ポドールイの人形師

6−8、仲直り

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 牢の前にラフィセが立っていて、リリアンは少しぎょっとした。妹が来たことに気付かなかったわけではない。湿った地下牢に閉じ込められて何をするわけでもない。リリアンはずっと、格子の向こうの薄闇を見ていたのだ。その薄闇の視界に、村娘の粗末な身なりの女の子が、ほとんど気配もなく侵入してきた。暗がりに色の沈む、二束に流された亜麻色の髪を歩みに合わせて一定のリズムで揺らし、闇など気付かない風に淡々と廊下の中央を歩いてくる。ラフィセはリリアンの正面で止まると、直角にリリアンの方向へ体を向けた。紫紺の大きな双眸の結ぶ焦点は、わずかにリリアンからは外れていた。
 目の見えない幼女が、地下牢の最奥の房の前に立っている。自分の育てた妹に、いまさら驚くでもない。しかし小さなラフィセの見通すような瞳には、リリアンでさえも得体の知れない戦慄を感じる。
「一人で来ました。以前一度、ここに来たことがあります」
「偉いね。でも僕は質問なんてしてないよ。ラフィセに、いちいち驚いたりしないよ」
「ここはルアン大司教、ギィオさまが囚われていた独房です。大司教さまは、悪魔殺しの筒で処刑されました」
 ラフィセはリリアンの話を聞く気がないようだった。それどころか必要もないであろうに愚かな人間の名が出されたこと、そしてその人間にとっておそらく最も屈辱的な末路をわざわざ喋ったことを、リリアンは自分への侮辱と読み取った。表情に映すことはなく、この従順なラフィセが、リリアンの失態に怒っている。
「今まで隠してきたんだけどね。ラフィセは、僕がポドールイで見つけた拾いっ子なんだ」
 リリアンは造り笑顔を浮かべて、全く脈絡なくそう言った。売り言葉に買い言葉。侮辱を甘んじて受けるだけというのは、リリアンの主義ではない。ラフィセは感情を表情を映すことには耐えたようだ。だが薄暗い空間を、刹那沈黙が支配する。聡いラフィセはとうに自分で気付いていようが、リリアンの口から告げたのは、考えてみると本当にこれが初めてだった。
「兄さまは、ヴィルトールの人間として欠陥があります。あえて今、わたしを敵に回すなんて、愚かしいです。兄さまは、考えなしすぎます」
 生真面目なラフィセの言葉に、リリアンは純粋な苦笑を浮かべた。たかが意地悪の一言で、ラフィセが自分を裏切ることはありえない。だがラフィセは、リリアンが無思慮に囚われていることを本気で怒っているし、感情とは切り離してヴィルトールの人間として、リリアンを見捨てることもするだろう。
「返す言葉もないよ。確かに僕は前もって考えるのは苦手だけど。でも後から考えることはできるんだよ。今だってどうやったら助かるか、必死に考えている」
 ラフィセはじっと焦点のずれた視線でリリアンを見上げて、身じろぎ一つしなかった。怒りを解いていない様子のラフィセに少し不満を感じつつ、リリアンは継ぎ足す言葉をその場で考える。助かる方法を考え始めたのは、本当に今この瞬間で、実はいまだ何の方策も立ててはいなかった。
「叛乱軍の連中は総じて甘いから、殺されないかもしれない」
「王兄アンドレはヴィルトールに勝るとも劣らぬ、非情な人です。将軍ラザールは、何が利なのかを弁える如才ない人、あえて兄さまを生かすとは思いません。ラウラン家当主リュックは、ヴィルトール家に深い恨みを抱いていると聞いております」
 リリアンが一を零して、ラフィセは十で叩き伏せた。そんな風情だった。どうせ考えた言葉ではなかった。ラフィセの才も承知している。リリアンは悔しくはなかったが、妹の自分を兄とも思わぬ態度に、少しむっとした。拗ねた眼差で、妹を睨みつけてみる。
「兄さま、どうするのです?」
 目の見えないラフィセは、紫紺の瞳で気後れなくリリアンの視線を見返してくる。ラフィセに寄って、格子の間から腕を伸ばし、目の見えない妹の額を小突いてやった。
「僕はとても有用な人間だよ。ミカエルの信が篤い。今の宮廷に精通している。手を汚すことも厭わない。田舎者の正直者の集団が、本気で王権を奪おうとするなら、絶対に必要な人間だ」
