ポドールイの人形師

7−3、正しい理想

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 叛乱軍は約三月もの間、アルビの街に滞在した。ベランダのある部屋に、ほとんど軟禁状態だったシシルには、それがずいぶん悠長なことのように感じられていた。
 カロルは毎日のようにシシルのもとを訪れ、シャイヨーの子供時代のように、とりとめのない話をした。城内の者や領民たちの話。日曜に行なわれた、弥撒でのお説教の話。
ダルジャントー卿とラザール将軍の子供っぽい嫌がらせの応酬は、本人たちにはいざ知れず、端で噂を聞いている分にはほとんど喜劇だった。ダルジャントー卿を支持する熱狂的な信徒たちが、ラザールの仕切る軍事訓練に乱入して妨害したり、そうかと思うとラウラン家の私兵団の一部が、ダルジャントーの行なう演説に野次を飛ばしていたり。ラウラン家の当主である『リュック』の元には、お互いへの讒言がひっきりなしに寄せられるらしい。いっそ聞き入れて両方降格させようかと考えているの。カロルはいたずらっ子のような笑顔で、そんなことを言っていた。
 弥撒のお説教のおさらいも、アルビにおいては笑い話になった。シャイヨーにいた頃は、司教リュック・ド・ラウランのお説教についての復習をしなければならなかった。教養深いリュック司教のお説教は、聖典に一文一句間違いなく沿った言葉だった。さらにカロルにとって司教はほとんど絶対であり、どこまでも忠実にその意を汲もうとするものだから、弥撒の説教のおさらいは、そのまま聖典のお勉強の時間になってしまった。だがアルビにおいての弥撒のお説教は、ポドールイ司祭のカトリノーが行なっている。なぜかどうにも信用ならないその語り口を差し引いてさえ、カトリノー司祭の話は虚実ない交ぜだった。リュック司教に教えを受けたラウランの娘二人のほうが、聖典の教養についていえばずっと正確で詳しい。そもそもカトリノーは、聖典を綴るジュダの言語を読むことさえもおぼつかない。ただ数多の苦難を受け、それでもなお命を懸けて信仰を守り抜いた司祭の言葉には、聖典を越えた真実のようなものが時に混ざっているように思われたりもするのだ。そんなカトリノーの説教をカロルと二人で検証するのは、なかなか白熱するものだったりした。
 時折ポドールイの子供たち――クリスチャンを首領としたポドールイ自警団――がこっそり城の中に侵入し、シシルのもとを訪れることもあった。ヴィルトール家に育てられたらしいシファもまた、子供たちの中に居場所を作っていた。ポドールイで初めて会った時の印象よりも、口調は拙く、仕草も幼く可愛らしいような気がした。シファが子供らしくはにかむような笑顔を造ると、『リュック』が蒼ざめ顔を引きつらせることが不思議だった。
 皇帝アンドレは洪水から戻ってきて以後、一度もシシルに会いに来てはくれなかった。カロルや子供たち伝いに話を聞いても、どうにもシシルの知っているジューヌとは重ならない。クリスチャンは怖えー、と言った。シファに訊ねてみると、女の子は可愛らしい造作に不似合いに硬質な笑みを浮かべ、視線を背けた。カロルは叛乱民を指導するアンドレの様子を詳しく話してくれて、威厳を具え、一心に使命を果たそうとする、見事な皇帝陛下です、と賞賛した。それはまるで、誰か歴史上の名君の伝記でも聞いているかのようだ。少なくとも、シシルの知っている優しく情けない人とは違う人だった。
 そこは、平和すぎて。誰かが――カロルが、ジューヌが、子供たちや直接見知らぬ民たちまでもが――シシルを守ろうとしている気配を、感じざるをえなかった。
 善意で織り上げられた、虚構の檻。突然ラザールが室に現れて、不機嫌な様子でシシルに出発の用意を命じたとき、なぜだかまるで、救われたように感じてしまった。

