ポドールイの人形師

1-1、人形館

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 雪深いポドールイの地に居を構える、ジューヌという伯爵は少し変わり者だと言われている。かの館をその地の人々は、『人形館』と、そう呼んだ。

 錆びついて傾いた格子状の外門は、押しても引いても開く気がしない。仕方なく小さな体を折り曲げて傾いた格子の隙間をくぐり、敷地に足を踏み入れる。降り積もった新雪がスカート下のむき出しの脚をくすぐって、冷たいよりもこそばゆい。立ちあがると、冷えた風が肌を撫ぜた。髪が風に遊ばれ目にかかり、視界を白金に侵食する。乱れた髪を耳の後ろにかきあげると、日が差していないにもかかわらず、一面の白銀に庭は真っ白に光っていた。風がやみ、無気味な静けさが辺りに降り立つ。カラスが鳴いた。白い潅木から黒い鳥が飛び出しこちらを睨むと、屋敷の裏へと飛び去った。大きなカラスの金色の瞳に、少女は刺されるような恐怖を感じた。
 ここが、今日より少女の働く屋敷だ。雪に沈むその館影はまるで廃墟のようだ。混沌とした暗色に変じた外壁に、年月に歪んだガラス窓が並んでいる。天を突く窓を持たない尖塔は、なぜだか牢獄を連想させた。
 深い木目の縦に走る、大きな扉の前までやってきて、少女は途方に暮れた。扉だけで、少女の背丈の三倍、四倍はあるかもしれない。錆びついた把手のこの大きな扉は、外門と同じくどうしたって開きそうにはない。完全に閉ざされており、今回は少女の小さな体をどんなに折り曲げてみても、入りこむ隙はなさそうだった。
 どうしようもなく、外気の冷たさに身を竦め、錆びた金属がささくれ立った把手に手をかけると――。軋む音を立てながら、扉が、自ずと内へと開いた。

 薄暗い屋敷の内部は、玄関部分が、二階までの吹き抜けになっていた。明かりといえば、窓から薄明かりが忍び込むだけだ。一階と二階、二列に整列するガラス窓から、淡い光があまねく漏れ入り、屋内に舞う埃を静かに照らしていた。さらに淡い光は冷たい石の床まで届き、身廊にひかれた絨毯を暗い群青に映し出す。青い道は玄関からまっすぐに連なり、せりだしたような二階部へと続く階段にむかって伸びていた。
「いらっしゃい、あなたがシシルさんね」
 階段の上から、なにやら古めかしいドレスを着た女性が少女を出迎えた。彼女もここの使用人だろうか。ところどころを紐で結い上げたその服は、凝った造りではあるが、決して貴族の着るような高価なものではない。ただ遠目から見ても、女性は造り物めいたほどに美しかった。
「さあ、ジューヌはこの奥にいるわ。遠慮せずに入ってらっしゃい」
 ジューヌ伯爵。少女――シシル――の新たな主人の名を、女は呼び捨てにした。相手の正体を計りかねるまま、シシルは呼ばれるままに踏み出した。動いたとたん、背中の扉が軋むような機械音とともにひとりでに閉じた。少し薄暗くなって、余計に背筋が冷たくなる。
「驚いた? ジューヌの趣味で、ここはからくり屋敷になっているの」
 表情を変えずにそう説明する女性の顔は、美しかったが、どこか人形めいて不気味だった。それでも、繰られるように手招きする女性に従い、シシルはさらに身廊を進んだ……と、突然絨毯が動き始めた。いきなりのからくりにシシルは尻餅をつき、そのまま絨毯に運ばれて階段の下まで流された。
「くすっ」
 見上げた先、階段の上で女が笑いを零すのが聞こえた。声は笑っていたのに、顔は無表情のままだった。シシルを見つめる翠の瞳は、冷たい宝石のように茫洋と濁ったままだ。
 女が階段を下りてくる。足音はなく、衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。シシルは怖くなり、すぐにもその場を逃げ出したかったが、腰が抜けてへたり込んだままどうしたって体が動かない。恐怖に身動きが取れないでいるうちに、女はシシルのすぐ前までに近づいていた。
「さあ、手を貸すわ」
 女性の手の差し伸べ方があまりに優雅で、生身の人間を相手にしている気がしなかった。焦点の定まらない視線に逆に竦んでしまい、シシルはおずおずと女性の指に手を伸ばした。陶器の様に滑らかな、女性の真っ白な指先は、冷たくて……
「そんなに驚かないで。ジューヌはからくり好きだと言ったでしょう」
 いたずらっぽく声だけで笑いながら、差し出された指先は、陶器のように硬かった。

