ポドールイの人形師

7−9、並ぶ足並み

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 早朝の、まだ暗い時分だった。ラザールは長い足の真っ黒な騎馬に跨り、紋章の入った将服に白いマントを翻し、れっきとした軍人の格好をして、ラウランの私兵数百を率いて先発した。ダルジャントー卿もようやっとカトリノー司祭の家庭教師を解放され、ラザール将軍の隣りについた。轡を並べながらも、互いに全く視線を合わせようとしない。二人の確執はまだまだ解けていない様子だった。シファの姿は見当たらなかった。一緒に行くと言っていた。ラザールの懐に入り込むことができたのだろうか。将服の背中にラザールが背負っていた、大きな革袋が不自然だった。
 ラザールたちが静かに陣を発ったのは、皇帝軍の農兵たちがまだ目を覚ましてもいなかった時間だった。寝ずにいたため気付いたシシルは、必死に一緒に行きたいと懇願したのだが、小屋の布張りの小さなほつれの隙間から見送らせてもらうのがやっとだった。人形に手を握られて、陶器の枷で、逃げられないように繋がれているようだった。
 日が中天に昇り切ってから、本軍である皇帝軍も編成を組んで、都攻めを開始した。万を数えた徴兵軍は、今ではおよそ半数までに消耗してしまっている。それでも隊列を組んだその光景は壮観だった。空は真っ青に晴れ渡り、太陽は低く大きく輝いている。遅れて異教徒の援軍もくることになっていた。全てを合わせるとどれほどの大軍になることであろうか。

 皇帝軍が動くというのに、反乱軍の皇帝自身の姿はない。万にもなろうかという大軍を、美しい白馬と、葦毛の小馬が率いていた。
白馬の騎手は、銀の鎧の美しい青年だった。長い黄金色の髪を吹き付ける風になびかせる。左頬に薄い紫の痣が残っていた。だがその視点の角度をほんの少し右にとり、白皙の貌の左半分を陰にしてみればどうだろう。一点の綻びもない鋭い美貌が現れる。聖画の大天使を地上に降ろし、その六枚の羽根をむしりとれば、この儚く鋭い美しさを映すことができるだろうか。青年の姿は、そのまま描き得ぬ一枚の絵画だった。
 葦毛の小馬には、ほの淡い金糸を纏めて胸に抱いた白いドレスの少女が、背を真っ直ぐに伸ばして横乗りに座っている。少女は白馬には背を向けていた。騎馬も質素な装いも、白馬と銀の鎧に比べると数段格が落ちるように思われる。だが少女が自ずと放つ輝きは、美しい青年にも全く劣らぬものだった。みすぼらしいずん胴の小馬も簡素な白い一衣のドレスも、むしろこれ以上なく少女の華やぎを引き立てる。
 そんな二人を乗せた二頭の馬の手綱を、一人の女がまとめて握っている。女の古びた長いドレスの凝った紐飾りは、ほとんどが解け、あるいは千切れてしまっていた。陶磁のような白い肌の造り物のような精緻な顔には、何の表情も浮かんではいない。
「ナシャさん。この子はおとなしい馬ですから、ひいてもらわなくても平気です」
「人形、馬くらい自分で乗れる。手綱を離せ」
 馬上の二人はそれぞれに、女に手綱を離すよう訴えている。女はまるきり無視を決め込み、二本の手綱を握ったまま歩きつづけた。

