ポドールイの人形師

5−2、獄中の聖

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「罪人のはずなのに、悪い人がいませんね」
 ラグナロワ将軍の帷子の端を掴み、ラフィセは水底の地下牢を歩いていた。
「なぜそう思う」
「わかります」
 そう言うと人は必ず不思議そうに自分を見る。中にはあからさまに気味悪がる者もいる。しかし、わかるのだから仕方がない。目が見えない分、人の気配には敏感なのだ。
「ここに収監されているのは非宣誓聖職者たちだ。どんなに脅しても、陛下の定められた新教に改宗することをよしとせず、頑なに宣誓を拒否した者たちだ。信仰のために命を賭けられる、意思の強さを彼らは持っている」
 皇帝の定めた神を崇めぬ罪人たちの肩を持つ発言は、うがった見方をすれば反逆の臭いも感じられる。将軍の微妙な立場を考えればなおさらだ。少しいじめてやりたいとも思った矢先、不意に懐かしい感覚を感じる。歩調を変えることなく行き過ぎようとする将軍の袖を引っ張って、足を止めてもらう。
「悪い人もいますね」
 宮廷に渦巻く懐かしい感覚。なかでも小物だ。
「ここの人は誰ですか?」
 元ルアン大司教、ギィオ。かつて選定侯位を持っていた人物、との答が返った。


