ポドールイの人形師

5−5、黒鷲の家訓

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「く、クリスチャン。濡れたままだと、風邪をひきますよ」
 相当に水が堪えたようだ。もともと不健康そうな細長い顔から、さらに血の気が引け、顔面蒼白になっている。膝も言うことを聞かないのか、クリスチャンが手を引いてやらなければ階段を昇ることすらままならない。そんな状態で、よくぞ他人の心配など口にできたものだ。
「司祭様こそ。上着捨てたら? 重そうだし」
 旧教派の聖職者ということを示す黒い僧衣は、水をいっぱいに吸収し、司祭カトリノーはそのまま巨大な刷毛のようになっていた。引きずられる僧衣の裾が、床にそのまま水の帯を描いていく。
「せ、せっかく捕まっても司祭として脱がなかったのですから。もう少し意地を張らしてください」
 紫色の唇が、小刻みに震えながら、そんな緊張感のないことを言う。敵の大将の本拠地に潜入しているというのに、まったくいい気なものだ。
「好きにすればいいけど、これ以上足手まといになるなよ。これから敵の親玉、やっつけに行くんだからな」
 クリスチャンは、ラザールたちの後を追いかけてきたのだった。化け物みたいなラザールはともかく、あのいかにも軟弱なラウランの当主までもが一緒に城に向かって行ったようなのだ。クリスチャンが行かない法はないだろう。ただ貴族の二人は、馬に乗って行ったので、徒歩のクリスチャンは出遅れてしまった。さらになぜかカトリノー司祭までついてきたので、余計の進行が遅くなる。そんな風にもたもたしながら城の中を探索していると、突然浸水に見舞われたのだった。剣をしっかり胸に抱いて、司祭様も引っぱり上げられて、クリスチャンはなんとか水の捌けた階まで逃れることができたのだ。
「……ああ、クリスチャンにそんな風に言われると、どうしようもなく腹が立ちます。しかも今回に至っては、信じ難いことにクリスチャンの言うことが正論なのですから、もう情けないたらありませんね」
 振り返ると、空いた片手で額を抑え心底惨めそうに、カトリノーは芝居がかった大きな嘆息をしてみせた。手を引いてやっているというのに、なんと無駄に元気なことか。もう捨てていってしまおうか。
「ところでクリスチャン、ずっと昇っていますけど、ちゃんとあてがあって進んでいるのですか?」
「ああ、間違いないよ。親玉はてっぺんにいる」
「そんな。世の中の人間、誰も彼もがクリスチャンのように高いところが好きとは限らないんですよ。特にラグナロワ侯爵は、賢将だって噂です」
 なぜだろう。なぜだかわからないが、自分が馬鹿にされているような気がして、クリスチャンは無性に腹が立ってしまった。まだ冷たい司祭の手を強く握り直し、足を一気に速めてやる。あうあうと、おぼつかない足取りのまま引き摺られる司祭の悲鳴のような震え声が背後で響く。
 城内はほとんど無人だったものの、数体番兵の死体を見た。少なくとも、ラザールはここを通ったはずだ。ならば敵も上にいるはずだ。ちゃんと根拠はあるのだ。下は水に沈んでしまうのだから、敵は上に逃げているに決まっている。
 階段の終わりが見えてきた。そこが天守楼になるのだろう。風が上から吹き降りて、微かに金属の交わる音が聞こえてきた。
 階段を上り切り、部屋に入るなりクリスチャンが目にしたのは、鬼気迫る剣戟だった。ラザールの大喝と共に振り下ろされた大剣が、まともに受け止めた老将軍の剣を弾き折る。とっさに身を引いた相手を追うように、巨大な刃は垂直に斬影を残し、浅く長く胸を抉った。帷子を破る金属の擦れる音が響く。膝を付いた老将軍の将服の胸から腹にかけて、紅い線が太く滲んだ。
「元帥閣下、あなたはこんな弱くはなかったはずだ。自分の戦いができなければ、人は強くなれない」
 そう口にしながらも剣は止まらず、紅い雫を撒いて一度翻った鉄色の閃きは、こんどは老将の肩口を深くに割った。灰色の口髭が蠢き、くぐもった呻きを漏らす。
「あなたとは正々堂々、全軍で刃を交える戦がしたかった」
 傍らで、押し殺した悲鳴が聞こえた。咄嗟に見やると、似合わぬ将服を着こむ、涙目を背ける女の人がいる。肩に、金糸で縁取られた雪十字。クリスチャンは数瞬をかけて、どこかで見知った女という気がしていたその人物が、ラウラン当主のリュックだということに気が付いた。
「これは閣下の戦いではない。下卑た策を吹き込んだ、黒幕があなたの裏にいるはずだ。一体誰だ?」
