ポドールイの人形師

6−2、烏紋と雪十字

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 シシルは河原の、柔らかい草地に直接お尻を下ろしていた。少し湿った葉っぱは瑞々しく、座ってしまっては白いコートに色が移ってしまうだろう。取り返しがつかない。それに、行儀が悪い。足もとの石ころを見ていると、少し落ち込んでしまった。視線を上げると、山脈に程近い河はまだそれほど広くなく、向こう岸の景色が目に届く。こちらの河原と様子は同じで、なぜだか居たたまれなくなった。少し俯き気味に、目の疲れない高さに視線を合わせる。焦点が合うと、澄んだ水面がゆっくりと流れていた。
 頭の中がぽうっとしてしまって、なにやら靄がかってしまった感じなのだ。大切なことを考えようとすると、霧散する。どうしようか。ドロティアが、行ってしまった。訊ねる人はもういない。河の流れは穏やかで弛みなく、時の過ぎるのを忘れさせてくれた。
「もし。お嬢さん」
 男の声が、すぐ近く横から聞こえた。陽光が遮られ、人の影が視界にかかっている。暗かった。男の声が軽薄で、不快だった。
「僕、こういう者だけど、お嬢さんは?」
 そう言うや、目の前に破れた上着が出てきた。汚れていたが、紋章だけが無傷で確認できる。烏紋。ヴィルトール家の紋章だ。なにを自慢げに見せてくれるのか。口ぶりに、行為の端々に、家格に見合う品位の低さが窺われる。下賎な人間を、相手になどしたくなかった。シシルは身じろぎもせず、男を無視した。
「……なんだい。君も人形かい?」
 続いた男の言葉に、思わずシシルは振り向いた。どうしようもなく腹が立った。
「シフ」
 相手の顔も見ずに、短くジュダ語を吐き付ける。続けてシシルは、腕を振るい烏紋の相手を四つに分けんと、縦と横、交わるように空を切り裂く。目を眇め、強い眼差で睨んだ先には、予想以上にぼろぼろの男が立っていた。シシルの自己紹介に、男は一瞬目を剥いた。
「雪、十字。ふーん」
 この下卑な男が、聖典のジュダ語を解することができると思わなかった。驚きの表情をやがて、人好きのする、無邪気を装う笑顔が覆ってゆく。よくできた笑顔だったが、いい加減シシルにも仮面を見破る目は養われていた。
「ラウランの、姫君か」
 シシルの目の鋭さに反応し、烏紋の青年は口元だけ善人の仮面を崩して、舌なめずりをしてみせた。たくさんの人形を抱えた、変な男だった。
「改めて自己紹介をしよう、僕はリリアン・ド・ヴィルトール。陛下がおまえを望んでる。来い」
 リリアン。そう名乗った男は、シシルを見下ろし、軽薄な倣岸さでそう告げた。応える気にもならず、シシルはぷいとそっぽを向いてやる。そんな態度にも、まるで無礼を改めるそぶりもなく、リリアンはシシルの目を反らした正面に回りこむと、しゃがみ込み無遠慮に視界に割り込んできた。
「聞いた通りの高慢な娘だ。僕は大嫌いだが」
 リリアンはずいと、腕の中から一体の人形をシシルの鼻先に押しつけた。
「俺と、来てくれ」
 それは白王子の人形だった。
「兄よりも、おまえを幸せにしてみせるから」
 綺麗に作り込まれた顔が、俯き曇る。憎んでいたはずの相手だったが、切なげな声に、少し情がほだされた。
「嫌です」
 シシルはミカエルに、返答を与えた。人形が取り落とされ、その背後からリリアンの嫌味な笑みが現れた。
「あーあ、ミカエルがかわいそうに。あんな心の繊細な子を、そうも残酷に袖にできる気が知れない。高慢な上に、意地の悪い姫君だ」
「その人形、どうしたの?」
 リリアンの俗な軽口を無視し、シシルは訊ねた。白王子のお人形。それはジューヌの一番大事にしている、宝物だ。
「それは口止めされている。もっとも態度の悪い姫君に、なにも教えるつもりもないのだけれど」
 リリアンはシシルの問いをいなしつつ、次の人形を押し出した。怜悧な顔の大人の人形。冷たい蒼い瞳の石は、壊れてしまったR侯爵と同じ輝きを放っている。艶やかな、黒い僧衣を着せ付けた人形だった。
「シシル。帰っておいで」
