ポドールイの人形師

7−7、偽者たち

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 明るい金色を肩に流す、その華奢な人物が、誰なのかはわからなかった。だが真っ黒なマントを纏っても、赤白のとぼけた仮面を被っても、それが本物のジューヌでないのは明らかだった。
「あれがジューヌです」
 ナシャの抑揚のない声が、いつにも増して無感情に響く。怒りよりも失望が先に立ち、偽者を見ようか人形を睨もうか、視線の先すらも定まらない。半ば自失していたシシルの脇を、黒いマントが抜き過ぎる。大きな方の偽者だ。仮面を外し、向こう傷の赤ら顔は露わになっている。ちらりと見えた横顔は、口角だけが不敵な歪みを作っていた。
 赤ら顔の偽者は大股に進み出ると、問答無用で華奢な偽者に拳を振るった。頭部を狙った突然の攻撃を、華奢な偽者は背中を反らせて間一髪で器用にかわした。だがバランスを崩した足元が、すぐさま大男の足に薙ぎ払われる。尻餅を付いた偽者の仮面に、そのまま容赦ない蹴りが打ち込まれた。
 一方的な暴力に、シシルは眉をひそめる。顔を背けることはしない。もう何も、見逃したくはなかった。軽い音を立てて、仮面が割れた。口の中を切ったのだろうか。唇の端から流れる、紅い筋にまず目が行った。真っ白な肌に、新鮮な血の色はよく映えた。やがて意識は、仮面を外した偽者の顔の全容を捉える。目つきの鋭い、凄絶なほどの美貌があった。
「阿呆らしい。感謝しろよ、ミカエル殿下。ジネディ兄と、リュック兄を殺したおまえを、俺はたったこれだけで許してやるんだ」
 三人目の偽者は、偽者の皇帝のミカエルだった。文句も言わず、ミカエルはマントの裾で口元を拭った。長い黄金の髪が乱れたままだ。なぜ、ミカエルがここにいるのだろう。自分たちは、ジューヌは、今このミカエルと戦っているはずなのに。
「シシル、そんな変な顔をするな」
 ラザールはマントを脱ぎ去り、それを敷布にして地面に腰を降ろした。
「シファは自分が生き残るために、アンドレに従った。俺はカロルを護ってもらうため、アンドレの言うことを聞いてやった。アンドレを演じて、シシルを引き止めること。のこのこアンドレに助けを求めたミカエルが、許しを得る条件がそれだった」
 何か反論しようとしたミカエルを、ラザールは座ったままに殴り付けた。握り締めたままの容赦の無い拳を受け、白い頬が紫色に変色する。顎がぶれただけで傍目衝撃は少なく見えたが、鈍い音が痛そうだった。ミカエルは表情を崩さぬまま、黙り込んだ。
 五年前に会ったときとは見違えて、ミカエルは大人び男らしい鋭さを纏っている。そしてその張り詰めた強さと同じ分だけ、儚げに見えた。紫の痣も、わずかに浮かんだ眦の涙も、惨めさではなく、ただその美しさを引き立てる。ラザールは自らが傷つけた美しい青年には目もくれず、薄笑いで目を伏せたまま、上目遣いに視線だけを人形に送った。
「馬鹿げてるよなぁ、皇帝陛下。俺たちの望み、そんなのどうだっていいんだろう。カロルは絶対無事だろうな」
 背後に物音がした。ミカエルが目を瞠らせた。振り向くと、とぼけた赤白の仮面の道化がいた。銀の髪。背の高い。首元や手のわずかに覗く肌の色は、ロアンヌ人よりやや暗い。本物と同じだった。ジューヌさま。シシルは、名を呼ぼうとした。
「シシル、騙されるなよ」
 意地悪な調子で、ラザールが呟いた。ラザールの言葉に刹那躊躇し、それでもその人の名を音に乗せようとしたところ、先に赤白の仮面が言葉を発した。
