり、シシルはジューヌを探して顔を上げた。
「シシル」
 目が合って、身が竦んだ。
「例え皇帝になろうとも。私はあなたに、なにも望むつもりなどありません」
 目に映ったアンドレの瞳の蒼は、氷のように冷ややかだった。
 傷つけた。でも、卑怯だと思った。涙が、溢れた。
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