ポドールイの人形師(番外)

悪魔の子

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 その闇の活動から悪魔の使者の異名を持つ男。
 ロアンヌ七選帝侯の一人、ヴィルトール侯爵は今悩んでいた。
 サン・フロランに自分に隠し子がいるというとんでもない醜聞が、宮廷中にまことしやかに流れているのだ。
 心当たりが多すぎて、だれとの子なのかも特定できない。だがとりあえず、自分のまいた種なのだ。しかたがない。自分で刈り取りに行くしかないだろう。
 そう思い立ったヴィルトール侯は、鞘に黒い鷲の紋章が描かれた飾り剣を手にとって、ひさしぶりにサン・フロランに出かけることに決めたのだった。

・・・

 母は亡くなった。
 彼女は娼婦街、サン・フロラン通りで働いていた。社会的には最下層に位置する人かもしれなかったが、母としてはよい人だったのではないかと思う。彼女は何もしてはくれなかったが、リリアンを人並みに愛してくれていた。
 その後収容された施設。
 施設とは名ばかりで、そこは壁と屋根があるばかりの、子供たちの共同生活の場だった。環境は劣悪だったが、不幸とは思わなかった。周りの子はみな平等に食べるものがなかったし、境遇が同じこともあって、兄弟のように仲がよかった。
 ただ生かすだけ。ときにはそれさえ放棄する。病にかかった子はたやすく死んだ。
 施設はリリアンたちに何も与えようとはしなかったが、母と暮らしていたときと同じ程度に、リリアンは現状に満足していた。
 そんなリリアンの日常に、土足で踏み込む者がいる。
 みすぼらしい衣装で身をやつしていたが、男は、どこかリリアンたちを別の高みから見下ろしているようだった。侮蔑でもなく、哀れみでもない。街に似合わぬ異質な空気に、彼がサン・フロランの人間ではないことは一見して見て取れる。
 とはいえ、彼が振りまいた、あめ玉やケーキや、高価な砂糖細工のお菓子に、子供たちはすっかり舞い上がり、骨抜きにされている。疑おうとする者はいない。男の正体に気をとめる者すらいない。
 リリアンを含めて、もっとも弱く、社会の奈落まで落とされた彼らは、もはやそれ以上に堕とされることなど、怖れる意味がないのだ。

「リーリアン、ほら。あまーい」
 リリアンより一つ年上の少女――彼女は九年前、赤ん坊の頃から施設にいるらしい――が、リリアンの腕にしなだれかかり、耳元で息を吹きかけるように囁いた。風呂に入っていない少女の体臭が、気だるげにリリアンの鼻につく。
 見ると平民らしからぬ、長い綺麗な金の髪を纏った彼女は、片頬を膨らませてあめ玉を転がし、同時にケーキを頬張っている。かわいいピエロの形に細工された砂糖菓子は、さすがに食べてしまうのは忍びないらしく、しっかり彼女の手の中に収められていた。
 妖艶で幼くて。どこか亡き母の面影を想起させるこの少女は、施設に入ってよりなにかとリリアンにかまってくる。
「あの変なおじさん、きっと天使様なのね。かわいそうなあたしたちに、神様が贈り物をくれたのよ。お願いしたら、また来年も来てくれるかしら」
 後ろに回り、意味なく細く白い腕をリリアンの首に絡め、おそらく他意なく、媚びるような口調でリリアンの耳元に言葉を置いてゆく。垢の詰まった、少女の長い爪に頭をつままれ、首吊り状態になった砂糖のピエロが、哀れにゆらゆらリリアンの顔の前で揺れていた。
「余計な期待はしないほうがいい。この世の中、代償なしで贈り物をくれる、酔狂な人間なんていやしないよ」
 首だけ振り向くと、思ったとおり、唇をクリームで汚した少女は、重たげな睫毛を半ば伏せ、眉間に皺を寄せている。リリアンの肩上に顎を乗せると、さらにリリアンの首もとに端正な顔を近づけて、少女は不満そうに唇を尖らせた。
「リリアンって子供のくせに夢がないわね。もっと人を信じないと、幸せにはなれないわよ」
 無防備に、夢見、縋るように人を信じつづけ、それでも母は死ぬまで幸せにはなれなかった。おそらくこの少女も、母と同じ人種なのだろう。
 首をもたれかけ、それでも抵抗しないリリアンに少女は満足したらしく、甘い吐息を一息漏らした。長い髪が、リリアンの首筋をさらさらくすぐる。きれいな髪だが、おそらくここにも、蚤がたくさん住んでいる。
「マノン。とにかく、離してくれないか」
 溜め息を織り交ぜて、リリアンはたくさんの言葉を省いてそれだけ言った。
 少女――マノン――は目を細め、なんでよ、と呟き、リリアンの首に枯れ枝のような細い腕を絡めなおす。
「あの変なおじさんのとこに行かなきゃ。僕はまだ『天使様』に、贈り物をもらっていないんだ」
 リリアンがそう言うと、マノンは嬉しそうにくすくす笑い、首を縛る白い腕を解いてくれた。