 優しく冷たい、声音だった。冷たく優しげな、リュック司教の言葉に、シシルは必死の思いで逆らった。もともと司教の声音は冷たかった。しかしたくさんの人の表情を見て、その見せかけの優しささえもシシルには向けられてなどいないことが、今ははっきりと感じとれた。
「ごめんなさい、待っている人がいるのです」
 怯えながらも、頑と拒んだシシルに、司教は一瞬責めるように蒼い瞳を光らせた。
「兄は。シシルのお父さんは、何を望んでいたのでしょうね。私はただ、愛する者たちを守りたかっただけなのです。それなのに最愛のあの子が、汚い兵士の服などで身を包み、おぞましく残酷な物を見せつけられ、戦場にあって、恨みに駆られ……」
 シシルは黙して、手を組み、目を伏せた。心の中で、ごめんなさいを繰り返す。戦場にいるカロルの、シシルは背中を押したのだ。カロルに、リュック司教を殺した恨みを晴らせと囁いた。
 その言葉は、シシルに気遣いが過ぎるカロルの心を慮ってのもののつもりだった。だが果たして心底、カロルを思っていたなら、そんな台詞を吐けるだろうか。自身の黒い感情に、勝手にカロルを重ねてしまったのではないだろうか。そのせいで、まるで似合わぬ格好で、およそそぐわぬ恐ろしい場所で、今もカロルは戦っている。シシルがいくら謝っても、リュック司教は許してなどくれないだろう。これ以上卑怯者にはなりたくなくて、コートの裾を強く掴み、シシルは必死で涙を堪えた。
 突然リュック司教の人形が、糸が切れたように力を失い、地に落ちた。草地に倒れた黒い僧衣の人形を、立ち上がったリリアンが突如狂ったように踏みつけ始める。大声で狂人のごとく笑いながら、リリアンはしばらくその行為を続けた。その様子を見つめるシシルは、夢から覚め、再び悪夢に紛れ込んだ心地だった。ひとしきり暴れ、リリアンはようやく落ち着いた。屈み直し、肩で息をしながら、シシルの顔を覗きこむ。
「偉そうにしているくせに、臆病だな。僕が助けてやったんだ、感謝しろよ」
 違う。驚いた、それだけだ。タイミングとして、屈辱的なものだった。堪えきれず頬に伝うものを感じたシシルは、慌てて袖で両目を拭った。
 次に出てきたのは、華奢なかわいい人形だった。みすぼらしい兵士服に身を包んでいるが、愛らしい顔つきと肩まで伸びる長めの髪で、それが女の子だと一目で分かる。
「シシル様、一緒に参りましょう! 私がついていれば、大丈夫です」
 大好きな声に、呼び掛けられた。ミカエルよりも司教よりも、シシルの心は揺らいだが、やがて首を横に振った。大好きなカロルであってすら、ダメなのだ。
「ごめんね、本当に。でもカロルに置いて行かれても、待っていなきゃいけない人がいるの」
 カロルが、優しくリリアンの足元に寝かされた。たくさん、話したいと思う。謝りたいと思う。でも今は違う。カロルじゃない。待っている人が、どうしても会わなければならない人が、別にいる。
 もう人形は、一つだけしか残っていなかった。
 リリアンのぼろぼろの袖に抱かれているのは、適当な造りの、とぼけた顔の、黒王子。
「ふう、お姫様、わがままだねえ。このお人形さんと話したいの?」
 リリアンが焦らすように、黒人形の頭をつまんで、ゆらゆら揺らした。想いを、抑えることができない。無理にでも目を反らして、下賎な烏紋の男など相手にしまいと思うのだ。しかし黒皇子のとぼけた顔から、どうしても目が離すことができなかった。顔まで及んでいるであろう胸の高鳴りを、隠す事すらままならない。
「ミカエルの兄。アンドレ・ド・ラ・ヴィエラ。人形遊びの好きな変人で、皇帝を定める選帝会議の直前に姿をくらます。以降ミカエルが帝位についた後、正体を隠してポドールイの小領主として隠棲する」
 ひとしきり語り、リリアンは黒王子を持ち上げた。
「シシル、一緒に行きましょう」
 ジューヌのなりを通して発せられた言葉は、その声音も、内容も、待ち人のものとはかけ離れたものだった。
 反射的に手が出て、シシルは黒皇子を叩き落とした。
「……ジューヌさまじゃあ、ない」
 シシルの半泣きの声に、リリアンは、にっこり笑顔を造ってみせる。
「やっぱりダメか」
 手をさすりさすり。ひどく大袈裟に手にふうふう息を吹きかけ、リリアンは痛そうに被害者を装う。
