ポドールイの人形師

1-2、朝餉

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 寝てしまっていた……。
 目を覚ました所は見知らぬ部屋だった。まだ半覚醒の頭で、シシルは人形館に逃げてきたことを思い出す。部屋は清潔に片付けられ、カーテンや絨毯が女の子らしく淡い薄紅色で統一されている。シシルのために、わざわざあつらえてくれたのだろう。ここが幽霊屋敷のような寂れた館の中だと思うと、その内装は明らかに浮いていた。気を遣わせてしまっているのかもしれない。この恩に応えるためにも、女中さんとしてがんばらなければならない。ふん、と小さく鼻息を付き、シシルは決意を改める。
 とりあえず寝台の上、一日ぶりの羽毛布団の感触を抱きしめる。柔らかい。それでも夜を強行しての逃避行で、汗と泥にまみれた体は、寝起きのけだるさに不快な疲れを呼び起こす。纏わる長い髪が埃っぽくて、頭が痒くてたまらないにも関わらず、寒すぎるポドールイの朝に布団から抜け出る気にはなれなかった。
 ふと、ノックの音が聞こえた。シシルはそのまま寝たふりを決め込もうと思ったが、ここが自分の屋敷ではないことを思い出し、しぶしぶながら起き上がる。小さな子供でもあるまいし、世話になりながらいつまでも布団に潜りこんでいるのでは家格を疑われる。シシルが寝台から這い出て、軽い若木の扉を引き開けると、美しい人形が待っていた。
「ナシャさん、おはようございます」
 シシルは儀礼にのっとり、汚れたスカートの裾をつまみ、お辞儀をした。頭を下げた拍子に、ぼさぼさの髪がシシルの顔の前に垂れ落ちる。薄汚れた自分の姿を思うに、シシルは恥ずかしくて、相手が人形といえどもまともに顔をあげることもできなかった。
「朝餉の前に、湯浴みにしますか?」
 そんなシシルの様子をおもしろがっているのかもしれない。ナシャの声には少し笑っているような調子がある。とにかく、ナシャの提案は願ってもないものだった。お風呂に入って、早く旅の汚れを落としたい。流れる髪に顔を隠したまま、少し気まずいながらも、お願いします、と応えて、シシルは朝ご飯の前にお風呂を借りることにした。

 案内された地階の浴室は、光源がなく、朝だというのに薄暗い。暗いお湯の湛えられた湯船に体を浸す。波紋が広がり、船縁で静かに跳ね返る。少し、お風呂が狭いと思った。これではあまり、泳げない。長い髪の毛が、水面いっぱい、湯船に広がる。染み入るようなお湯の熱さに、旅の汚れが溶け出るような感覚を覚える。ほだされるように、シシルは一つ、息を吐いた。昔はお付きの侍女が、体を洗うのを手伝ってくれた。思えば一人の入浴など、記憶にない。
「カロル……」
 暗い天井を見上げ、仲のよかった侍女の名前を零してみる。一人きりで、わからないことばかりだった。純粋に、会いたいと思った。