 力を緩める様子はなく、大剣を握るラザールの両手の甲には、赤紫の血管が浮き出ている。じりじりと刃は骨をも削って、跪く将軍の肩から胸元に迫るように沈んでゆく。クリスチャンには聞こえないような小さな声で、老将はラザールになにか言葉を漏らしたようだった。骨を割り切ったのかくぐもった破砕音が響き、大剣は一気にその身の横幅分ほど胸まで沈んだ。心の臓は、左胸の、あの辺りにあると、司祭が言っていた気がする。ゆっくりと髭の将軍が崩れ落ちる。膝を折ったまま伏した将軍の肩から、少してこずって刃を引き抜いたラザールが、小さく舌打ちをする音がやけに響いた。
 目立たず奥に控えていた小さな人影が、ふと動いたのが視界の端にひっかかる。綺麗な白い絹のドレスの女の子が、両膝をついて頭を垂れた。見覚えがある。ポドールイで自警団の副団長のガストンを殺した子供だった。憎むべき黒鷲の一員のはずだ。
「大丈夫よ、安心して、顔を上げて」
 先ほどまで目を反らし、悲鳴を上げていたリュックが、女の子のもとに駆け寄った。子供の肩を抱き上げるまでのリュックの行動は迅速で、また衝動的に見えた。老将軍が倒れている。血臭が立ち込めている。身の内に処理しきれなかった恐怖を、思わず女の子に向けてしまったのかもしれない。リュックのラフィセをいたわる優しい手つきは、まるで完全に女のそれだった。
「……その顔、あなた。シファ、ですか?」
 思いがけない名前は、クリスチャンの背後より発せられた。司祭は立っているのが辛いらしく、クリスチャンの肩に掴まって、じっとヴィルトールの子供を見つめているようだった。つられて、クリスチャンも息を詰めてしまう。
「その目の色。癖っ毛。かわいい丸顔。幼い頃のクリスチャンと瓜二つです」
 顔の横、至近で司祭は振り向き、クリスチャンにひどく嬉しそうな笑みを向けた。毒っ気を失うと、司祭の笑顔はどこか老いて見えてしまうようになった。
「クリスチャン、シファです、間違いありません。シファが、いました。そこにいます。ほら、シファが……」
 あれはヴィルトールの人間だ。自警団の仲間だったガストンを殺した、憎むべき残虐な存在だ。その相手に、司祭が妹の名前を重ねる。それも何度も。怒りに顔が熱くなったが、司祭の弱々しくなってしまった笑顔を見ると、怒るに怒れない。仕方なく、黙らせるために司祭の首を腕で刈り寄せ、締めてやった。喉に絡んだ悲鳴をあげて、司祭はとりあえず、シファの名前を連呼するのはやめてくれる。
「そいつは、ヴィルトールの子供だ! ラザール、黒幕はそれだ!」
 クリスチャンは叫んだ。キッとクリスチャンに、リュックのきつい視線が向けられる。リュックの腕に抱かれた女の子は、焦点の定まらない紫紺の双眸で、ラザールのほうを見ているようだった。
 仁王立ちする巨大なラザールは、血の滴る、やはり巨大な刃を、まだ鞘に収めてはいない。クリスチャンに向いているのは、白いマントの大きな背中と、首筋まで無造作に泳ぐ硬そうなざんばらの髪だけだ。だが小さな女の子の側には、頬から額にかけて大きな向こう傷の走る、厳めしい赤ら顔が向いているのだ。返り血に染まり、今しがた人を殺したラザールは、どんな顔をしているのだろう。
 ゆっくりと、ラザールは剣先を女の子に向ける。造りの幼い女の子の顔には、変わらず冷静な表情が湛えられている。それを目にして、クリスチャンはヴィルトールの子供に、突然恐怖がこみ上げた。
「で、お前は誰だ?」
 幼い女の子に、その身の丈の二倍にも及ぼう大剣を突き付けたラザールの声には、薄ら笑いが含まれていた。女の子は一呼吸間を置いて、シファです、と答えた。
「今さっき受け取った、元帥閣下のご遺言でな。ラフィセを助けてくれ、と言われている。おまえはラフィセではないんだな?」
 ラザールは剣を振り上げた。せせら笑いながら、威嚇しているようだった。女の子の濁った紫紺の視線は揺るぐことなく、ラザールを突き抜けて、少し後ろに定まっている。無表情が、ほんのわずかに眉根を寄せた。
「どちらでも構いません。わたしごときをいたぶるのは、ご勘弁下さい。家訓で、無駄死にを禁じられております。命だけはどうかお助け下さるようお願いします」
 少し舌足らずが残る幼い声には、悪びれる様子も、怖れる様子もない。諦めたような淡白さと、同時に静かな迫力を孕んだ、どこか乾いた命乞いだった。
「潔いな。よくは知らんが黒鷲の家訓に従うんなら、お前の態度は間違いだと思うぞ。醜く足掻くのが、黒鷲だろうに」
 ラザールは静かに剣の血を拭き、やがてゆっくりと鞘に収めた。
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