 人形が手綱を離してくれないもので、大きな白馬と葦毛の小馬は、付かず離れず徒歩の速さで歩み続ける。背中を向ける少女との距離感に、ミカエルは息が詰まる思いだった。
「すまなかった。俺を許してはくれないか」
 ミカエルはふと零していた。自身でも思いがけない言葉に、顔が熱くなり、ラザールに殴られた左の頬が少し疼いた。目の端で隣りを盗み見ると、長い髪を前に抱きかかえた少女の白いうなじが目に付いた。柔らかな後れ毛が、真っ白な首筋をどこか無防備に見せている。その小さな背中しか向けてはもらえないというのに、胸の痛みを抑えられないのは、想いが本当だった証拠であろう。
「あたしに、ミカエルさまに許しを与える権利なんてありません。もうなにも恨んでもいませんし。ただ、どうか話し掛けないで下さい」
「それで俺を許したつもりか、傷つくなぁ。殺してやる、って言われた方がましだよ」
 また、思うより先に言葉が口についてしまった。少女は一瞬、細い肩を震わせた。
「突然不自然に真摯な言葉を言うかと思ったら、今度はおちゃらけるのですね」
 先のすげない言葉よりさらに、抑えた調子のずっと冷たい声だ。
「すまない」
 ミカエルは俯き、馬の腹を軽く蹴った。白い馬はブルンと小さく鼻を震わせるが、特に足を速めるでもない。遅い歩調に長い足を大儀そうに交互に繰り出す。舗装された硬い道は、単調なアンダンテの蹄の音を、高く空に響かせた。
「自信が持てなくて。ロセンサルなら、リリアンならと考える。許して欲しい。謝りたいのも、傷ついたのも、本心なんだ」
 少女は顔を自身の体から見て横に、ミカエルたちの進行方向に向けた。豊かな金糸が邪魔をして、まだその横顔をつぶさには見ることは適わない。大きな翠の瞳が肩越しに、ミカエルに視線を向けてくれたことは、なんとなく感じられた。
「無知で、無力で、信じていたことさえも間違ってる」
 少女のあまりに率直な非難に、ミカエルは俯いたまま、ほんの少しの自嘲するのがやっとだった。
「その通りだ。俺は兄貴が嫌いだった。才能があって、期待されて、あいつは全てを持っていて、そのくせその全てを無駄にして、俺に憐れみをかけるんだ。師に認められたかった。皇帝になりたかった。シシルを望んだ。どれもただ、兄貴のものが羨ましかっただけかもしれない。手にする資格もないのに。力もなかったのに。全てを失うなんて、こんな行く末も知らなかった」
 少女はいつの間にか馬に跨って乗っていた。スカートで足を開いた、はしたない姿勢だ。慣れないようで横乗りよりも安定が悪く、長い白金の髪を乱して、少女は小馬の短いたてがみに必死に掴まっていた。見ていられなくて声を掛けようとしたところ、不意に少女と目が合った。
 ミカエルは発する言葉が思い付かなかった。出来すぎた人形のようと思っていた少女の精緻な顔に、ミカエルの見たことのない、柔らかな笑顔が咲いていた。バランスの悪い、落ち着かない格好。顔は笑みにほころんでしまっている。顔の半分、乱れた髪がべったりと貼りついていた。作り物のような精緻な美貌が台無しだ。それにも関わらず、抗いようもなく、ミカエルの心は再び奪われた。
「違うよ、無知で無力なのはあたしのこと。今の状況だって分からない、なぜミカエルさまがここにいるのかしら。カロルの力になるって言ったのに。ジューヌさまを説得するって決めたのに。もう姿さえも見失っている。あるべき理想すらももう、わからない」
 いよいよ体勢を保てなくなったらしいシシルは、完全に小馬の首に抱きついた。少女は縮れたたてがみに顔を埋める。そのままなかなか顔を上げない。
「あたしたち、似ているのかもしれないですね」
 顔を埋めたままのくぐもった声だった。聞き間違えだろうか、と思う。シシルとの間に流れるそよ風に掻き消され、不明瞭な言葉は消え入っていた。例え思い込みだとしても、ただその一言に、胸の奥の氷が溶け出しとめどもなく流れ出すような感覚に襲われる。ミカエルは、その溢れるものを抑える術を持たなかった。
「それでいいんだろう、おまえは。黙って座って、目を開けたまま何も見ない。それが人形の仕事だ。笑う必要だってない。綺麗な服も、理想の世界も、兄貴は必ず造ってみせるさ」
 シシルは顔を上げて、ミカエルを見据えた。翠の眼差は怒りに満ち、真っ直ぐにミカエルを射抜いている。いくら美しい造作であっても、こんなやっかいな目の人形は、アンドレとておいそれと飾ってはおけないだろう。
「気持ちはわかるよ。シシルは人形なんかじゃない。動けなくても見えなくても、俺たちは自分の意志を持っている。……そうだな、知ってることは教えてやるよ。無力でも、なにもできないなんてないはずだ」
 都の門が見えてきた。馬足は遅いが、長話の時間もないだろう。

 今城は、北のプリィスという国の軍隊に占領されている。プリィスの王を知っているか。王は、ルーテル・ド・ジュティエールという。ロアンヌ読みだとな。俺はプリィス読みで、ローター王と呼んでいる。それが凄い人なんだ。ローター王のたったの一代で、次々に回りの国を征服して、プリィスという小国をロアンヌに匹敵する強国にしてみせた。俺は前の皇帝、俺の親父の頼りない政治は嫌いだったし、前の宰相、シシルの父親のまどろっこしいやり方も真似たくなかった。だからロアンヌという大国の皇帝として、プリィスの王の強さに憧れていた。いつか会ってみたいと思って、プリィス語を独学してたくらいだ。
 まさかあんな形でその願いが叶うなんて、思わなかったけどな。
 俺はプリィスのローター王のようにはなれなかったから、宰相は、ヴィルトールは俺に見切りをつけたんだと思う。叛乱軍に敗北する前に、あるいは国が瓦解してロアンヌが外国に滅ぼされる前に、宰相自らプリィス軍を引き入れたんだ。国中から掻き集めた帝国軍をリリアンに率いさせて都から離し、プリィス軍に戦うこともなく都を占領させた。
 今考えると、だけど。ヴィルトールはロアンヌの王になろうとしたんだろう。プリィスの属国としてのロアンヌの、施政権を握ろうと思ったのだろう。だけどヴィルトールの誤算は、ローター王を計りきれていなかったという事だ。俺だって分かるのに。ローター王のやり方は、ロアンヌの打算や策謀が通じるようなものじゃない。敵味方なく、強い者は称えるし、裏切り者は殺す。その清冽さが、あの王の強さだ。内通の報奨として、プリィス王はヴィルトールに死を賜れた。城の者はヴィルトールの一味として、尋問もなく皆殺しにされた。生かされたのは俺と、あと大司教アルトワだけだった。プリィス人は信心深いから。聖職者と、君主を殺さない。王が神から選ばれた者だという聖典の解釈は、このロアンヌから始まったものなのに、プリィス人のほうがその思想を護っている。ロアンヌの宰相がロアンヌの皇帝を殺そうとし、プリィスの王がそれを許さなかった。
 そうはいっても、俺はずっと眠らされていて。気付いても、寝たふりを続けてたんだけれどな……
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