「うふふ、お風呂に入るのを手伝って、と言われた時は、どうしようかと思ったわ」
 暖炉の焔に照らされて、人形とシシルの影がゆらゆら揺らめく。お風呂から上がったシシルは、ナシャに洋服を見繕ってもらっていた。小さな暖炉のわずかな火気では、照明としてはともかく、暖房としては役不足らしい。冷たい空気が乾ききらないシシルを包み、蒸気を白く凍らせる。白い湯気を昇らせて、タオルにくるまれたシシルは、恥ずかしさで消え入りそうになっていた。
 ここにきた時から、なにもかも一人でやろうとは思っていたのだ。だが体を洗う際にカロルがいなかったとき、シシルはすっかり途方に暮れてしまった。自分では背中に手が届かないし、なにより膝まであろうかという長い髪を、とても一人では洗えない。気負いが大きかった分だけ、ナシャの手を煩わせてしまったことへの恥ずかしさも大きくなった。冗談めかしたナシャの言葉すら、まるで言外にシシルが一人ではなにもできない子供だと呆れられている気がしてしまう。濡れた長い髪をタオルで押し絞る。物心ついたときから伸ばしてきた髪を、十三年の人生で、こんなにも疎ましく思ったのは初めてだった。
 ナシャは、なにやらひどく凝った造りの洋服を取り出してきた。ゴシック調というのだろうか。ナシャの着ているものもそうだが、あちこちを紐で結わえたり流したりして飾られた洋服は、どこか浮世ばなれしてみえる。加えてナシャの見繕ってくれたそれは、子供のシシルの体に合わせられているので、まるでお人形服のようにも見えてしまう。
「どうかしら?」
 ナシャとほとんどお揃いのようなその服は、細々と飾られてはいたが色合いがおとなしく、それほどいやらしくはない。とはいえ、とてもその服を着る気にはなれなかった。目の前にナシャが、美の権化のような人形が立っている。人形相手に劣等感を感じるわけではないが、同じ格好で横に並べられるのは、少し嫌だった。
「あたしは女中さんなんですから、もっとこう質素な服が着たいんですけど」
「あなたは貴族でしょ」
 こともなげにナシャはそう言うと、シシルの意思にかまわず着付けを始めた。選択権のないことを悟ったシシルは、おとなしくナシャに身を委ねる。
「シシルさんが無理をする必要はないわ。楽にしてくれていいと言ったでしょう。こんなところに逃げてこなければならなかったのだって、シシルさんはなにも悪くないのよ」
「……ナシャさん、知っていたんですね」
 シシルの素性を知っているのは、ジューヌ伯爵だけだと思っていた。貴族時代の自分は忘れ、一平民として伯爵の女中になる決意でここまで逃げてきたのだ。だが現実は、伯爵もナシャも、シシルのことを何もできないただの貴族の娘として扱おうとしている。実際その通りだった。何もできず、恥をかいただけだ。今朝胸に思ったばかりの、がんばろうと決めた決意が、早くも虚しく感じられた。
「知っているのはジューヌだけよ」
「でも、あなただって知っていたでしょう」
 ナシャはその口で、あまりに見え透いた矛盾を言った。無意識にシシルの返答は、冷たく高慢になってしまう。
「私はジューヌそのものだから」
 意味の飲み込めないシシルに、ナシャは、『ふくわじゅつ』と、そう言った。
「ほら、私はジューヌが操っているの。この声もジューヌが出しているのよ。今は私が話しているとシシルさんは思っているけれど、たとえばあの扉から声が聞こえると思ってごらんなさい」
 訝しみながらも言われたとおりに、シシルは木枠の戸口に意識を集中してみる。言われてみれば。なにやら発声練習を始めたナシャの声は、扉から聞こえてくる、ような気もする。
「ほらね」
 あっけにとられてナシャの顔を見入るシシルに、笑みを造れないナシャは、小さく首を傾げてみせる。
「だから、私はジューヌそのものなの。あなたの素性は、ジューヌだけしか知らないわ」
 扉から聞こえてくるような気がしてしまうナシャの声を聞きながら、シシルは頭の中で状況を整理していた。それはつまり……
「もしかしてジューヌさま、あたしのお風呂も、着替えも全部覗いていたんですか……?」
「え、まぁ、確かにそうだけど。でもシシルさんはまだ子供だし、いやらしいこととか考えていたわけじゃないし……」
 この期に及んで、まだナシャを演じるジューヌ伯爵も見事ではある。だがしかし、言い訳の余地はなかった。
「ジューヌさまの……へんたい!」
 シシルの叫び声が、人形館に響き渡った。

