ポドールイの人形師

1-4、かくれんぼ

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「ごめんなさい、ごめんなさい。お願い、許して!」
 ドロティアはシシルの額の上に軽く手をかざした。不意に感じた熱い感覚にシシルは一瞬身を退くが、やがてその心地よい温かさとともに額の痛みがひいてゆくのを感じると、目を瞑って、おとなしくドロティアの力に身を任せる。おとぎ話にしか聞いたことのない魔法の力。今シシルは、身をもってそれを体験している。人形館も、美しい陶人形も、姿を見せない館の主も、なにもかもが不思議な夢のような気がしてくる。
「ごめんなさいね」
 閉じた瞼のむこうに優しい光を感じるのとともに、ドロティアの美しい声が聞こえてくる。今さっきまでの取り乱した慌しさはすでになく、ドロティアは抑揚なく韻律的な発音で、唱うように言葉を発した。
「私はシシルちゃんをジューヌが操るお人形だとまちがえていたの。すべてジューヌが悪いのよ。だからシシルちゃんに代わって、必ずジューヌに制裁を加えてあげるからね。安心してね」
 夢の中で抗いがたい宣告を受けるように、シシルは知らずのうちにドロティアの言葉に引き込まれていた。操られるままに、シシルは、はい、と唇を動かした。朦朧とした心地の中、その言葉が空気の振動となって、ちゃんと発音されたかどうかすらも心許ない。しかしゆっくりと目を開けると、異国めいたドロティアの美貌が、満面に狡そうな笑みを浮かべていた。シシルの言葉はしっかり届いてしまったらしい。
「ドロティアさん、シシルさんに催眠術をかけて抱き込まないでください!」
「黙らっしゃい」
 ナシャの投げかけた非難の叫びを、赤衣の魔女が小さな爆風を起こして粉砕する。
「さあ、シシルちゃん。このドロティアに任せなさい。シシルちゃんのためにも、必ずあの変態ジューヌに制裁を加えてやるわ。ところでジューヌはどこかしら?」
 催眠術……。ジューヌ伯爵はシシルを、腹話術を使ってたばかった。一体ここの人たちはシシルを何だと思っているのか。
「きのうまでは、この廊下の、あっち側の突き当りの部屋にいたみたいです」
 特にジューヌ伯爵を魔女から救う義理も思い浮かばなかったシシルは、諦めた心地で、初日ジューヌの部屋と案内された先を指し示す。ナシャの慌てた様子からして、伯爵はまだそこにいるのかもしれない。
「素直な子は好きよ」
 シシルの頭をちょんとつついて、ドロティアはジューヌの部屋へと歩を進めた。途中立ちふさがろうとしたナシャはドロティアに見えない琴線をひっぱられ、あえなく足元に崩れ落ちる。心地よい靴音にあわせて揺れる魔女の豊かな銀髪を眺めながら、一人取り残されたことに気付いたシシルは、慌ててドロティアを追いかけた。