 『天使』のおじさんはあいかわらず、お菓子を振りまき、たくさんの子供たちをはべらしていた。
 樽のように大きなお腹に、ガスパーがゴキブリのようにしがみついている。『天使』は嫌がる様子もなく、ガスパーの頭に袋ごと、あめ玉の雨を降らせていた。

「君! 君がリリアンだね」
 リリアンが近づくと、『天使』は破顔し名を呼んだ。この男に名前を知られる覚えはない。訝しんでリリアンが『天使』の窪んだ瞳を凝視すると、『天使』は張り付くガスパーを無造作に振り払い、自らこちらのほうへと寄ってくる。
「やあ、リリアン。はじめまして。私は君のお父さんだ」
 『はじめまして』で天使様は気違いじみたことを口走る。いかにも明るい口調で告げる自称『お父さん』の目の奥は、声とは対照的にまったく笑ってはいなかった。
 鏡を見ているような、嫌な違和感に寒気を覚える。リリアンは一つ、ぶるっと背筋を震わせた。

「私は愛した女は忘れないんだ。君のお母さんの名前はカリーナ、だろ? 君にも面影が残っている。そしてそれを知っている、私が君の父親だ」
 狂人じみている。だがこの悪質な冗談に、リリアンはしばしつきあってやることにした。『お父さん』はどこか、他人とは思えないところがある。
「『お父さん』のお名前は? 母は僕の父の名は、リュック・ド・ラウランだと教えてくれました。どこか遠い場所で、司教をやっていると聞いています」
 純潔を守るべき聖職者が、娼婦の母を孕ませたというのも、妙な話ではあるのだが。
「なつかしいな。それは私が昔使っていた偽名だよ。悪いことをする時は、いつも嫌いな人間の名を借りていた。私の名前はティエリ・ド・ヴィルトール。身分の高い貴族だよ」
 母との行為が悪いことだと。正直な物言いに、リリアンは思わず失笑を漏らす。
 そのあと明かされた、自慢にも取れかねない身分さえ、本人は事実を言っているだけのつもりなのだろう。
「それで、『お父さん』。身分の高い貴族様が、悪いことをした結果生まれた僕に、いまさらなんの用ですか? まさか迎えにきたわけでもないのでしょう?」
 嫌味をたっぷり込めたリリアンのからかいに、再び破顔し、『お父さん』はうれしげに言葉を紡ぐ。
「そう。よくわかっているじゃないか。賢い子供は嫌いじゃない。君は私の昔の失態の証のようなものだからね、尻拭いに来たというわけだよ」
「僕があなたのウンチだとでも?」
 笑みを含み、リリアンは『お父さん』にそう問うた。すると肉厚な手がリリアンの脇の下に差し込まれ、持ち上げられる。同じ高さに並んだ『お父さん』の窪んだ目が、射るようにリリアンの瞳を見つめていた。
「ああ、そんなものだな。君は社会のゴミだ。母親も苦しめたろう。私にも多分に迷惑をかけている。だが私がまいた種だからね、わざわざ始末をつけに来てあげたんだ」
 リリアンはずっと不思議だった。蒙昧なほどに無垢だった母から、なぜ自分のような人間が生まれたのか。
 なるほど、この邪悪で傲慢な男ならば、あの母と足して二で割っても、自分程度の者ができるだろう。いや、おそらく、この男でしか、ありえない。
「お父さん?」
 知らずリリアンはその言葉を漏らしていた。ただ狂人と言葉遊びをしようと思っただけなのに、自身で言ったその言葉が馬鹿みたいにすうっと染み入り、おかしな気分になってしまう。
 なんだい? そう言ってにやりと笑う、このいかれた天使は、おそらく、本当に自分の父なのだろう。