 アルビを出発してより、穏やかなテンポは乱れることなく、馬車は揺れている。眠気を誘うほどに心地よい。御者の腕の良さかもしれない。ロバのディアンヌとはずいぶん違う。彼女の背中は温かくて獣臭くて、少し不安定で、懐かしかった。だがアルビから調達した四頭立ての頑丈そうな馬車に一流の御者がつき、それを一人で使ったりしていると、久方ぶりに貴族の令嬢に戻ったような気分になれた。
 留め金を外した窓の向こうでは、長閑な田園風景が流れてゆく。小さな白い花たちをいっぱいに咲かせた、オリーブの並木が青々と並んでいる。そう、ロアンヌはこういう国だった。少し鼻に痛い涼やかな匂いが、ほのかにつんと、暖かな空気を鋭利にしていた。この地方では、虫除けのために、ハッカを栽培するらしい。モルロ村長の亡くなったことも、大司教ギィオの処刑のことも、ヴィルトールの公子が自殺したことも、リュックは一つも教えてくれなかった。しかし、ハッカの話はしてくれた。
 全てが終わって片付けられて、決して冷酷なわけではないのだけれど、現実的なラザールの、切り捨てるような言葉でたくさんの辛い事実を知ったとき。シシルはやるせないほどに傷付いた。
「ラザール叔父さま」
 手の甲で目を擦り。霞み目で、数瞬ぼーっと窓の外を眺めた後。眠気覚ましに、シシルは背後の壁に呼び掛けた。馬車の中、シシルは進行方向に背を向ける方向に座っている。壁の向こうは、すぐに御者席になっている。ああ? と、いかにも機嫌の悪そうな反応が御者席から返ってきた。
「あたし、ジューヌさまと会わなければなりません。降ろしてください」
「御者様は皇帝陛下に、シシルを見張っとくよう仰せつかってるんだよ」
 似合わぬ謙譲語を使っているにも関わらず、自分に様付けをして、尊大なのか卑下しているのかわからない。とにかくふて腐れた気のない返答が寄越される。出発より挨拶のように繰り返される、御者と令嬢の問答は、次第に互いが淡白になっていた。
「ちなみにだ。ダルジャントーの爺様は、ポドールイの田舎司祭の家庭教師を仰せつかっているのだよ、お嬢様」
 そしてこちらも決り文句のように、結び言葉にラザールはシシルの祖父の状況を付け足した。アルビにおいてのダルジャントー卿との対立の折、ラザールは、俺は司令官を降りる、と宣言していた。そしてラウランの当主であるリュックの仲裁の甲斐もなく、程度の低い反目を続けたラザールは、一軍の将だったものがシシルの馬車の御者にされてしまったらしい。ちなみに教皇庁出身の長老格として、叛乱民の尊敬を集めてきたダルジャントー卿は、カトリノー司祭の教育係にされたらしい。そちらはそちらで、卿にとっていかに屈辱的であるかを思うと、哀れだった。
「まったく、この俺様がシシルのお守りとは。皇帝陛下の過保護ぶりにも困ったものだ」
 涼やかなハッカの芳香と混じり合い、窓からシシルを侮辱する言葉がそよぎ込む。心中は察しないでもないが、八つ当たり気味にそんな言葉を浴びせられるのは理不尽に感じた。
「別に、八つ当たりとかじゃないぜ。そうだな、例えば爺様のことも同じことだ。アンドレは、ポドールイの司祭を、宮廷付きに召し上げるつもりらしい。それに見合う教養を叩き込むために、ダルジャントーの爺様が駆り出された」
 なにが同じなのだろう。ただジューヌの意向に、シシルはとても明るいものを感じた。
「もしそれが本当でしたら、陛下は英断を下されたと思います」
 ん? ラザールは子供に相槌を打つような調子で促した。扱いは不満だったが、シシルは続けた。
「カトリノー司祭さまは、身を持ってその信仰を守り通した方です。いかな逆境も、司祭さまの忠誠を揺るがすことはできませんでした。あの方に問題がない、とは言いません。でも司祭さまは、聖典の教えをも越える、深いものを身につけられた方だと思います」
 ああ、うん。俺もあの三流詐欺師みたいなおっさんは好きだよ。ラザールは今度は、幼児をあやすような調子で生返事を返してくる。
「でも、そういうことじゃなくてだな。例えばこの戦いが全て終わって、一年後のことなんかを考えてごらん――」

 シシルはこの国の、お妃になっている。否定するなよ。真剣に考えてやらないのは、むしろ残酷だぞ。
 宮廷付きになったカトリノー司祭が、朝の弥撒を行なってくれる。虚々実々の、おもしろい説教だ。だがそれは、深い信仰を貫いた者のみが得られる、真理の言葉でもある。
 宰相は誰がなっていると思う。リュック・ド・ラウランだ。この戦いで真っ先に決起し、その肩書きは選帝侯家ラウラン家の当主だ。歳は若く頼りないが、その功績にも、身分にも、誰も異を唱えることなどできないだろう。シシルは宰相の篭る政務室にこっそりと忍び込み、『カロル』と朝の弥撒について語り合う。アルビの城でもやってただろう。そんな日々が、永遠に続く。
 元帥杖は当然、俺が握る。文句はないだろう。この国にまともな軍人は、そもそも俺くらいしか残っていない。シシルは俺に懐いているからな、うれしいだろう。王妃、宰相、元帥と。ラウラン家は栄華を極めるというわけだ。
 あのクリスチャンっていう坊主も呼び寄せるだろう。剣の稽古をつけて、シシルの近衛に仕立てるかもしれない。あれは頭のネジが数本抜けているが、まっすぐな気性も、それをそのまま映した剣にしても、案外筋がいい。なによりもシシルに、懐いている。王はシシルに、新しいロバを探してくれるだろう。ディアンヌといったか、シシルのかわいがっていたロバがいただろう。シシルは動物が好きだから、うれしいだろう。背中に乗って、時々宮廷の庭でも廻るといい。
 他にもポドールイの人間や、シャイヨーの人間を呼び寄せるかもしれない。だが、テレーズはシャイヨーの屋敷に幽閉するかもしれないな。シシルは自分の母親、苦手だろう? ダルジャントーの爺さんはどうだ。シシルが、好き、って言ってやれば、あれにも大法官の地位でもあてがわれるかもしれないな。嫌いって言ってやれよ。教皇庁へ送り返せる。
 ……どうだ、幸せだろう。シシルの大好きなものしか残らない。夢のような未来だとは、思わないか。