「あなたは、人間ではないの?」
 陶製の指に手を引かれ、シシルは階段を昇っていた。
「ええ、私は人形よ。ジューヌの操り人形」
 比喩ではないのだ。人形のように美しい彼女は、ジューヌ伯爵の操る陶器の人形らしい。二階に上がり、引かれるままにせりだしの廊下を歩みきったところ、木目の走るひときわ色の暗い木質の扉に行きついた。
「ここがジューヌの部屋よ。さあ入って。歓迎するわ」
 促されるままに女を抜いて扉に向かうと、見えない線のようなものに引っかかってしまった。引きずられるように、女の体が床に崩れ落ちる。
「気にしないで、中にお入りなさい」
 異様な姿勢のまま、笑いをこらえているような女のいかにも楽しげな声が聞こえた。精緻で美しい人形が、関節をおかしなほうに折り曲げてわだかまる。不気味を通り越してしまい、シシルは自分でもよくわからない笑みを浮かべてしまった。
 絡まった操り人形の琴線をほどき、暗い木目の刻まれた扉を押し開く。重い木製の扉の持ち手は、シシルを導いた人形の手よりは温かい。
 換気をしていないのだろう。少し湿気じみた部屋の空気は冷たい外の空気と混ざり合い、不思議なけだるさを感じさせた。薄暗い部屋には、大小様々な人形が並べられている。等身大の女の人形。掌ほどの小人の人形。仮面の道化。熊や狼のぬいぐるみのような物もあれば、今にも動きだしそうな醜悪な怪物を模した物もある。狭い部屋には、中央の一組の椅子と机の周りを除いて、人形たちのせいでほとんど足の踏み場がない。
「ジューヌ伯爵さま……」
 見たこともない主の姿は、見渡す限り、見当たらない。並べられた人形たちはどれも生きているように精巧で、八方から感じるその視線が、耐えられないほどに居心地が悪い。
「ようこそ。ナシャの出迎えは気に入ってくださったかな」
 どこからか声が聞こえた。よく通る低い男の人の声だった。しかし声の主の姿は見えず、周りの人形たちがしゃべっているのではないかという、奇妙な感覚を受ける。
「私がジューヌです。あなたのことは、シシル……と呼んでいいですか?」
「……はい」
 姿の見えない問いかけに、シシルは小さく返事をする。
「ではシシル。ご覧の通り、私は少々変わり者ですが……それでもよければ、ここを自分の家だと思ってくつろいでもらえたらと思います」
 姿は見えない。しかし声は聞こえる。視線も感じた。人形ではない人の目が、自分の動きを監視しているのが感じられる。
「あの、あたしのお仕事は……」
 姿は見えぬが、確かに感じる存在に、シシルは恐る恐る尋ねかけた。女中として館に出向いたシシルが、ただくつろいでいるわけにもいかないだろう。
「仕事……? ああ、そういえばお手伝いさんとして来てもらったんでしたね。大丈夫、シシルに働いてもらおうなんて思っていません。シシルにはこれまで通り、楽にしてもらって構いません」
「あの、でも……」
「まだ訊きたいことがあれば、ナシャに訊ねてください。さあ、もうこの部屋からは出て行きなさい」
 言い募ろうとしたシシルだったが、姿の見えないジューヌの、穏やかな声音で追い出された。ナシャとは、先ほど崩れた美しい人形のことだろう。主の姿をまみうることなく、シシルの、人形館の第一日目が始まった。姿を見せない新たな主。ジューヌ伯爵は少し変わり者だと、シシルは思った。
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