 白いテーブルクロスをかけた長いテーブルの上に、朝食の皿が並べられる。メインはフレンチトーストだった。赤いラディッシュが添えてある。飲み物は温められただけの、真っ白なミルクだ。湯気の立つカップには、たんぱく質の薄い膜が張っている。なかなかにうれしい。こういう庶民的な食べ物も、一度食べてみたいと思っていたのだ。
「どうかしら?」
 ナシャはお皿の両側にナイフとフォークを丁寧に並べ、シシルの首にナフキンをかけてくれた。
「ここにはジューヌしか住んでないから、めったにちゃんとしたお料理を作ることはないの。こんなものしか出せないけれど、口に合うかしら」
 質素な食事しか出せないことを、ナシャは気にしているようだった。シシルとしては十分に満足できるものだったので、大丈夫よ、と言ってあげたいところだったが、あいにくシシルはまだ怒っていた。ジューヌ伯爵はナシャを使って、シシルのお風呂や着替えまで覗いていたのだ。伯爵は謝るどころか、姿さえもあらわさない。悪気のあるなしに関わらず、そういう態度が気にくわない。
 シシルはツンと意地悪な表情を造ると、黙々とナイフとフォークを動かした。柔らかなパン片を口に入れると、シナモンシュガーの甘い香りに柔らかな温かさが口いっぱいに広がって、体の芯からとろけそうだ。
「おいし……」
 つい口に出そうになった言葉を、慌てて飲み込む。長いテーブルの正面に腰掛けたナシャを見やると、無表情なままながらも、首を傾げる様がどこかうれしそうに見えた。なんだか負けたようで悔しかったシシルは、こうなってはと、沈黙を破って今度は反撃を試みる。
「ジューヌさまは朝ご飯をもういただいてしまったのですか。一人で食べるのも寂しいので、よろしければご一緒させていただきたいのですが」
「ジューヌも一人で寂しくご飯を食べてるわ。本当はジューヌもシシルさんと一緒に食べたいと思っていたのだけれど、思いがけずシシルさんを怒らせてしまったから隠れているの」
 冗談めかしてそう言うナシャの顔は、あいかわらず美しく凍りついたままだった。食事のいらないナシャは、茫洋とした翠の瞳で、ただじっとシシルを見つめていた。相手が人形とはいっても、美しすぎるナシャを前に、意識しないのも難しい。
「ナシャさんって、綺麗ですね」
「まあ、ありがと。私はジューヌの初恋の人に似せて造られたのよ」
 自分も突拍子のない発言だったが、それにもまして思いがけないナシャの返答に、シシルは思わず顔をあげる。シシルとて年頃の女の子だ。そんな話を聞き逃がせるはずもない。
「誰なんですか?」
「うふふ、秘密」
 シシルがなおも食い下がろうとしたところ、突然、外から破砕音が轟いた。金目の黒いカラスが、シシルらの部屋に飛び込んできた。
「あらディディエ」
 金目を光らせ、黒羽を纏った大きなカラス。表の盛大な破砕音と時を同じくして現れた予期せぬ珍客に、ナシャはのんびりと対応する。
「クヴァ、クヴァ」
 カラスはシシルの前、フレンチトーストの皿の傍らに降り立つと、不思議な鳴き声をシシルの顔前で吐きつけた。
「自己紹介をしているわ。こんにちは、私の名前はディディエです、ですって」
 ナシャはそう言うものの、ドスの利いた鳴き声はとてもそんな風には聞こえない。半開きのくちばしから涎を垂らす黒い猛禽は、獲物を前にした残酷な征服者を思わせる。怪鳥はその大きな体に不釣合いな小さな金の瞳で、ぎろりとシシルを睨みつける。刺すような眼差に、シシルは脅されているとしか思えなかった。
「ディディエさん、……食べますか」
 恐怖に体を引きながら、威圧的でものほしげな視線に気圧されて、トーストを一切れ、シシルは手だけでフォークを差し出した。
「クヴァー!」
 シシルの差し出したフォークには見向きもせず、ディディエは皿に直接頭を突っ込んだ。見るも無残に、柔らかなトーストがディディエの黒い嘴についばまれてゆく。その様を、術なく、シシルはただ涙を浮かべて眺めているしかできなかった。
「クゥクヴァ」
「ありがとう、ごちそうさま、……ですって」
 ディディエの元気な鳴き声に反して、ナシャの通訳の語調が弱い。ナシャも、対応を図りかねているようだった。
「クヴァクーヴァ」
「私のことをお姉さまと呼んでもいいわよ、と言ってるわ……」
 思いがけず、ディディエは女の子だったらしい。しかしそんなことよりも、恐怖と、トーストを奪われた無念でシシルは完全に硬直していた。ディディエは訝しげに首をかしげると、思い出したように、差し出されたままのフォークからトーストの最後の一切れを食いちぎる。くちばしを閉じて食べることのできないらしいディディエは、柔らかなパン切れを、くっちゃくっちゃと嫌な音をさせながら飲み下した。
「それで、ディディエ、あなたはシシルさんに挨拶するために、わざわざ入ってきたのではないでしょう?」
 ナシャに問われて、ディディエは百八十度、シシルに向いていた首をナシャの方向へ回転させると、クヴァー、と恐ろしい声で鳴いてみせた。
「やっぱり。外で何か壊れたようだから、そうじゃないかと思ったわ」
「ねえ……ナシャさん、どうしたの」
 眼前のディディエにいまだ怯えながら、カラスと人形の間で完結してしまった会話に加わろうと、シシルはナシャに問いかける。
「魔女のドロティアさんが訪ねてきたそうよ」
 魔女。人形に化けカラスに、今度は魔女と。またいかにも物騒そうなお客さんだと、シシルは思った。
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