 ラザールの語る言葉を聞き終わり。シシルは、視界が暗転するような眩暈に襲われた。夢に見るような、未来絵図。しかしそれを現実に示されると、吐き気にも似たおぞましさを覚えた。自分の幸せを誰かに作ってもらおうなんて、そんなことを望むはずもないのに。どれほどの犠牲が、悲しみが、積み重ねられてきたか。それをジューヌが、知らないわけもないはずなのに。
「ラザールさま、今すぐ降ろして。ジューヌさまを説得しなきゃ!」
「なにを? どう説得する?」
 背後の壁越しの問いに、一瞬詰まった。
「会えば……」
「会って、話せば? 陛下はきっと、シシルの希望なら何でも聞くよ。俺を司令官に戻してくれるかもしれないし、カトリノーのおっさんを召し上げるのを考え直されるかもしれない。この国は、シシルの思うがままだ」
「自分の意志で。もしも皇帝になるなら。国の、みんなのための皇帝陛下にならなきゃ。もしそれができないならば、皇帝になんて、ならなくていい……」
 ラザールは、しばらく何も言わなかった。一定のリズムを刻み、馬車は穏やかに揺れながら進み続ける。オリーブの甘やかな香りとハッカの冷ややかな匂いが、開いた窓から混じり合って流れ込む。
 ジューヌさまを皇帝にしようとしたのはシシルなのに。皇帝にならなくていい、なんて言ってしまった。ラザールは呆れて、自分との問答を止めてしまったのかもしれない。そう思い、落ち込んでいたところ。シシル、と。背中の壁をノックされ、突然声を掛けられた。
「それでいいと思う。それが、正しい理想だと思う。今も昔もこれからも、シシルはずっと正しい理想を守っていなさい」
 まるで、ラザールらしくない声音だった。穏やかで誠実で、断固としている。ずっと昔、当時の宰相だった父が王子たちに教えを授けるときの口調、そんな口調を思い出した。女の自分には決して与えられることのない、真剣な教え。
「きっと現実は、正しい理想を裏切るけれど。アンドレはシシルのためだけに皇帝になるだろうし、もういまさら元に戻ることなどできはしないけれど。でも、シシルは正しい理想を守りなさい。それは俺にも、カロルにもできない、シシルに課せられた使命だよ」
 ラザールの言葉に、シシルは消沈した。その穏やかで、確固たる言葉は、あのヴィルトールの公子の軽薄な軽口より、ずっと重く感じられた。
 ジューヌは、変わってしまったのだろうか。想ってくれるのは、うれしい。だけど。ポドールイのジューヌは、違ったと思う。村の皆に慕われて、子供たちに人形劇をやってあげたりして、確かにポドールイの村の皆のことを、愛していたはずだ。
 遠慮がちに、髪を梳いてくれた仕草を思い出す。どこかに隠れてしまったり、人形の振りをしたりする、情けないジューヌの様子を思い浮かべる。ずっと優しかったけれど、こんな風にシシルを閉じ込めておこうとなんて、したことはなかった。
「こんな、ジューヌさま……」
 シシルの溜め息が、届いたのか。あるいは独り言かもしれない。背中の壁を伝って、ラザールの呟きが聞こえた。
「シファが言っていた。皇帝陛下は亡霊だと。言い得て妙だと、俺も思った」
 ジューヌの執念はもはや怨念に近い。シシルの幸せのために、周りも自身も、シシル本人までも犠牲にする。違う。嫌だ。ラザールはそんなことを言っていない。すっかり、物事を悪いほうに読み取る癖がついてしまった。シシルはまるで子供みたいに、両側から長い髪を引っ張って、顔の前でぐちゃぐちゃに縒り合わせて纏めてみた。
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