「だって僕はアンドレ皇子を知らないもの。宮廷時代を思い返しても、全くもって印象にない。だからいくら魔法の人形でも、姫君の望むアンドレ皇子は、演じられない」
 涙が溢れそうで、しかし敵を前に零すことも拭うこともできずにいるシシルに、リリアンは楽しそうに、声をあげて少し笑った。
 絶望に駆られてシシルが呆然としていると、地面に落ちた黒皇子がピクリと動いた。シシルとリリアン、二人の視線が注がれる中、人形が立ちあがる。おずおずと、人形のくせに情けない所作だった。
「シシル、もしかして、私を必要としてくれているのですか?」
 穴を穿っただけのとぼけた瞳で見上げて、黒王子は自信なさげに呟いた。歓喜が、胸の底から湧き上がる。この声、物言い。ジューヌにしては強気な言葉だったが、間違いなくジューヌその人だった。

「ジューヌさま……」
 ラウランの姫君と、勝手に動き出したとぼけた顔の人形が、しばらく見つめ合っていた。感動の再会だ。そう判断してリリアンがあくびを噛み殺して眺めていると、姫君がおもむろに口を開いた。
「卑怯です。ずっと見ていたのに人形のフリしていたんですね」
 突然ご立腹の様子の姫君に、少し虚をつかれる。次にリリアンが地面の人形のほうに目を移すと。
「ごめんなさい」
 くしゃっと体が丸まり頭を地に付けて、アンドレの人形は土下座の形で謝った。本当なら一目見て、このまま姿を消すつもりだった。でもシシルが自分を待ってくれていると言うので、つい出てきてしまった。続いた人形の言い訳に、姫君の白い頬は紅潮し、憤慨は余計に募っていくようだった。
「でも、良かったです。ジューヌさま、無事だったのですね」
 姫君が怒りを飲み込むように口にした言葉に、人形がようやく顔を上げる。
「ええ。無事でもないのですが、大丈夫です。それよりシシルに言いたいことが、あの、その、私は……」
「あたしも。ジューヌさまに謝りたいことがあります」
 いつの間にか、空気の色が変わっていた。もじもじしながら、姫君と人形は見詰め合って黙っている。リリアンは、そこら中が痒くなるような空気の中、三十秒くらい待った。自分にあるまじき、見上げた忍耐力だったと思う。
 しかしやがて、リリアンの我慢も切れてしまう。リリアンはおもむろに助走をとり、アンドレの人形のもとに走り込むと、川に向けて左の軸足を調整し、勢いのまま思い切り右足を振り抜いて足元の物体を蹴り飛ばした。陶器を蹴って、靴の上からでもつま先が痛い。程よい放物線を描いて、人形は河の岸寄りの流れにぽちゃんと落ちた。
「あ、ジューヌさま……」
 川の流れにかき消されていく、人形の落ちた水の波紋をじっと見つめ。姫君が、抜けた調子で呟いた。とりあえず、川の流れに消えたアンドレを引き継ぎ、笑顔を造ってみて、リリアンは甘い空気を演出してみる。姫君の両肩に手を掛け、向き合うように振り向かせた。
「姫、僕と結婚して下さい」
「死んでも嫌です」
 姫君は不快さを隠すことなく眉根を寄せて、しかし返事をしてくれた。リリアンはジュダ人に振られて落ち込んでいるというのに。ああ、とんだ茶番だ。
「まぁ、僕はとりあえず、アルビの城にいくからさ。雪十字のあんたも来いよ」
 疲れてしまって。笑顔を取り繕うのも放棄して、リリアンは投げやりに姫君に命令した。少し思案する表情を造り、やがて姫君もこっくりと頷く。おそらく、叛乱軍の残党もアルビにいるだろう。理性的な判断ができるようになったようで、なによりだ。
「ところであんた。名前なんだっけ」
「紹介が遅れたわね。シシル・ド・ラウランよ。あなたみたいな低俗な人間は好きじゃないけど、ジューヌさまがお世話になったみたいだし、一応お礼を言っておくわ」
「いや、いい。僕、あんた嫌いだし」
 シシル・ド・ラウランはつんとした表情のままでリリアンの言を無視してくれた。しかしアルビ城を見据える、大きな翠の瞳には、光が増したように見受けられる。姫君はすました表情を繕いながら、やけに機嫌がよさそうだった。
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