 ラフィセは、不当に小突かれた額を抑えて、リリアンの腕が届かぬところまで後退っていた。愛らしい顔には、いかにも不審という色が浮かんでいる。
「僕は命を繋ぐためなら、寝返る用意がある。叛乱軍と利害は一致するんだ。王兄アンドレは皇位を手にするためならば、僕の業になど目もくれまい。将軍ラザールがラフィセの評するような人間ならば、むしろ手を伸べて僕を迎えるだろう。当主リュックは、人を殺すことなどできない人種だ。恐るるに足りない」
 ラフィセは眉根を寄せ、小さく息をついた。リリアンの楽観に、呆れたような嘆息だった。
「……大丈夫だよ。僕は殺されない。お姫様を、僕は助けたんだ。どんな卑劣なヤツでも、例え何千の人間を殺そうとも、ここではそれで全ての罪を贖って余りある。僕は助かるよ」
 ラフィセの紫紺の双眸が、わずかに眇められた。誰かが来る、と小さく言った。
「リリアンさま。シファはなんにもリリアンさまを助けてあげられません。ごめんなさい」
 ラフィセが、わざとらしい拙い口調で、何かを言った。

 リュックは地下牢にやってきた。格子牢の並ぶ廊下は、光が薄く、じめじめとしていた。つい先日まで、旧教派の敬虔なる聖職者たちが集められていた牢だった。
 現在では最奥のただ一房が、ヴィルトール家の囚人を閉ざしているのみだ。廊下の最奥の、囚人を閉じ込めた牢の前には、盲目の女の子が立っていた。リュックは女の子が自分と共に招かれていることは知っていたが、女の子が一人でいたことに驚いた。どうやってきたのかを訊ねたところ、一人で来たと少女は答えた。ここに来たのは二度目だからと、盲いの少女は視点を合わせず、付け足した。
「カロルちゃん、ひさしぶり」
 牢の中から、癇に障る声が発せられる。
「シファちゃんは、目が見えないんだよね」
 声のほうには目を向けず、リュックはしゃがみこみ、小さな女の子に確認をした。じっとリュックを見上げた女の子は、少しだけ表情に逡巡をよぎらせたように見えた。しかしさして悩むでもなく、幼い少女から、歳相応の舌足らずな返答が返ってくる。
「シファは、目が見えないの」
 幼い女の子の、その焦点の定まらない大きな紫紺の双眸に、一瞬似合わぬ理知的な光を閃いた。わずかに怖気を感じながらも、リュックは小さく苦笑を造る。
「じゃあ、耳も塞いでおきなさい」
 薄闇に色を深める、シファの亜麻色の髪を一撫でし、リュックは腰を上げた。
「選帝侯ラウラン家当主、リュック・ド・ラウランです。はじめまして」
 牢を向き、リュックは今さらになって、リリアン・ド・ヴィルトールの挨拶に返礼を与えた。
「その名前の人間は、とうの昔に僕が殺した。君の名前はカロル。名字は教えてもらってない。ポドールイで一度会ったことがある、兵士の服を着たおかしな女の子だった」
 牢の奥、リリアンは場違いな明るい笑顔を浮かべ、そう口にした。ヴィルトールの笑顔。彼はリュックの顔を見るのが本気で嬉しいかのように、愉しげだった。
 リュックは応えず、持ってきた襤褸布を石畳の床に放り落とす。湿った石が音を吸収し、布のずれる音も立たなかった。わだかまってしまった襤褸布を、足でずらして少し広げる。黒鷲の紋章を見つけると、狙いを定め、リュックは踵で踏み付けた。笑顔を崩さず、リリアンは涼しい様子で自分を眺めている。その眼差を確認すると、リュックはさらに踵に力を込めて、ヴィルトールの紋章を踏みにじった。
「ラフィセ。カロルちゃんが僕らの家紋を、足で踏んづけて、冒涜している」
「ポドールイ村のシファ・フュレーは、目が見えなくて耳を塞いでいるから、リリアンさまの声は聞こえません」
 紫紺の大きな瞳は、見開かれたままだ。女の子は応えた後に両の耳に手をやって、リュックの言い付けを遅まきに実行していた。村娘シファは、兄を名乗る貴族リリアンを、見捨てることを決めているらしい。
 敷きつめられた石の角にひっかかり、破れてしまうまでに踏みにじると、リュックは黒鷲の紋の入った襤褸布を囚人の方へと蹴り払う。リリアンは格子から手を伸ばし、見る影もなく汚れた上着を拾いあげると、ありがとう、と礼を言った。余裕を保った口調だ。それでもリリアンの鳶色の瞳にわずかに昏い光を見つけた気がして、リュックは少し満足を覚えた。