 聞き取れない、異国の言葉だった。声音はジューヌに似ていたが、少しおどけた言葉尻は、ジューヌにはありえないものだ。よく似た姿の偽者は、仮面を外した。髪の色や、彫りの深い顔立ちや、それらはとても良く似ていて、だが明らかに違っていた。目の色はジューヌの明るい蒼ではなく、瞳も虹彩も、同じ真っ黒に塗りつぶされている。本物よりも、偽者は少し瞳が大きすぎる。そのせいか、どこか幼い顔立ちに見えた。シシルに向けられる屈託のない笑顔は、ジューヌには出来ないものだった。
 不可解な存在に、シシルは失望と自失が入り混じる、不思議な感覚に陥った。思わず呆然としていると、シシルはなにか小さなものにスカートの裾を引っ張られていた。
「はるか東の、異教徒の国の王子さまだそうです。はるばるご兄弟の方を助けに来たと、ナシャさんが通訳してくれました。この場合の兄弟というのは、親戚、あるいはもっと広い意味で、同胞、くらいの意味のようですが」
 小さな偽者――シファ――が、明晰な言葉に小さな悪意の逆刺をまぶして、丁寧に紹介してくれた。
 あけすけな笑顔を満面に造って、異教徒の偽者は大量の異国の言葉を吐き出した。渾然と絡まった発音は、意味が取れないばかりか、それを意味ある言語と思うことにすら抵抗を覚える。唇の先だけで抑揚なく――それでいてばかに気安げに――紡がれていく単調な旋律は、せいぜい呻き声にしか聞こえない。良く似た顔で、けれど人を見下したような笑顔を張りつけて、良く似た低音で、おぞましい呻きを垂れ流す。
 胸が苦しくなった。シシルは笑顔を造った。
「ロアンヌの言葉は、わかりませんの?」
 偽者の言葉を遮り、少し気取った調子で訊ねてみた。言葉が通じる通じないに関わらず、空気は伝わるであろう。他国の王族と、ロアンヌの貴族の娘の、社交の場だ。偽者は戸惑ったように口を噤む。代わりにシシルの笑みにつられるように目尻の端に皺を寄せ、人懐っこそうにほころんだ。
 ジューヌなら……。ジューヌはいつもとぼけた仮面を被っていて、笑顔を見せてくれなかった。シシルは怒ってばかりいて、笑いかけてあげたことも、あまりなかった。
「ジューヌさまなら、どんな顔をしてくれるのかしら」
 偽者に、言葉が通じないようだということを良いことに、シシルは思ったことをそのまま口に出して言ってみた。恥ずかしいげに俯き、慌てて仮面を被り直す。そんなジューヌを想像して、思わずシシルは苦笑を零す。しかし何を勘違いしたのか、一層相好を崩し笑顔を押してつけてきた偽者に、シシルはげんなりさせられてしまった。
 白いドレスの両端をつまみ、片足を少し後ろに退いて、シシルはお辞儀をしてみせた。
「ロアンヌはあなたを歓迎しません。神に見捨てられた異教徒の力を借りるほど、落ちぶれるつもりはありません。帰って下さることを望みます」
 シシルは拒絶の台詞とは裏腹に、声音は相手に少し気を持たせるような明るい調子で言葉を紡いだ。さらににっこりと笑ってみせる。偽者は、異国の言葉で上機嫌になにやら囁き、場にふさわしい笑顔を返した。ナシャが異教徒の言葉で、偽者に向かって鋭い語調で何かを言った。シシルは異教徒に再び優雅に礼をして、欺瞞に満ちた挨拶を締める。同じ笑顔を湛えたまま、シシルは人形に視線を向けた。
「わかりました。もうジューヌさまのことなんて知りません。出てきてくださっても、お話なんて聞きませんから」
 台詞とも、感情とも合致しない穏やかな声音が、すらすらと口についた。もうナシャには頼らない。呼び掛けて、応えてくれることなどあてにしない。自分一人で見つけ出す。異教徒の王子に対した余韻が、偽りの言葉を平気で紡ぐ支えとなった。
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