 反乱軍に潜入することができたギィオは、民たちを相手に弥撒を行っていた。シャイヨーの民というのは、ギィオの治めていたルアンの民とは若干纏う空気が違うような気がした。ルアンの民は従順だった。大法官だったギィオの法治政治の賜物だ。民は、支配者として、また神の代理人として、裁きの権を持ったギィオを畏れ、己が立場を理解していた。シャイヨーの民は静謐だ。ルアンの民と同様に、頭を垂れて、ギィオに従い、祈りを捧げる。だが空気が違った。ひどく圧力を感じるのだ。
貴族出の、司教の顔が思い浮かぶ。大司教であり選帝侯を兼ねるギィオを差し置いて、教皇と皇帝、両の寵を一身に受けた司教だった。位階が上のギィオに、リュックというその司教はただ一度の非を見せることもなかった。ただ粛々と祭事をこなし、貴族然とした細面は、いつ見ても凍りついたように無表情だった。蒼の瞳は高慢さすら映すことなく、冷ややかにギィオを見下した。今、祈りを捧げる、下賎であるべき農奴たち。彼らを前に、司教とよく似た威圧感を覚えるのだ。ラウランという家の血に染み込んだ尊大さが、その地の民までをも侵しているように感じられた。
 司教としての仕事を終えると、ギィオはひどく疲労していた。ルアンより気候の涼しい地にあって、いつになくギィオは汗ばんでいた。これを冷や汗という。心の中で呟くと、思わず意気消沈してしまう。
 もう日はとうに暮れている。自分の持つ仄かな燭しか明かりはない。シャイヨーや、途中合流した異邦の民たちの表情は闇に隠れ、ただ弥撒を行ったギィオに注がれる視線だけがはっきりと感じられる。ルアンの民は、このように視線を向けることはなかった。怯えるように目を逸らすのが、身分を弁えた民たちの本来あるべき態度だ。なるほど、辺境の乱を起こす農奴らだ。身の毛のよだつ思いだった。
 弥撒を行った大司教ギィオだったが、彼にはもう一つ仕事が残っていた。表情の取れぬ農奴らをゆっくりと見渡す。この者たちをうまく利用せねばならないのだ。ギィオはゆっくり息を吐き、演説を打つことにした。
「諸君らは、アンドレ・ド・ラ・ヴィエラ様という、正当な皇帝を戴いている。そして今、ルアン大司教たるこの私を迎えたことによって、諸君らは真に神の加護を得たことになる」
 この弁舌で、ギィオは大司教の位まで上り詰めたのだ。聖職者として、すでにその栄華を極めたはずだった。
 しかしギィオはその後、幾度も選択の岐路に立たされていた。選帝会議で、弟皇子だったミカエルを推したことは後悔していない。懐は大いに豊かになったし、新帝より望んだ待遇は受けられなかったものの、先の宰相を始めとして、政敵が次々と失脚して行く中、政界においても聖職界においても、相対的にギィオの地位は上がっていた。
「それに対して、今の宮廷を見てみるがいい。偽帝が立ち、国は黒鷲の悪魔に牛耳られている。ついには教皇猊下を否定し、畏れ多くも偽帝は自らを神の預言者と名乗っている」
 選択を間違えたのは、シャイヨーの戦争の後に行われた旧教弾圧の時だった。このときに限って、ギィオは慎重さを欠いたのだ。聖職者はラヴェンナの教皇に仕えているのであって、その国の君主の臣ではない。教皇を否定するという無茶な令を、ギィオは深く考えることなく拒んでしまった。それがヴィルトールのギィオを陥れるための謀略だったことに気付いた時には、すでにあとの祭りだった。王命を受けた元帥ラグナロワ侯爵が、大軍を率いルアンの街を取り囲んでいたのだ。
「天の意思は諸君らにある。諸君らは神の軍だ。悪魔を除き、偽帝を倒し、神のもとにこの国を取り戻さねばならない」
 ラウランの兵士の掲げる大楯に描かれた、雪十字の紋が目に入る。煤け、ところどころ禿げていた。同じ紋にも関わらず、もはやあのジネディ・ド・ラウランの率いた神軍の面影はない。
 今再び、ギィオは選択を迫られていた。アルビの獄から放されるとき、ヴィルトールの小娘は条件を出した。賊軍をアルビから逸らすよう、叛乱軍を説得しろと。さすれば地位も、所領も、財産も、ヴィルトールはギィオに返すという。今アルビには、賊軍と戦うだけの兵はいないらしい。
 雪十字。そして黒鷲。どちらにしても屈辱を思い出させる、嫌いな紋章だった。
「大司教様の話によると、聖職者たちはアルビの城に囚われているそうですな。帝都パリスに向かう前に、我々はまず、彼らを救出せねばなりません」
 聴衆の中から進み出て意見を述べたのは、ダルジャントー卿という人物だった。教皇庁に縁のある人物らしい。それらしく、どこか禁欲的な頑なさを纏った老人だ。卿の背後から、叛乱民の賛意の声がちらほら上がる。
「卿の言う通りだ。囚われた仲間を、助け出してやって欲しい」
 ギィオは微笑み、そう締めた。高位の聖職者であるギィオの言葉に、聴衆の歓声がどっと大きくなる。ルアンの民にはない感情だ。熱狂はギィオを称えていたが、そこに背筋の凍るような戦慄しか感じない。下賎なる民は、民らしくあるべきだ。
 それが、ギィオの決断だった。アルビを、ヴィルトールの小娘もろともに、攻め潰してしまうがいい。ヴィルトールの約束など、守られるはずがないのだ。斜陽で信用ならぬ黒鷲を見切り、ギィオは雪十字に賭ける決断をした。
 演説を終えたその足で、ギィオはその意向を伝えるため、弥撒に参加しなかった司令官たちのもとを訪ねた。彼らは隊から外れ、見晴らしのよい丘の上に馬を留めてくつろいでいた。辺りを一望できる場所だ。見張りも、兼ねているのだろう。
「俺は反対だ。アルビの城は水路と濠を縦横に巡らせた難攻不落の要塞だ。そしてロアンヌ最高の指揮官、元帥閣下ラグナロワ侯爵が守っている。よしんば犠牲を出して聖職者たちを助けたところで、足手まといが増えるだけだ。予定通り都へ向かった方がいい」
 迷惑そうに顔をしかめ、ラザール・ド・ラウランは巨大な剣鞘に寄りかかる姿勢のまま、腰を上げることもなくギィオに応えた。視線はギィオを振り返ることはなく、ただ満天の星空を見上げている。ギィオに対して蔑意を露わにした態度だった。彼は司教リュックの弟のはずだったが、まるで似つかぬ兄弟のようだった。身丈は大柄で、司教に見られた怜悧さはない。態度は無礼で不愉快極まりないものだ。だが扱いやすいという点で、リュックよりはるかに好ましいものだった。
 ラウランの当主に至っては、なおさらだった。金の縁取りの雪十字紋は重すぎよう。見るからに頼りない。女のような童顔はいかにも優柔不断そうで、まるでラウランの迫力を感じない。
 アンドレ皇子の姿は見当たらなかった。同じ姿をした者はいる。黒マントに赤白の仮面を被っている。しかし変装というにはあまりにお粗末なその怪しい人影は、どうやら女のようだった。隠しているつもりなのか、背中に長い金髪を詰めている。ゆったりしたマントを纏っても、線があまりに細すぎた。
「軍人のお言葉ですね。しかしそれは、将軍様お一人の意見。私たち皆の希望とどちらを採るか、陛下のご意向を伺いたい」
 私たち、皆。ギィオの後ろには、聖職者を敬い歓声をあげた民たちがいた。数える気はないが、数えきれない数だ。振り返れば後についてきた者たちが、遠巻きにこちらを見つめている。下賎で矮小な人種だが、集めて利用できれば、力となる。
「確かに。一個人としての俺の意見だ。陛下の命に従うさ」
 ラザールは民たちの方を振り返り、苦々しく吐き捨てるように、そう言った。陛下、どうするんですか。ラザールが黒マントの女に、呼びかける。理解不能な行動だった。
「……はあ、ええ」
 仮面は振り返ると、気のない反応を返した。低い声は、アンドレ皇子のそれに似ているようだ。予想していなかった女の低音に、腰が抜けそうになる。
「皆の良いようにしてください」
 陛下がそう仰るのなら……。ラザールは諦めたように溜め息をつく。聖職者を助けるのは、良いことだと思います。遠慮がちに漏らしたラウラン当主はどこか嬉しそうだ。ラザールに遠慮していたものの、ギィオの案自体には反対ではなかったらしい。さすが陛下じゃ、ラザールには天罰が下ろうて。そんなことをひとりごちつつ、ついてきたダルジャントー卿も満足げに頷いていた。
 道化の格好をした人影は、どう見ても女に見える。アンドレ皇子ではないと思う。思うものの……、声は確かに男のそれだったし、ギィオはその姿を昨日一度見たきりなのだ。皆がこの道化を皇帝として扱っているのだから、もしややはりアンドレ皇子なのかもしれない。
「陛下、皆の意向でラグナロワ侯爵領のアルビへ向かうことに致します。よろしいでしょうか」
 どこか釈然としない思いのまま、ギィオは佇む細い影に確認してみた。
「ええ、良いように計らってください。すみませんが、一人にしていただけますか」
 おざなりな許可を与え、道化姿のアンドレ皇子はギィオたちのもとから離れていった。 なにがあったのか、ひどい落ち込み様だった。皇子は星空のもと、肩を落として座り込む。
「はぁ……」
 離れたギィオのもとまで届く、盛大な溜め息が聞こえてきた。
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