 一つ小さく息を吸い、吐き。懐より包みを取り出す。ついにこの時が来たのだ。リュックが慎重に包みを開くと、古びた指環が入っていた。大きな宝石が、立ち込める薄闇に溶け込むような、暗い透明色に沈んでいる。
「リリアン・ド・ヴィルトール。あなたとは仲直りをしたいと思っている」
 針のある指環を少し手間取りながら右手の薬指に嵌めながら、リュックは言葉を抑えきれず口にした。長く胸に溜めていた台詞が、やや早口になってしまった。
「はじめましてなのに、仲直り?」
 くすくす笑いながら、リリアンはリュックの言葉に茶々を入れた。囚人はもぞもぞとズボンの中を探ると、中からやはり指環を取り出した。手慣れた所作で、リュックと同じ指にクリソベルの指環を装着する。
「まぁ、いいけどね。持っててくれて嬉しいし。君にそれをあげた後、同じやつを作らせたんだ。カロルちゃんとお揃いだね」
 囚人が浮ついた調子で吐き出す言葉に、リュックは胸に来るほどの嫌悪を覚える。唇を噛み締めそれに耐え、リュックは右手を格子の中に差し入れた。さあ、仲直りをしよう。絞り出したつもりの自分の言葉は、果たして空気を震わし、音になってくれただろうか。格子の向こうで座り込んでいるリリアンは、笑みを潜め、じっとリュックの瞳の奥を覗き込む。
「一つ。僕の指環には、陶酔草の毒が仕込んである。一つ。カロルちゃんが、指環に仕込む毒を、手に入れられるとは思えない。あの司教の真似をして僕を試すつもりなら、それは君にとって、分の悪い賭けだと思うんだけど」
 公子の似合わぬ真剣な眼差を、リュックはあらん限りの憎悪を込めて睨み返した。ふう、と。わざとらしく嘆息し、リリアンは表情をたちまち緩めて手を差し出す。
「リリアン・ド・ヴィルトール! シファ・フュレーは陶酔草の毒の小瓶を、リュックさまに取り上げられております!」
 沈黙を守っていた傍らの女の子が、不意に叫んだ。シファが、裏切った。復讐の機を逃してしまう。逃げられる前に、リュックが慌てて相手の手を掴まえようとしたところ、逆に囚人のほうからリュックは伸べた手を握られた。
 指の先が、ちくりと、痛む。しかし、ただそれだけだった。憎い囚人は、満面のヴィルトールの笑みを浮かべていた。強くリュックの手を握ったまま、見事な笑顔を貼り付けたまま、ヴィルトールの青年は崩れ落ちた。
 女の子が硬い表情で倒れた囚人を見つめている。おそらくそれはシファではない。悪魔の使いの系譜の者、ラフィセ・ド・ヴィルトール。紫紺の双眸に、見掛けに見合う幼さは欠片もなく、ただ冷たい光が沈んでいる。
「ごめんね」
 我知らず、リュックは女の子に向けて呟いた。女の子は虚を突かれたようにリュックを見上げ、やがて首を横に振り、見られてはいけないものを見られたとでもいうように、笑みを繕う。
「シファちゃんが……じゃなくて、あなたが、この人の妹として悲しむのを、私は」
「やめてください。彼は無関係の人間で、わたしは悲しみなど致しません」
 リュックの言葉は大きな声で遮られる。ぷいと女の子にそっぽを向かれてしまった。
「己の欲望を追求するのは、ヴィルトールの道ではないのです。神も、主も、友も家族も、自らが生き残るために犠牲にします。でもその目的は、家の繁栄のため。リリアン・ド・ヴィルトールは、死ぬとわかってあなたの手を握り、その目的は、あなたと仲直りすることで……」
 言葉が途切れ、まるで子供らしからぬ、侮蔑的なせせら笑いを女の子は零した。
「家の道を外れたリリアンは、殺されるべくして死にました」
 女の子はそこでリュックを見上げ、可愛らしく紫紺の双眸を瞬かせた。
「でもこれでリュックさまも、殺される業を背負った身。気を付けて、くださいね」
 明るい声音でそう言うと、女の子はリュックに向けて、華のような満開の笑顔を綺麗に咲かせた。
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