「お父さん。でもそれはお父さんで自分で母さんに植え付けた種でしょう。それが育ってお父さんに迷惑を掛けたとしても、それはお父さんが悪いんです。僕になすりつけられても困ります。そういうの、自業自得、っていうんですよ」
 『お父さん』を連発し、サン・フロラン流に、あからさまに下品に皮肉る。さて、この父に、罪の意識は生まれるだろうか。抱き上げられたまま、くつくつ笑うリリアンに、お父さんは驚いたように一瞬表情を消してみせる。だがやがて、にやりと笑みを返してくれた。
「悪い子だ。冥府で私を呪われても厄介だから、自分で悔いて、心置きなく死んでもらおうと思ったのに。だが繰り返すようだが、賢い子は嫌いじゃない」
 そう言うと、お父さんはリリアンを降ろし、紋章の入った豪奢な鞘から、細い剣を抜き出した。お父さんに殺気が感じられないので、その様子をぼおっと見ていると、リリアンは抜き身の剣を、いきなり胸に押し付けられた。
「宿題をあげよう。私は君も邪魔なのだが、君を知るすべての人間も邪魔なのだ」
 お父さんは目線をずらし、自分の撒いたお菓子に群がる子供たちを、静かな笑みで見渡した。
「邪魔なゴミのお片づけをしなさい。明日また会いに来る。それまでに答えができていたら、君を、私の駒に認めよう」
 ただ剣のみを預け、お父さんは去って行った。

 だらりときれいな剣を垂らし、リリアンは呆然と立ち尽くしていた。飾り剣とはいえ、小さなリリアンにはちょうどいい大きさに思われた。
 服いっぱいにお菓子を詰め込んだガスパーがこちらに気付き、なにか話し掛けてくる。
「おい、リリアン、どうしたんだ? あのお菓子のおっさん、行っちゃったのか? あれ、その剣……」
 リリアンはガスパーに剣を振るった。
 宿題をしなければならなかった。剣の切れ味は、とてもよかった。

・・・

 時間潰しに馴染みの娼館によっていたら、つい夢中になってしまって、本来の目的を忘れていた。息子を待たせているかもしれない。
 むしろその方が、彼の命が永らえる分、親切なのかもしれないが。
 黒鷲の紋章の施された、空の剣鞘を弄ぶ。かわいい息子に渡された剣は、誰の血を吸い、ここに戻ってくることになるのだろうか。

 日も沈みかけた頃、ヴィルトール侯は今日もたくさんのお菓子を用意して、ようやくサン・フロラン孤児院に顔を出した。サン・フロランの孤児院は、ロアンヌの都、パリスの数ある孤児院の中でも、とりわけ悪名高い施設だった。
 こんなお菓子で、子供たちにずいぶん喜んでもらうことができるだろう。ヴィルトール侯は基本として、子供好きだった。
 敷居をまたぐと、ヴィルトールは血臭に少し、眩暈を感じた。
「やあ、お父さん。遅かったですね。見捨てられたかと心配してました」
 一日ぶりの、愛しい息子の声を聞いた。あどけない、カリーナの可憐さを存分に受け継いだ、リリアンの幼い顔が、斜陽に照らされ、薄紅に翳っている。
 その小さなリリアンは、右手に血を滴らせた飾り剣を。左手には、長い金の髪が掴まれ、その先で少女の頭部がひきずられていた。
「がんばってお片づけをしたんですけどね、一番汚いゴミだけ残っちゃいました」
 そう言ってリリアンは、あどけない顔に凄惨な笑みを造る。首を傾け、まっすぐヴィルトールに向けて剣を指し示した。
「私が一番汚いゴミだとでも?」
 少年の行為に戦慄を感じ、ヴィルトールは自分の声が、わずかに上ずったのを自覚する。
 しかしリリアンは、それが予想外の問いだったかのように笑みを消し、訝しげに目を細めた。
「いいえ、汚いゴミは僕のことです。もともと汚かったのに、また血を浴びて、こんなに汚れてしまいました」
 ずるずると少女の頭を引きずって、リリアンはヴィルトールのもとへと寄ってくる。リリアンの通った跡には、紅の帯が、長く尾を引いていた。
「でもマノンもガスパーも、殺してもなんにも感じなかったのに、僕だけは死にたくなかったんです。だからもしも、お父さんがこれで宿題ができたことにしてくれないなら、しかたがないからお父さんも殺してしまおうと思っています」
 言うなり、鼻先に剣が突きつけられる。夕日に染まったリリアンは、泰然たる視線で自分を見上げ、微笑んでいた。
「さ、僕の宿題は合格ですか?」
 狂気に染まる、見事な交渉術。これは、ヴィルトール家のやり方だ。
「……ああ、見事だ」
 ヴィルトールはしゃがみこみ、リリアンのか細い体をひしと抱きしめた。肌を伝い、少年の昂ぶる動悸が感じられる。血の味を知ってしまったのだ。まだ、飽き足らないのだろう。
 自身にも向けられる刃の危険が感じられたが、この子を得るためなら、そのくらいはなんでもないように思えた。
「君は今日から私の息子。悪魔の使い、ヴィルトール家の一員だ」

 黒鷲の紋章の入った剣鞘は、ヴィルトール侯よりリリアンに下げ渡された。
 血も拭かず、リリアンはたどたどしい手つきで、その鞘に飾り剣を収めたのだった。
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