 相変わらず、空気の淀んだ部屋だった。香ばしい黴の匂いにいざなわれるがままにシシルたちが部屋の中に足を踏み入ると、前の日と同じように人形たちの無遠慮な視線にさらされる。ただ今回は、傍若無人ともいえる魔女の背中に隠れることができたので、八方からの視線にも、シシルは前回のような居心地の悪さは感じなかった。
 等身大の子供の人形。手のひらほどの小人の人形。仮面の道化。熊や狼のぬいぐるみのような物に、今にも動きだしそうな、醜悪な怪物を模した物。
 前に見たときと同じように、彼らは静かに座っている。あまりにも精巧な彼らの姿は、ふとすると今にも動き出しそうに思えてしまう。彼らが生きたまま、時間を凍らされた生き物たちだと言われても、シシルは信じてしまうだろう。
 唯一確かに鼓動を感じる、銀髪の魔女にできる限り寄り添って、シシルはそっと赤い長衣のひだを握りしめる。
「いるわね。殺してくれるから、出てらっしゃい」
 声高に叫ぶドロティアの言葉に、人形たちはただ沈黙を返すのみだ。
「そーお、ジューヌ、そういうつもりなんだ」
 ドロティアが手をかざすと、紫紺の目の等身大の少年の頭が吹き飛んだ。シシルは血がはじけるのではと怖れたが、高い音の反響とともに散ったのは、ただの白い、陶器の欠片であった。
「次」
 おもしろくなさそうにドロティアが、蹲る仮面の道化に照準を合わせたところ、突然化け物――牛頭人身の怪物――を模した人形が動き出した。シシルは思わず握りしめる手に力を込めてしまい、ドロティアの長衣が少しはだける。
「わ、私がジューヌです。ドロティアさん、やめてください。私の作品たちを壊さないでください」
 不安定に大きな角を揺らす牛頭の化け物、ミノタウロスのぬいぐるみが、その醜悪な姿にはそぐわない気弱な声で話しはじめた。
「ふーん、自分から出てくるとはいい度胸じゃない。じゃあジューヌ、約束どおりに殺してあげるわ」
 道化に向けられていたドロティアの手のひらがわずかに翻り、醜い獣頭に向けられる。ひときわ大きな爆音に、鋭い閃光が視界を奪う。
「ド、ドロティアさま。今、中にジューヌさまが入っていたんじゃないんですか? 本当に死んじゃいますよ」
 ようやく回復してきた視界に、今度こそ伯爵の血煙の漂うのをシシルは覚悟する。だが弾けとんだ牛頭のあった辺りには、白い綿毛が舞っていただけだった。立ち尽くすミノタウロスの首から下の背後からカラスが現れ、一声割れた鳴き声を上げると、開け放したままの扉から飛び去った。
「そのつもりだったんだけど、ただのぬいぐるみだったわね。この部屋にあった気配はディディエ……か。ジューヌめ、必ず見つけ出して晒してくれるわ」
 忌々しげに舌打ちをして、ドロティアは踵を返した。カラスのディディエとドロティアが出て行った部屋には、シシルが一人取り残される。
 主の生命の危険が切に感じられたシシルは、佇む頭のないぬいぐるみの後ろで、仮面の道化が小刻みに震えているのを見つけたことは、ドロティアには内緒にしておくことにした。

 左右を赤と白に塗り分けられた仮面。目の辺りに小さな穴が二つあり、そこから外が見えるのかもしれない。先ほどまでガタガタ震えていた道化は、膝を抱えた姿勢のまま、今は周りの人形たちと同じように静止していた。
 しばらく仮面の道化と睨めっこを続けたシシルであったが、道化が動く気のないのを見て取ると、ドロティアを追おうとするかのように体を反転させた。しかし後ろでは止まらず、片足を軸に体を一回転させる。スカートが空気を含み、ふわりと浮き上がった。
「ジューヌさま、なにをしてらっしゃるんです」
 一回転したシシルの視線の先には、中腰のまま不自然な姿勢で固まった道化の姿があった。所在無くもとの姿勢の戻ろうとする道化に、シシルはつかつかと歩み寄る。
「ジューヌさま」
 仮面に手をかけようと伸ばしたシシルの腕から、道化は反射的に身をそらす。ジューヌ伯爵を見つけた。数瞬気まずい空気に、時間が止まった。
「……見つかってしまいましたね」
 仮面を俯けたままに及び腰で、どこか申し訳なさそうに道化は口にした。
「シシル、まだ私を怒ってますか?」
 道化の気弱な言葉に、シシルは今さっきまで自分が伯爵のことを怒っていたのを思い出す。ドロティアの苛烈さにすっかり忘れてしまっていた。自分の感情がその程度であったことを思い知ったシシルは、苦笑しつつも首を振る。
「もういいですよ」
 シシルがそう言うと、道化は気が抜けるような安堵の溜め息を吐いてみせた。
「では、私は今から悪い魔女から逃げねばなりません。シシルも一緒に逃げますか?」
 ジューヌ伯爵の言い草に、シシルは思わず笑ってしまう。声を漏らしてしまった口もとに、道化は慌てて人差し指を持ってきて、しー、とシシルを窘める。
「それで、シシルも一緒に来ますか?」
 小さな声で、仮面の道化がシシルに囁いた。
 はい、と大きな声で叫ぶかわりに、シシルは大きく頷いた。
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